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片親の僕が思う、父親像

4年前、ちゅるじろ家に娘が産まれました。
今のところスクスクと育っており、何ら問題ないと病院や検診では言われていますし娘の成長に関して言えば問題ないのでしょう。
問題は父親、つまり僕、ちゅるじろの事です。

2歳ぐらいの時に両親が離婚しました。
母親が親権を取り父親との面識はありません。
物心ついたころには父親の姿はありませんでした。
母が再婚した事もあってかイジメを受けたこともないし差別にあった覚えもありません。
ただ僕の妻が妊娠した時に”父親”になれるのか酷く不安になる時期がありました。

母が再婚したのは僕が6歳になる前後。
小学校に上がるまで、母方のじいちゃん・ばあちゃんと4人で暮らしていました。
僕にとっての家庭とはその4人だけでした。
それまでの短い人生で見ても満足していました。

ある日、母から「お父さん欲しい?」と聞かれました。
そして僕は「いらない」と答えました。
しかし、幾日か経って、そこに新たに父親を名乗る男性が現れたのです。

今だから言語化して言えますが、異物としか思えず悩みました。

母の再婚後、アパートへの引っ越しや校区の変更等々、急激な環境の変化が怒涛の勢いでやってきました。
じいちゃんとばあちゃんと離れて暮らすのも嫌だったし、
近くに住んでいた幼馴染の友達とも離れ離れになったし、
突然やって来たよそ者がルールやマナーを敷き、
慣れていないマナーやルールの事で叱られるのも、
叱られた時に頭を叩かれたり耳を引っ張られるのが凄く嫌でした。
何度も泣きました。
5歳まで育った環境とあまりに違い過ぎるのです。

結局、僕が27歳前後で母親と彼は離婚し晴れて他人に戻りました。
文化の違う彼とは最後まで仲良くなる事はありませんでした。
再婚当時から、これが世の中の父親なら父親なんて要らないと思っていました。
叩かれなくても、耳を引っ張らなくても口で言えば分かると何度も思っていました。
小学生の頃は家に帰りたくなくなっていました。
家出もしました。

そういった生活を送る日々で僕の中の父親像は「この人ではない人」あるいは「こうして欲しくない」という個人的願望となって否定的なネガティブな物に代わっていきました。

そんな僕も成長し、結婚する事が出来ました。
結婚する前に妻にも話しました。
僕の父親に対する像は歪んでいる、と。
妻は「自分がされて嫌な事をしなければ、それで良いんじゃないか。」と言ってくれました。
父親は初めから父親ではなく、子供と共に成長し父親になるのだから、と。
今、娘と対峙する時の心の中にあるのは、僕が子供の頃にして欲しくないと思っていた事をしない、その父親の像を握りしめながら手探りで父親をしています。

おもちゃを理由なく捨てない。
怒るときに手を出さない。
感情的に大きな声を出さない。
TVばかり見てコミュニケーションをないがしろにしない。

これ以外の部分はじいちゃんを参考にしています。

一緒にお土産のお菓子や果物を食べた事。
みかんのうす皮をむいてくれた事。
金曜ロードショーを一緒に見た事。
自転車の練習で後ろから押してくれた事。
出張から帰ってきたら抱っこしてくれた事。
夏休みの宿題の自由工作を危ないからと、全て自分でやってしまい僕が作るはずだった椅子を完成させてしまった事。

じいちゃんと過ごした思い出の中で嬉しかった事や思い出に残っている事を列挙してみました。
これが父親像だとすれば、いくらか救いがあります。
きっと楽しい思い出だけではなく、清濁合わせて父親像だとは思いますが。
僕の場合、それが2人以上の人間を参考にしているから歪んで見えるのでしょう。

娘と接する時、僕はどんな姿に映っているのだろう?
彼女にとって僕はちゃんと父親出来ているのだろうか?

妻の言葉を借りて言うならば、僕の中の父親像は娘が成人しても成長を続け、いつしか父親像から祖父像に代わっていくのでしょう。
だったらせめて娘の中の父親像は明るく愉快で優しい、次の代に引き継いでほしい所だけが残るように設計していきたいなーと思う次第です。

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