見出し画像

第7回六枚道場感想

○たへんおそくなりました。感想を書くのも随分久しぶりな感じがしますが、読みの助けになればと思います。並行して前回・第六回の感想も書いていく予定です。

方針
①ハギシンキャスとコラボしつつ、第七回を読み進める。
②前回参加者の作品は同時に感想を書く。
③今回のみ参加者のところで、前回のみ参加者の感想を書く。
④前回「第6回」は全文書き上げた段階で公開する。

007A

1. 「ヨコバイの物語」化野夕陽さん

六枚道場の感想として「この内容を六枚で」「六枚だからこそ」と僕も言いがちだけれど、それを越して「ちょうどいい」感じがした一作。なにかと起こる事を壮大にしがちな自分にとって、なんでもない日常を一つ小さく盛り上げる作品には勉強するところが沢山ある。
本作の中心は「ひねくれ者」のお姫様が出てくる伯母の創作おとぎ話だけれど、対して語り手の主人公は「カッコイイ伯母が大好きだったので」「愛嬌のある歩き方が可愛いからだ」など、素直さが際立つのが面白い。作者に質問したところ、中学三年生くらいを意識されたということ。そのくらいの歳の、ちょっと世の中を斜めに見ているという一般イメージの奥にある、ちいさな素直さを拾い上げるのは流石と言う印象。「その王子は早死にしたのではあるまいか」という、直感的な気付きも素敵。
伯母さんは、きっとこれまでいろんなことがあったのだろうし、それを童話に込めた感じもあるが、それを直接いうでもなく、かといってひた隠しにしてヨコバイの説明を生物学的知見に収めるでもなく、童話の形で伝えるのは、相手に対して「適切な距離で受け取られるだろう」という信頼のなしうる業だろう。これは「私」と「伯母」の心地よく小さな親愛の表現でもあるし、作者のアカデミズムに対する期待と信頼の表れでもあるように思う。

2. 「新世代ほしぺの本棚」夏川大空さん

平仮名の造語の連発が面白い。ちょっと児童小説チックで読みやすい。
「実はこうでした」というオチのある小説を書きがちな同志として、いつも念頭に置いているのは「オチのための文章になっていないか」と言うことで、この作品も早い段階でネタが割れてしまったのだけれど、「実は……」の部分の他に考える所がなかったら、そう高く評価しなかったかもしれない。けれどネタが公開された後の数行にとても大事なことが詰まっているので文句なしに名作だと思って一票を投じた。
キャスでも少し触れたけれど「調査検討の結果、人類は生かすに値しない下等生物だった」「人類は地球を食い物にしている癌細胞だ」的な言説は近年広く流布して、一つの「正義の悪」の典型となっている。僕はこの言説について確かにと思う一方で、疑問を感じている部分もある。というのも、そうやって人類を滅ぼしにかかる外来知的生命体の侵略動機が「害となるものは排除するのが合理的」「価値の有無で相手の生存権が決まる」という、その作品が批判したいはずの「きわめて人類的な」思考を模倣してしまっており、そこに想像力の限界を感じるからだ。その外来生物の思考は「高度な知的生命体」のキャラクタライズとして果たして正しいのか。
本作では「低次元で愚かな生き物だが、気まぐれで側にいるのもいいのではないか?」と結論付けられる。そして最終文として「少なくとも、我々は宇宙で孤独ではなかったのだから」とくくられる。この二文だけでも読み返すたびぞくぞくしてしまう。こんなに素敵なまなざしはなかなかお目にかかれない。「高度な知能を有する」ということは「相手の立場を想像し思考する」ことであると本作は強く主張する。そのうえで、相手の立場に立つ余裕を持ち合わせない我々は未熟や低俗というより「孤独」なのだと反語的に突きつけられる。これが深く刺さる。もっともっとたくさんの人に読まれて欲しい一作だった。

3. 「“Grillen” op. 12-4」岩﨑 元さん

岩崎さんは以前の六枚道場で別名を使い三部作を書き上げた方で、その時は内容のセンセーショナルさも相まって一部で物議を醸していたよう。今回(と前回)はその刺が若干柔らかくなってとっつきやすさが出ているが、文章が巧みで独特なのですぐに誰の作品かわかってしまう。三部作を想定されているのか、前作との(テクスト外の)繋がりもあって、読後の最初の感想は「またか!」となって大爆笑だった。
戦争描写についての感知度の高さは、これは世代だろうか。研究の関連でグラスやエンデに触れていると、その過程で先の大戦やユーゴ紛争、湾岸戦争について触れることになるのだけれど、僕自身、物心ついた時にはそれらはすべて過ぎ去ったことのようにとらえられ、自分たちの世代で戦争と言えばイラク戦争だがそれさえ遠く離れた出来事というくらいの認識しかなく、紛争地域で非道が尽くされていることは知識としては知っているが、センセーショナルな出来事として身体に沁み込んでいない。紛争地の問題が歴史の教科書の年表のように「終結」することなく、ずっと形を変えながら今日まで続いているのだと気づくのはずっと後、成長してからのことだった。その認識差に断絶はあるのだろうかと想像する。本作における、のっぴきならない雰囲気や曇ったような晴れたような思考がコメディアンの出現によって一切の効力を失う様なカタルシスも、前者の重さを身体に知っている世代の方がより面白く味わえるということはなかろうか。何にせよ次で完結と言う事なので続きを楽しみにしたい。


007B

4. 「雨は半分やんでいる」中野真さん

やかんの笛が鳴る仕組みが空力音響学的に解明されたのは2013年、それまで100年間は、音が鳴るものは作れるが、その理屈が解明されないまま、ご家庭の台所でお湯の沸いたのを知らせていたことになる。世の中は案外厳密ではなくて、何が何だか明文化・言語化できないままに解決法や対処法だけが確からしいものごとであふれている。本作における主人公は不安や焦燥の表現方法も向ける先も分からないまま、雨の日の車に乗ることでそれを一時的にでも軽減できる術だけは掴んでいる。そこがいじらしくも心地よいし、多くの人が余り語りたがらない部分をよくとらえていると思う。
冒頭の冷蔵庫のシーンなんか、動作が一つ一つ説明されて、筆致も丁寧に解像度も高く思えるけれど、心ここにあらずと言うか、今に焦点を絞ることへの執着と焦りから目の前がうまく見えていない様子。これが車に乗った後の赤信号のシーン(「ガラス越しではない路面は銀色に輝いていて生々しい質感」)になると、描写の上ではいささか細かさに欠けるのに、冷蔵庫の時よりずっとクリアに読み取れる。もちろん「焦点があっているんだ」と明文化されているというのもあるかもしれないけれど、それを取り払っても、ちゃんと主人公の見ている世界がクリアに(≒素直に)変化したことが情景表現だけで示されているその技術がすごい。
作者の描く焦燥は一貫して実存に対する焦燥のように思う。それが自分と合致するので毎回推せてしまう。でもこれは確かに、何もない人や、目の前に現実的に立ちはだかるのっぴきならない問題を何とかしなければならない人の悩みとは質が異なるものだ。それを知ってか、主人公の「僕は恵まれている」という言葉がとても重い。何も気にせずに叫び散らして「甘えだ」「自己責任だ」と心無い言葉を浴びるまでもなく、そんなことは自分自身の中でもう何十回も反芻している、その生き辛さは安直に性格や性質へと還元できるものではない。歳をとって鈍感になるのを待つか、本作のドライブのような対処を後ろめたく続けるしかないのか、まだちょっと分からない。中野さんの年齢を詳しく知らない(聞いたかもしれないが憶えていない)けれど、ちゃんと今しか書けないものを書いていらっしゃるなと思う。

5. 「拝啓、「普通」の私」閏現人さん

難しい作者名だがみんな親しみを込めて「じゅんげんじん」もしくは「うるるちゃん」と呼んであげよう。中野さんに続いて自省的な問いをぐるぐるしている系の小説だけれど、大枠において似ている反面ちょっとアプローチが違ったりする。中野さんは一つ進むたびにその一歩を顧みるような展開が丁寧だ。閏君は一歩なんか気にせず突っ走るんだけれど、しばらく行ったところではたと立ち止まって、自分の周りに誰もいないのを不安に思って引き返してくるような筆致に特徴がある。また中野さんの作中人物のいら立ちはいつも自分に向いていて、それ自体が他者へのいら立ちを覆い隠しているような趣があるが、閏君の作品では逆に他者へ向けた全力のいら立ちを突き崩すことで自己言及に至っている。自己回収のプロセスやスパンにも個性が出るんだなと思い面白く読めたので、この二作が並んでいることがまずすごいと思う。
「普通」とは何かと言うのは僕自身の永遠のテーマで、六枚道場に出した作品でもずいぶんそのことを書いてきたと思う。それをここで語ってしまうと今後の作品がかけなくなるかもしれないので小さく言うにとどめるけれど、僕自身で言えば「『普通』など存在しない」という言葉には懐疑的で「確かに立ち現れる『普通』をいかにして掴むか」に執着している節がある。ここら辺は僕と彼との哲学の差かなとは思う。
ラストの展開とタイトルをどう読むかが難しい。私の中の自省的な側面が、表面で「普通」にふるまう私に向けた言葉なのか、「普通ではない」ことに悩む一個人が、「普通」と思しき誰か別の個人に向けて問いかけているのか、それだけで全体の読み方がだいぶ変わってくる。手紙という形式と最終行の鍵括弧の誘導で後者の読みかたをする人が多そうだけれど、どうなのだろうか。ともかく最後の台詞について好意的に受け取るかネガティブに受け取るかが読み手によって違うだろうから、感想を見るのが面白い。僕はこの一文については①「1-5ページにわたる語りの部分をたやすく乗り越えて1行で生きている器用さを、読者はどう評価するかの問い」②「作者自身が5ページ目までの語りから想像される読者の反応を先読みして仕掛けた爆弾」の二通りで読んだ。

6. 「タマコさんのはなし。」本條七瀬さん

これが良い事なのか悪い事なのかわからないけれど、僕はこれまでがっつり職場という環境で働いたことがないので、オフィス舞台の小説はどんなものでも新鮮な気持ちで読んでしまう。感触としては、やさしい世界とは言わずとも人の善性に期待するまなざしが心地よく、落ち着いた時間の流れに細やかなユーモアが映える。田島列島さんに漫画化してほしい(https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000327963)。
カッコつきで「人間関係」とか「コミュニケーション」というと濃密なものを想定しがちだし、かと思えばビジネスライクみたいな言葉もあって、人の距離の取り方はこんなにも難しい。不器用であればあるほどここらへんでこんがらがって分からなくなってしまったり、どちらか片方に振り切って社会不適合みたいに言われたりするのだけれど、本作では語り手とタマコさんとの確かな信頼の誕生を、直接の会話をほとんど一切せずに(タマコさんの唯一の声が植物に対するものなので)描き出しているのが面白いし素敵だなと思う。
タマコさんが植物に「大丈夫だよ。」と語り掛ける中盤のシーンで、僕は初めタマコさんが自分に言い聞かせているようなところがあるのかなと読んで、彼女も人に言えない悩みがあるんだと、けっこう辛い話のように思えたのだけれど、キャスの際中野さんが「新しく来た人工の観葉植物に対して励ましているんだ」とおっしゃって、それが素敵だったので作品の雰囲気もちょっと明るく思えてきた。人は結びついて溶け合って一つになるのではなく、ふっと連続して何かを託したり託さなかったりしていくものなんだなと考えさせられた。何もかもを分かった気になるのではない、こういうタイプのやさしさを身につけたい。

007C

7. 「亜音速ガール」小林猫太さん


思春期のパツパツに膨れ上がった自我の話は好きなのでちょっと欲が出ちゃう。「作家を少々」をこじらせていく女子高生は、はたして「百人が思い描く女子高生像をまとめて練り合わせて百等分したような女子高生」か?
こじらせ方はわりとサブカル方向に突き抜けていて、文体自体のスピード感も相まって女子高生感がとても良く出ているけれど、ふと立ち止まって見れば主人公は、Bグループの閏君の作品で言うところの「普通ではない」側に立ってやしないか。
もちろん、平凡な女子高生と言う自認があれば、別にそれが外から客観視した時の人物像と合っていないことなんてざらにあるのでいいんだけれど、舞姫に一定の感想を立ち上げ、カミュをたしなむユーモアを携えた女子高生が自分のことを「平凡」だと称するのなら、そこには語義以上の意味付けがあるのかもしれないと読んでしまう。
ようするに、本作の主人公は思考の端々で地頭の良さが出ていて、それは流行をよりたやすく波乗りするような器用さとはまた少し違うタイプなのではないかと思う。対して「言い換える言葉も見つからないので走れメロス」「そういえば進路希望を提出しなければならない」などは、これぞ平凡と言う感じでまた好ましい。
「後先考えない無謀さ」に憧れている所がとても良い。その後の展開もめちゃくちゃ好き。しかしやはりそれは「平凡」な女子高生の悩みではない。「平凡」な女子高生は、憧れる隙も無く加速して、たやすく音速を越えたところで流行ったり死んだりしていくイメージがある。そんな子たちが本作で語られたような悩みを論理として展開するようなことは、出来たとしてもしないのではないかと思う。これも一つのステレオタイプだろうけれど。
しかしはたと思い返せばこの作者は第二回で『私の先生』を書かれた方ではないか。なら、上記のことなんかは全部織り込み済みで書かれているのではあるまいか。両者の比較で言えば第二回の方が展開は物騒だけれど、主人公の感触としてはより「平凡」であり、今作ではきな臭いことはほとんど起こらないにもかかわらず「平凡」とすこし距離がある。そのズレと言うか、”ちぐはぐ”のもどかしさがとても面白い。

8. 「散弾」6◯5さん

かっこいい。読んでいる間こちらに相槌の余地を与えないような文体がひとまとまりの塊みたいに展開される。筋らしい筋もあるにはあるが、どちらかと言えば読んでいる方としても、なんだかムカつく事だけが共有でき、どこが壊れているのか考える時間などなく、でもどこもかしこもかわれているのはよく分かって、そうこうしているうちに視線がこちらを向いて閉じる。「散弾」のタイトルが輝かしい。弾の飛び交うなかにおいて、ぐだぐだ考えている余裕なんてないだろう、とでも言いたげな文章だ。
古いフォークソングは何を連想されたのだろう。岡林だと湿っぽすぎるし、フォークルだと優しすぎる。思えばフォークは好きだけれど、きれきれの歌はあまり知らない。フォークではないけれど、頭脳警察「銃をとれ」とか、どうかな。安直すぎるか。僕のこういう時のナンバーは大抵、吉田拓郎「ペニーレーンでバーボン」。言葉は強いが、学生運動の挫折を経過した年代の人でもあるので彼の歌には空虚さがある。

9. 「di‐vision」澪標あわいさん

素敵だあ。この方の作品にはいつもほのかに惚れてしまう。
知った道、通いなれた道、昔通ったことのある道は数多あってもそれは道それだけで存在しているものではないく、半分は自分の頭の中にある。道は、その実在の半分が人の記憶で出来ている。自分の方がもんやりと変質している時、だから知った道も違って見える。突発的な家出か、気分転換の遠出か、明示はされないけれど、主人公の少女の行く道は一本につながっているのに、彼女の思い出の中では、道は各々に分割されて異なった記憶を見せる(タイトル回収)。一つ前の、可読性を(意識的に)下げられた文体を一塊のままに浴びせられる「散弾」と、本作の、読みやすく進めやすい表現のままに奥のイメージが分断されていく筆致が対照的でまた面白い。
中学生が家を飛び出す話は何度も書いたのに上手くいった感触がなく、その足りない、欲しい所が本作にあって、なんというかズルい言い方かもしれないけれど、とても参考になります。ありがとうございます。
欲を言えば顛末が知りたいな。それは野暮なのかもしれないけれど。想像するに、主人公はそう遠い所へは行けず、彼女の満足するような地面を踏むことはかなわないのではないか、と思う。お金や能力の問題ではなく、思春期の少年少女の思い描く世界の広さと言うのが現実の世界の広さとは軸を異にするが故、遠くに行ける確信だけはあるのに身体の速度がそこに追いつかず、町を出ることも出来ないようなもどかしさ。やっとたどり着いた先にも同じような風景の広がっていることへの失望。子どもは見える世界を狭くして、それがあたかもすべて連続しているような幻想に浸ることで大人になっていくんですよね。

007D

10. 「すでに失われてしまった物語」Takemanさん

こんなの読んだら泣いちゃいますね。
この道場で二人称小説を書かれたのは、澪標さん「踏切」に続き二例目で、「踏切」が明確に作中の誰かを想定して描かれていたのに対し、本作では「あなた」が誰をさしているのかが伏せられていて(これは構造上仕方のない事だけれど)、序盤はストレートに「あなた=我々読者」として読み進めた。この誤読は本作の後半の展開へ十分につながるので全く問題はないが、僕が勝手にそれを「TRPGとか、占いとか催眠術やってるみたいだな」と思ってしまったが故にちょっと間抜けな文体に見えてしまった。ごめんなさい……しかしこのあたりは難しいところで、「あなたは~します」と言われた時にすんなりと文章の流れに溶け込める憑依タイプの読者と、「え、してないけど?」みたいに思う客観タイプの読者で読み方が解れるのかな。気になりmす。
そういう野暮なツッコミも後半になると消えてしまって、後半の展開がしずかにすごい。「あなた」というのは、奥さんから旦那さんへの呼びかけで、でも奥さんの記憶は抜け落ちてしまって、だからこの物語自体は奥さん主体なのに、奥さんの中にはもうない「すでに失われてしまった物語」なんだ……ここで巧妙さが光る。二人称文体では「あなた」の素敵さに引きずられて客体側を際立たせるきらいがある(し、実際上記の通りそれに引きずられて読んでいた)けれど、本作が一貫して描写を試みていたのは「わたし」の方だったんだなと思うとしびれる。語り手と読者の感覚が共有され、ずっと「あなた」が誰なのか、語り手が誰なのか分からないまま読み進めてきた結果、作中においても「あなた」が誰なのか分からなくなってしまった語り手と見事に重なる。読者の自分は、作中の奥さんのもどかしさを追体験することができる。そうしてこの物語の語り手が「どこにいるのか」がぽっかり分からなくなっていく。それがタイトルとも通じる。
「あなたは自分の名前を呼ばれたような気がしました」の一文が痛切。呼んだ(?)のは、語り手である自分なのに。

11. 「金のなる木」大道寺 轟天さん

軽快な文体と硬い表現の混濁を、力強く飽きさせない展開で最後まで引っ張ってもらえる。力がありバランス感覚にも優れた方だと思う。一直線。
ちょっとまえ後輩の閏君と「勧善懲悪書くのむずかしくない?」みたいな話をしたことがある。今は逆張り仕草というか「本当の正義とは」「正義の顔しているやつが本物の悪」みたいな言説が、とくに突き詰められるわけでなく浸透していて辟易する、と言う話だった。もちろん、世の中の話で言えばシンプルに善悪二元論に還元できるわけではなく、様々な思惑と偶然とコミュニケーションの不一致によって物事は好転したり悪化したりするものだけれど、そこをじっくり納得できるまで見てやろうという態度無しに「正義は悪」と簡単に言ってしまっているのをたまに見ると、ああ何も考えてないなぁと思ってしまう時もある。一方で、物語の話になると、勧善懲悪のシンプルな話を独り立ちさせるのはなかなか難しい。こと若い世代であれば、善い行いの果てに報いがあり、悪い行いはすべて自身に悪い結果を招く、というテンプレートを、実際のこととして信じきれない空気があるからだ。
けれどもこれは物語構造なり社会問題なりの難しい話というより、単に信じさせるだけの技量があるかどうかの問題な気もしなくもない。その点本作では読者を納得させるだけの十分な筆力があるように思う。
木に金がなる発想は突飛と言えば突飛だが完全に新しいモチーフではなく、古代中国の揺銭樹あたりを元ネタにしたのだろうかと思う。木に限らず、触れるものに富みと幸をあたえる何かが、得る者の欲の際限なさの末枯れてしまうという話は古今東西に見つけることができるが、その物語たちと本作との距離感が面白い。まず五百円玉のチョイスが絶妙で「あればあるほど嬉しい」感覚をクリアに共有できる。これが「金の斧」「金の卵」になると、寓話としては美しいがその価値を生活の上で想像しにくい分「良い事は言っているし、それはそうだよね」となっても自分の欲や行動に紐づけにくい。またラストのしっちゃかめっちゃかな感じも好き。五百円玉が尽きるのではなく溢れだし、木にたどり着いていない人まで含めて沈んでしまう展開は、人のだれしも持っている欲深さを突いている。快作だと思う。

12. 「夢の中の男女」伊予夏樹さん

こわいよ。こわい。伊予さんの話を読んでいると、怪談の怖さと魅力はその内容の突飛さやグロテスクさ、実害の有無よりも、語りそのものから生まれる臨場感の方に本質があるのだなといつも気付かされる。
冒頭では作者を登場させ、作品外の現実との回路を開く。その作者の語りの中で、過去の話⇒人に聞いた話⇒夢の話と内内に進むことで「作り話なんでしょう」という防衛機制的なツッコミを野暮にする。
夢の話自体は不穏ではあるが、前述の入れ子構造の効果か、読者としてはそこまで逼迫した怖さはなく、ただ遠くの不穏な話として安全圏から聞くことができる。第三者の立場に身を置くと冷静ぶった分析をする余裕も生まれるので、展開の予想を立てたりして話を読み進める。油断しきったところで作中の位相が「須藤さんの体験」からバーに戻り、そこで明かされるオチのギャップが心をざわつかせる。この心のざわつきが怪談や怖い話の肝ではないかなと思う。
欲を言うなら最後の段落は書き過ぎず「私、あの兄のことが嫌いなんですよ」でしめてくれた方が、怖さが増した気がする(個人の感覚です)。そこまでの展開で何度も「兄は彼女に刺されるのではないか」と予想してきたし、須藤さんの一言目で十分、須藤さんが何を思っているかを想像できる気がする。またオチの台詞は短い方が効果的かも(個人の感覚です)。
しかしなんにせよ怪談を書ける人はすごい。こどもの頃から「怖い話して」と言われて、怖い話を十分にできたためしがない。なんか話しているうちに余計なこと言って、そこに気をとられて怖くなくなっちゃうんですよね。そういうノイズみたいな言葉や語りをそぎ落として一本の怪談に出来るのは伊予さんの強いところだ。

007E

13. 「浄化」いみずさん

暗く重い。作者の硬質な文体が重い展開にマッチしているなと感じる。
性被害の類を自分はたまたま受けたことがないが、周りの親しい人の話を聞いていると(男女問わず)かなり頻繁にそういう事は起こっているようで、辛いものがある。またその多くが事件化していない。今もどこかで……というのは言葉の上だけのことではなく実際にそうなのだなと思うとやるせない。
本作では幼少の性被害と、時間をおいての主人公の気付きによって、主人公が人の負の側面に執心していく過程が描かれる。心の中では何度醜い相手を殺しても、社会でやっていく上ではすました顔で親切にしていなくてはならないというのも辛いが、主人公が半ば強迫的にそう言った二面性を培っているのところに「浄・不浄」の価値判断を中心に据え、そこから離れられなくなってしまう呪いが見え隠れして痛々しい。
ラストは(作品の質としてではなく内容の是非について)意見の分かれる所なのだろうか。文章上の行動としてはボタンを押したことしか書かれておらず、それが何のボタンなのか、患者を殺す仕草なのか、静観する動作なのか、その後なにかしら行動を起こすのかが示されない。僕は初めに静観する風に読み取ったけれど、「許せるかよ」と言いつつその後、治療行為の準備をする展開も捨てがたい。また話していると人によって読み方が違うので面白かった。

14. 「試験問題(わたし)」紙文さん

あえて書くのもあれだけれど、一目見てすごいことしてきたのが丸わかりの野心作。試験問題のフォーマットがあんまりに正確かつ見覚えがあるので「紙文さん教育関係の人……?」と勘ぐってしまった(後で聞くと、本作を書くにあたって調べられたそう)。特に大問1の軽いジャブみたいな問題の連続で回答者を疲弊させ、頭の切り替えが出来ないまま大問2に進むと説くのが大変なあの国語試験の感じがまざまざと思い出された。またやってみたi……いやもうやりたくないな。うん。
さて内容だけれど毒。これは毒。僕は不遜にも、勝手に紙文さんと関心や趣味が近い気がしているのだけれど、毎回作品を比べるとちょっとタイプが違うから面白い。紙文さんは毒タイプ。
最後の「おっとがさきにしぬまで」は直前の最終問題に対するわたしの解答だろうか。とすると、それまでの、逃げ場のない問題に解答が書かれていないのをどう解釈するか。素直に読むと「答えられる問題ではない」ということになる。「わたし」の解答は最後の一つのみになされていて、それ以外は無回答。「わたし」は試験を受ける上でも能動的存在であり、回答をしない自由もある。であればこの試験問題の点数は何点になるのだろう。というより、この試験問題に点数をつける存在とは何者なのだろう、と考えだすと闇が深い。
また別の読みかたも出来る。というのも、試験問題には問題用紙と解答用紙があって、本作で公開されるのは問題用紙だけなのだ。最終解答は解答用紙に記述する一方で、解答を組み立てる過程や別解を問題用紙に書き込んだ学生時代を思い出す。とするならば「わたし」は解答用紙にはどのように書き込んだのだろう。問題用紙には本心を滲ませながら、解答用紙には「採点者が好む解答」を書いているのだろうか。それともやはり白紙なのか。想像が尽きない。
(7)のギミックについては、なるほど! と面白く受け取った一方で、上記のような作品ひとつとしての読みとは切り離されたところにある様な気がしなくもない。ただ「わたしもしらない」事実、それも「見つけようと深追いすれば詳らかになってしまうかもしれない」事実が「わたし」から離れた、隠れた形で存在し、私がそこを勘づきつつも無視している、と読むと面白い。
これは余談だけれども、ハギワラさんとのキャスの際「こういう独自のフォーマット使用は、メールにデータ添付できない参加者と最終的な文字組を自分で行える主催者との間に少し格差がある」みたいな話はちょっとしたけれど、やろうと思えば(主催者の苦労を度外視して)出来ることではあるしそこまで問題ではないかもしれない。

15. 「前の恋人」元実さん

ハギワラさんのキャスでだいぶ語ってしまったが、これは刺さる人には刺さる作品だ……
男女関係(に限らず)本当にむずかしい。人は同じ過ちを、身体の底で気付くまで繰り返すから、この主人公もきっと次の破たんを経験するのだろうなとうっすら予感する。付き合ったり親密になった相手に合わせることは往々にして「どちらかと言うと好印象」と思われがちで、でもこれをずっと続けていくと主体性のないゾンビみたいな人が出来上がる。これがお互い様であれば「共依存」と名前が付くのだけれど、それが一方からだけだと名前がついていないのは、そういう関係が名前の付くほど長くは続かないからかもしれない。主人公は「『主体性がない』の意味が分かった」と終盤振り返るけれど、多分全然わかってないのが痛ましくて辛い。その前の「大好きだよ」に対する「ありがとう」もキツイ。
しかし恋愛小説の感想は難しい。自分の話は(失敗成功問わず)出し難いけれど、だからといって一般化して「男はこうなんだよ」「女はこうなんだ」というのもハマってない感じがする。

007F

16. 「回転硝と得難い閃光」ハギワラシンジさん

ハギワラさんは文体がイケメン。
タイトルからカッコいい(しタイトル公開時点で作者が割れた)。ハギワラさんは以前木星を題材に話しを書かれていたので、はじめ縦回転と聞いた時「天王星の話だ!」とテンションが上がったが違った。ぜひ天王星の話も書いてほしいが、自転を着想にしたと仰っていたのでちょっとだけかすった。とすれば、この横回転と縦回転はどういった基準を持つものだろう。作中では村長によって「横が世界を軸に自分を回すとしたら、縦は自分を軸に世界そのものを回すことなんだ」と説明される。しかしこの回転方向と言うのは、改めて見つめてみると随分恣意的だ。回転には軸があるが主体が行動できるならば軸の向きはその都度変わる。この舞台が重力を持った星だとして、作中人物たちが地面に立つことで上下の違いを確立しているとすれば、平時行われる横回転と言うのは地平面から垂直方向の軸を持った回転となり、縦回転は地平面に水平な軸を持った回転となるのが自然だろうか。ところがこの星が球状と仮定すると、軸の絶対的な向きはその経緯度によって変化する(極での横回転が赤道での縦回転となる)。とここまで書いて「あ、野暮な話してるな」と思い始めた。とにかく回転の軸についてこの村の人間には独自のルールがあって、ルールは読者の我々に明かされない分、その保守性が強く映る。主人公の縦回転を貫くラストも、なんだか好意的に受け取られる。しかしフラットに見れば、この縦横の差に善悪や正誤はない。主人公はただ自らの衝動に従って自らの回転を貫くだけだ。本作では変化に犠牲を伴う展開が描かれるが、それを良しとも悪しともしないところが読みを広げている。
また表現や言葉選びも(毎回言っている気がするけれど)素敵。主人公の「硝子」という名前も綺麗。特に好きなところは主人公が縦回転のさなかに見た風景「この世の成り立ち、仕組み、どのドアが開くと、どのドアが閉まるのか、なぜ生き物がタブーを犯すのか、人の感情と宇宙の膨張の関係」。あとは最終文の「最初の被害者は風で、見るからに正気を失っていた」。センスの塊だと思う。
動物から無機物、現象など、人ではないものへの感度が高い人は書くものが独特だなと感じる。「あたし」と「わたし」の使い分けなどまだ読み切れていない部分もあるが、何度も声に出して読みたい一作だと思った。

17. 「ピアノソナタ第8番 「悲愴」 第二楽章」ケイシア・ナカザワさん

渋い雰囲気の漂う作品。ケイシアさんは作品と呼応する音楽を、クラシック、ブルースと(ほぼ)交互に展開していて今回はクラシックの番。内容は静かに死を受け入れていくというか、余命について心の整理を否応なしに迫られる話。大きな展開がない分、起こったことを静かに落とし込んでいくような感じがあって素敵。
僕には肉親を含めて末期の病気を患った人がいないので、ピンと来ないとすればそのあたりの温度差だろうか。末期の患者の家族には病状が伝えられない物なのだろうか。本当は奥さんも知っているのかな。もしかして、お互いがお互いに、相手には知られていないつもりで生活をしているのかな。そう思うと作品に重みが増してきた。体感で分かってしまう残さえた時間の少なさと、奥さんに知られていると思っている進行状況との間にギャップのある主人公は、(本当は存在しない)秘密を一人で抱えながら生活している。奥さんはある程度のことを知っているが、主人公の悲観の深さを見ないようにしている。最期の時を共にして、終わりを受け入れようともがく中、あろうことかここにきて小さな隠し事が出来てしまって、お互いを直視することができない。そう考えると悲劇の側面が強いのかな。「またこうやって一緒に生活が出来るように」と言った時の気持ちはどんなだったろう。

18. 「卵焼きと想い出と音楽と猫」今村広樹さん

短い作品を一貫して出してこられる作者の作品の中で、今回が一番好き。前回されたという注釈と、それ以前にあった短文が反発しあうことなく、一つの作品として受け取れたので良かった。自分の能力の問題で、短い作品に感想を書くのには苦手意識があったが、今回実況キャスでコラボさせていただき、そこでみんなであれやこれやと読みあったらいろいろ考えることがあって良かった。そこでは北野勇作さんの100文字小説を例に挙げたが、こうした(字数が短くてもそれ以上の広がりを持った)作品は、複数で喋りながら読んだりするのに向いている作品なのかもしれない。
作品内容で言えば、個人的には「注釈=主人公の弁」で、主人公が作品以前に起こった出来事について思い出すとき、傷つき過ぎないよう意識的に「自身の主観的な思い出」ではなく「周辺情報」で武装しようとしている風に読んだ。例えば「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」にまつわる個人的な出来事を思い出すと堪えるので、英国人とフランス人に関する蘊蓄に思考を逃がすことで平穏を保っているというように。でも、読者が本文と注釈を行ったり来たりする中で何か物語めいたものの解像度を上げることができることから、やはり逃がした思考のなかにも、忘れられない以前の生活への思い入れと言うものが(主人公にとって無意識に)にじみ出ているのかもしれない。

007G

19. 「赤頭巾」わたくし

前回『席替え』の挑戦の一つが「三人称小説を書く事」で、それを広げて今回は「三人称の複数視点で書くこと」を意識した。ただストレートに書くのは難しいんで登場人物ごとにパートを変えた。冒頭の「森」の重なりや「おふくろ」「お袋」の表記ゆれなど、詰めの甘さが目立つ。また、原作からの距離の取り方について「別方向に突き抜けた方がよかった」との感想もいただき、まったくその通りだと思った。小説に限らず赤頭巾の翻案は漫画やアニメゲームでもよく見かけるし、それは赤頭巾の持つキャラクタ(と原作とのギャップ)が受けるからで、「一方的に食べられ助け出される」良心的受動的少女像を反転させれば本作のような女の子が出来上がるというのは割と凡庸な発想かもしれない。
しかしあまりに原作と離れすぎてもそれはそれでやりつくされたキャラクタ作成パターンに嵌まってしまっているようで、また「その話に赤頭巾を使う必然性は」と言う話に(必然性と言う議論は好きではないけれど)なってしまう。やはり翻案やパロディの中でオリジナリティを保つのは難しいなと痛感した。

20. 「断空」乙野二郎さん

一読して、Eグループの元実さん「前の彼女」と同一題材かなと感じた。鈍い男性が自分の人生を彼女を軸に回してしまい、そこから抜け出せなるような物語。「恋は盲目」と言われるが、視野が狭くなり周りが見えなくなるだけじゃない。じっとそれだけを見ているつもりでいた恋の相手でさえ、実際には鏡に映った自分を見ているような部分があって正確にとらえられない。うーんじれったい! どうしてみんなそうなるんだ! 縦回転だよ、縦回転を取り入れるんだ()。
今作ではそうした男女のテーマにSF的な要素が付加されていて、「三分の二の月」や「黒い丸薬」がワクワク感と奥行きを作っている反面、構成の面では新しさを感じづらくなっている。ループもの(本作では一度やり直すだけだけれど)は基本的に「気付く気付かない」「やりなおすやりなおさない」の物語に回収されがちで、それが本作の中心とかっちりハマりすぎているのではと思う。特に男女の問題で、作中に「気がつくのが遅すぎる」と強いヒントも出ているので、読者は「ほらぁ」と思ってしまう(「前の彼女」を先に読んでしまったからかもしれない)。エンタメ的に盛り上げるのなら、きっと作者が答えとして持っている「どうして失敗したか」を隠して、二周目の挑戦では一周目と全く違う行動を主人公に取らせ、読者が「これなら上手くいくのかな」と思わせたところで彼女が消えてしまう展開にすれば「えぇどうして!」となって面白いのではないかと思う。
どうしても「前の彼女」と比べてしまうが、本作の強い魅力は「彼女のために自分のいた世界全部を放り出してしまう主人公の突き抜けたダメダメさ」にある。並行世界にとんだ直後の描写「街の景色も一緒だった~変わらないように思う」という主人公の視線からは、実際よりも大きく環境が変わったとしても受け入れる準備と言うか覚悟を決めていたことがうかがえる。古代や未来や宇宙に行ったらどうするつもりだったのだろうとも思うが、主人公の関心はそこにはない。ただ彼女のことをしか考えていない。そこまで追い求めているのに、彼女を自律した思考をする一人の人間としては見れていない。そのギャップが光る。そういう経験がないわけでもないから、なんだ、恋愛難しいな。

21. 「抜けた足」佐藤相平さん

本作についての初見実況をキャスでやった時、読者の中で「好奇心の暴力性とイジメ的な自己防衛の狡さ」として読んだ派と「機械生物の目的とその後想像し得る展開」に注目した派で別れたのが興味深い。僕は初め前者で読んで、それから後者の読みかたを楽しんだ。六枚で二度おいしい。素敵だ。
初見で前者の読みかたをしたのは、僕が人間のズルい感情を描いた作品を好むことと、本作において機械生物の目的や今後の予想についてほとんど触れられていないことが理由。特に後半にかけて、各々別な行動をとっていた級友たちが、行動力のある実行犯的な真奈美ちゃんとそれに従うポーズをとりつつ自分も楽しんでいる主人公、遠巻きに見ているがやめろとまではいわないクラスメイトという即席の役割に順じていく感じがとてもリアルで、中高生時代のいろんなことを思い出す。未知の出来事を前に、個々の思考はあまりにも脆弱で、それゆえ人は個をして群とならしむ。三本足になった機械を「がんばれ」と応援する展開にも、本人たちの意志や矜持はなくただ「弱そうなものをかばう」という空気のテンプレートに操られているだけに思える。もしこの機械に「敵意を思わせる」デザイン、例えばハサミ型の腕や鋭い刺なんかがあれば、クラスの対応も全く異なるものになったかもしれない。これはアフォーダンスの問題だ。人には状態や環境に行動させられている側面がある。
真奈美はそんな中一人だけ我が道を行き、周りを意に介していないように描かれるが、並べてみれば他の登場人物とそう大差はない。ただこの作品中でだけ「我が道を行く」役割が与えられ、それを全うしただけで、別のシーンでは「がんばれ」というかもしれないし、ズルく立ち回るかもしれない。
機械生物と人間がこのあとどんな交わりをするのかは想像に任せるしかない。キャスでハギワラさんが仰ったように、事前の偵察を済ませたあとパワーアップして反撃してくるかもしれないし、Aグループ「新世代ほしぺの本棚」のように、敵対意志のない何かしらかもしれない。本作中ではファーストコンタクトしか描かれていないが、未知との遭遇の際には人間性が強く出る(というのも使い古された言説かもしれない)。それを取り扱ったのが「地球が静止する日」や「あなたの人生の物語」と言うことになるが、この展開を軍に任せず、クラスの中で行ったのが嗜好に刺さった。

22. 「わたしのいくところ」あさぬまさん

クレバス! 僕がもっとも出会いたくない死に方の一つだ。クレバスと洞窟でだけは死んでも死にたくない。もっと開けたところで死にたい。かといって海でも死にたくはない。死ぬなら海よりがいい。クレバスは嫌だけれど。
海派・山派の話は死生観の違いと回路が繋がっていて面白いなと思う。海は生命力の暴力みたいなところがあって、それが自分の存在を脅かす。だから怖い。何億もの命に対峙する自分のちっぽけさを思い知らされる。海の話と言えばヤン・マーテルの「パイの物語」なんかが面白い。
一方山の、特に森林限界を超えた高山になると、生より死のにおいが強くなる。海の、簡単に形を変え実体を失い、システムとして還元されていく感覚とは違う、静謐ながらも強く、年月をかけ、少しずつ形を変えながらも、それそのものとしては確かに残り続けるような存在の強さが山にはある。観念的に山を扱った小説と言えば多和田葉子「ゴットハルト鉄道」が好き。
本作では前半にリアリスティックな母の死が描かれ、そこでは人として未練がましくとどまりながら生を終える様子が強調される。その反動からか、後半での空想的な死の描写には、これまで人間が人間の時間的サイクル内での納得を得るためにあれこれ付け足してきた様々が外されていき、自然と溶け合わずとも、その一部としての自分を受け入れていくために十分な時間が与えられる様子が好意的に描かれている。あさぬまさんは一貫して、こうした「人の外に流れた時間を汲む」ことに意識的で、今作ではそれが前面に出てた、ファン垂涎の作品に仕上がっている。
情景描写もさすがの物で、突如登場するビート板の喩えや、雪に飛ぶ血をイチゴのかき氷に例えた鮮烈なイメージは読後しばらくも頭に残り続けた。欲を言えば、最終一行は必要なかったのではと思う。時間的広がりに魅せられる文章の後だったので、「死ぬ」と言い切られてしまうとそこでシャッターが下ろされる感じもしなくはない。

007H

23. 「焔」星野いのりさん

俳句の知識に乏しく、立派な鑑賞者ではないが許してほしい(ダイナミック予防線)。焔(炎)でくくられた連作で、炎からの連想はバラエティに富んでいるものの生命力に寄っている印象があった。炎は可視化できる強い現象で、熱源でもあり、光源でもあり、人を含めた多くの動物が熱と光なしに生き延びることが出来ない。一方で強すぎる火は死と結びつき、炎を介すと、生と死が混然一体であることが思い出される。このことから、炎⇒生命の連想は一般に受け入れられやすい感じはする。ここに炎そのものに着想される物質感や、消え入る事の静かさ、現象の域を脱することのできない冷たさをよんだ句が混じればそれもそれで乙だけれど、そうなると作者の創作観とずれるのかもしれないし、何より連作がばらついてしまうかもしれないので何とも言えない。
一読して好きな句をあげると「心臓を夜に還してゆく花火」「はつ秋の白き芯ある火は祈り」「流燈をあかるく待っていゐる夜明け」になるが、これはたぶん自分が言葉のリズムの好みで最後に三文字の言葉が入るのが好きだから。意味の広がりで言えば「熱帯夜広場は磔刑の臭ひ」で時間空間的な視野の広がりを強く意識させられる一方「炎昼や奇声に歪む紙コップ」では視点が一点に集中し、その分見えない所で起こっていることを「織り込み済みであえて目を向ける必要がない」感じが出ていて好き。
これまで触れた中で最も「俳句そのもの」に興味を抱かせてくれた作品。これは作者の俳句に対する真摯さゆえのことだと思う。僕等素人の中では何かと決まり事が多く参入の難しい界隈と言うことがよく言われるけれど、季語をはじめとして、知っていくことでその奥に景色が広がっているのを見つけられる喜びが大きい。ちょっと話がずれるけれど、一時期ジャズピアノをやっていた頃「なんでも適当に楽しく弾けばジャズだから」と仰る方よりも、「この音を展開するのにはこういう効果と歴史とうまみがあって」「この曲がどうして難しいのかと言うと……」と教えてくださる方の話の方がよほどジャズに興味を持てたし誠実に感じた。そんなことを思い出した。

24. 「黒鳥 白鳥」草野理恵子さん

色に敏感な一作。
僕の育った街には大量の白鳥がいて名物だったのだけれど、鳥インフルエンザが確認された時殺処分をしてしまった。とても悲しかった。池の大きな自然公園には長らく黒鳥や白鳥がいなかったが、最近ようやく飼育が再開された。帰省したらまた訪れたい。
ところでその公園には黒鳥と白鳥の他に半分だけ(首から上だけ)黒いやつがいて、あれは黒鳥に入るのか、白鳥に入るのかとずいぶん気になっていたが、今確認したらクロエリハクチョウという白鳥らしい。わからんな、もう。
本作では黒鳥と白鳥の白黒、そこに時たま挟まる血の赤の指し色が美しい。黒鳥(とクロエリハクチョウ)の嘴は赤色をしているし、赤は白黒になじんで雰囲気を壊さない。「欲しい色」が三色で完結して、他に邪魔するものがない。だからとても丁寧な作品として読めた。
「私はまだ何も失っていない」が強い。気丈だ。このしめを「自身に言い聞かせるように繰り返している」と読むか「本当に何も失っていないんだ」と示していると読むかで全然受け取り方が変わってくるので迷う所。つねに自分の何かを切り分け他人に任せ、そうすることで誰かと関わり続けている部分も、誰かに何かを渡す痛みが、思っているより自分を壊さないという部分も、両方自分の中にたしかにある。

25. 「お化粧しなくてもいいよ、ミス・パープル」一徳元就さん

はじめ素直に少年の話として読んでいて、うっすらとした気まずさと言うか居心の悪さは感じていたが、黒人問題を下地にしていることを実況キャスで指摘されるまで気付かなかった。
少年にとって世界は広すぎるくらい広く、町を出るのだって簡単ではなく、不安やわだかまりを糧に町を飛び出そうとしても大抵うまくいかない。どんなに街を飛び出す空想をしても、あるべきところに肉体はあるままで、心もいずれそこへ帰ってきてしまう。ママがいなくなった少年は不安だったろうなと思う。「きっと空のベビーカーを押しながら、ゆっくりゆっくりと歩み去ったのだ」という一瞬の疑いが可愛くも心細い。また「それともあのカートを押している老婆が~だとでもいうのか?」という無意識の気付きもいい。
言葉の選び方も素敵だと思う。「レアメタルやヘアメタルを楽しんでたりする」とか「リカンベント・トライク・タドポール」の並びとか、「ジャンクジャンクタウン」「ジョー・リー・トンネル」「プレッシャー・パニッシャー」といったネーミングセンス、すごい。欲しい。登場人物も沢山いるのにそれぞれに際立っていて、沈んでいる人がいない。ここは見習いたいというか挑戦したいなと思って次回(第八回作品)は十人以上の登場人物を出そうとの指針を得た。ありがたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?