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「バス停山」あれこれ


●自作自解(あくまでひとつの読みとして)

複数人の乗り合わせたバスが舞台となる。
バスは進行しつつ、「誰も降りないのに降車ボタンが押され続ける」という問題(?)を乗客は共有している。この現象を起点とした、各乗客の受け取り方を軸に、各乗客の抱えている内心が少しだけ見えたり見えなかったりする。

最初の乗客、誠二は息子の悠を連れて父親(悠にとっての祖父)を見まいに行く。誠二の心情の吐露から、父親の余命はそう長くないのかも。また父親の気難しさと息子との間で、緩衝材の役割をしている。誠二には言いたいこと、息子や父親や家族の前では言えない事がある。誠二は降車ボタンの件を「迷惑ないたずら」だと感じる。誠二の心の奥には「周囲はいつも自分を悩ませる」という他責思考がある。

誠二が少年だと思った子——希美は、このままずっとバスに乗り続けていたいと思っている。頭の固い教育ママに反抗して、髪を切り、スカートを捨ててたものの、何らかの事情で学校の寮から自宅に戻らなくてはならない。希美自身の問題には深く踏み込まない。希美は、やろうと思えば自分で行動を起こす強さも持っている。でも、それを他者に対して示す方法を知らない。希美を縛っているのは、「もっと恵まれない子がいるのでは」という思考である。これは母親から与えられたものだが、希美自身も内面化してしまっていて、だからこそ拭い去るのが難しい。希美はまだ、対処するための言葉や術を操るには未熟である。だからひたすら帰省過程の延長を請う。希美は降車ボタンを押してくれる人を親切だとは思うが、自分でボタンを押したり、降りてしまおうとまでは思わない。希美の「親切」への解釈には、希美の受動性がにじむ。

幸一は刑務官として、死刑執行時に絞首台の床を外すボタンを押す業務を担当することがある。それに前後して、幸一の指は他の多くのボタンを求める。幸一は拘置所での死刑執行を「職場」での「仕事」にまで還元し、曖昧の中に自身の行動をぼやかしていく事を、無意識的に試みている。それは自身に課せられた特別なミッションなどではなく、ありとあらゆる行動の中に普遍におかれるものだと自分に言い聞かせる。それでも執行前の死刑囚の言葉は頭から離れない。死刑囚が温泉に行けないことを、幸一は自分の責任のように感じている。親切にした視覚障がい者に「自分が(ボタンを)押したかった」だけだと返す。現在日本の死刑執行時には複数人がボタンを押すが、幸一にはそれが見えていない。彼は自責の念が強く、また人間ひとりの行動に強い意味性を見出すきらいがある。何度も押し損ねるボタンにも、何かしらの「意味」があると信じて自身に問いかけつづける。

悠は父に聞いた昔話を「バス停山」だと勘違いして覚えている。父の顔色を見て、まだ言葉にはできないもやもやを感じ取った悠は、このバスがバス停山へ向かうのだと直感し、こっそりとボタンを押し続けている。悠の行動は無邪気な利他だが、そこには若干の傲慢さもある。自分だけは大丈夫だという根拠のない自信が、他の人を助けようという余裕を生んでいる。あるいは本当は自信がなくって、他の人を助けること≒「いいことをするいい子」でいることで自分は大丈夫だと言い聞かせて不安を払しょくしようとしている、とも読めるかもしれない。悠の押すボタンは冷たくはないが温かくもない。他者に向けた善意は、それ自体では絶対的に善いものとも悪いものとも言えない。

さかのぼって、悠の誤解から生まれた空想を反映させるように、バスは駅前行のルートから外れて山奥へと向かう。向かう先は、あまりいいところだとは思えない。つい、作中の悠と同じように「みんな早く降りてくれ」と言いたくなる。
乗客には共通点がある。まず、彼らはそれぞれに難しい悩みを持っている。次に、彼らは内心こそ雄弁だが、バスの中では黙っている。それがマナーだからだ。彼らは自ら降りることをしない。景色が変わっていくのに気づいても、バスに乗り続けている。最後に、彼らは外野が何かしら大きな問題を語るとき、「後景」あるいは「周縁」に追いやられがちな立ち位置にいる点でも共通している。誠二は父親や息子を前にして、希美は自分より恵まれないどこかの誰かを想像して、幸一はきっと、加害者、被害者、司法の問題が連日報道などされる中、「じぶんだってしんどい」と叫ぶことが出来ずに、そういう機会を得ることが出来ずに(あるいはそういう機会を逃して)日々静かに黙ってきたはずだ。こうして読むと、「いつまで、どこに向かうかもわからないバスから降りる選択」は別の意味合いを帯びてくる。ぼんやりと「バスだけでなく、(もっと抽象的な)なにかから降りられない人たちを描いているんだな」と読める。バスを降りるには、自分で決めて自分で降りるよりほかない。ラストの描写に兆しは見えるものの、彼らがどこまで行ってしまうのかは分からないままだ。

乗客たちの降車を促す、あと一押しは何だろうかと思いを馳せる。ふと、死刑囚を「温泉」に連れていけなかった幸一が、『死にたみ温泉』を読んだらどうだろうと思う。少しは気持ちが変わったりしないだろうか。「髪が口に入る」のを嫌い、髪を切ったのを「腹いせ」だと言い、「自分のやりたかったこと」に自信を持てない「希美」が『ミジンコをミンジコと言い探すM』や『踏みしだく』や『校歌』や『サトゥルヌスの子ら』を読むとどう思うのだろう。誠二が『ファクトリー・リセット』や『父との交信』を、悠が『メアリー・ベル団』や『小僧の死神』を読んだらどんな反応をするのだろう……そういう事に思いを馳せる余地を残すために、本作にはBFC4第一回戦で見られた諸要素がちりばめられている(全作品とはいかなかったけれど)。彼ら乗客は、BFC諸作品の届きうる読者であったはずで、その後の場外議論やジャッジの中で「想定される読者」の対象から徐々に外されていった人たちの代表でもある。(「本作が他の作品とクロスオーバーしたら……!」と話してくれる読者の方がいたのでとてもうれしかった)
議論自体はとても大切なことだからぜひどんどん進めてほしい。私はそこからこぼれた声のない人に、抱負での宣言通り「いてもいいよ」って声をかけ続ける。

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