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かぐやSF2 最終十作品の感想

VG+さん主催のかぐやSFコンテスト第二回のテーマは「未来の色彩」!
公開から少し遅れを取りましたが感想を書いていきます。本コンテストの面白いところは匿名で作品が公開され、読者投票にかけられるというところです。知り合いが予選突破していたら、どの作品なのか当てるのも楽しい!
投票締め切りは25日。4000字なので読むだけならすぐに読めるぞ。いそげ!

ネタバレなどは気にせず書いています。
友人の作品予想も兼ねるので少し内輪っぽい読みもするかもです。
感想の長さは評価の良しあしと直結しません。

アザラシの子どもは生まれてから三日間へその緒をつけたまま泳ぐ

 アザラシがたいへん、たいへん好きで、作品名を見たときにはどんなあざらしの話だろうと思ったけれども本編には出てこなかった(泣)
 社会の事情に翻弄され、海で生きることになる未来の人の話。詳しい世界情勢や背景は描かれず、言葉の端にぼんやりと現れるばかり。「十人に一人が持つ」とされる遺伝子の保持によって、海中で息ができる適応措置を施された人がこれまでの人の形から離れていく。適応措置によって暗い海は色彩を豊かにし、翻って陸上は退色してゆく。もともと地上に居場所のなさを感じていた主人公や仲間たちは海を新しい居場所として「会社」の管理から逃れて自由に泳いでいく。
 面白いのが「会社」からの決別に至る場面が全て比喩で済まされているところ。クライマックスに至る重要なシーンで、具体的な行動動機を書かないことは勇気がいることだと思う。「悪」である会社に「我々」主人公らが反旗を翻す、という構図の方が分かりやすく読み解かれやすいものが書けただろう。でもそうしなかったおかげで、本作のラストを単なる反抗ではない自立の物語として受け取ることができる(このタイトルだしね)。
 一方で主人公の居場所のなさにはいいとも悪いとも言えない事情がありそうだったし、他の人にしたってそれぞれにそうなのだろうと予感させられる。フィクションの中でこのあたりのリアリティを抽出できるのはさすがだと思う。現実においても、ひとつのムーブメントは清濁も明暗もないまぜのまま突き進んでいくものだ。作中その増幅装置となっているうわさにも出どころはない。色彩反転の起点として示されるアプリだって、だれがどんな事情で作ったかわからない。地上と海との色彩感の反転そのものや、その結果現れた「おれたちの新天地」への憧れさえ誰かによって仕組まれたものかもわからない。すべてがふわふわとした、地に足のつかないやり取りによって終わりへと進んでいく。そこで、この人たちは、もうとっくの昔に考えすぎるのをやめているのではないか、寂しい想像がよぎる。そう読み直すと、本作の描いたものは希望というよりもずっと諦観に近い。諦めの中で自立を選ばざるを得ないのはつらいことだとも思う。そこに実がこもっている。

 ところで、作中の格差の象徴が高低差に置かれているが、はるか未来においての格差の形は気になるところである。人が高いところを求める(そして時に神聖をも見る)のは、重力に対して圧倒的に無力だった歴史がそうさせるのだと考えられる。名だたる寺院や教会や聖地は高地との縁が深い。山は信仰の対象となり、天国が天上にイメージされるのもそのためかもしれない(これを垂直他界という)。一方で格差と居住の関係はもっとソリッドに「住みよさ」と関わってくる(例えば空気の薄い高山都市には低地に至るほど地価が高いところもある)。高さへの憧れにはだから信仰に近いものが大きく作用していて、それは貧富の表出と相関はしても同質のものではない。また一方で主人公たちの目指す海のかなたや、作中モチーフとなっている人魚伝説などは、水平他界観に根差した信仰と関わりが深い。ここで二つの信仰の互い違いが起きている。垂直他界と水平他界は相反する概念でも優劣の作概念でもない。今地上にいる僕らが、深海を即座に「下」と認識するのも難しいだろう。だからもし作中の社会背景を「格差の二分」にとどめたいのであれば、「陸と海」という形で水平感を確保したまま進めてもよかったのではないかとも思う。

二八蕎麦怒鳴る

 つかみから完璧だった……
 続く蕎麦の説明も、翻訳を意識したのだろうと推測するが、それを隠して変に均さずに、いっぺんに説明してしまってから自分の世界観に引きずり込む潔さが作品のテイストと合っていて良い。冒頭だけでなく全体的に、ギャグを飛ばす前に解像度の高い説明を予防線のようにちょっと入れて、受け付ける人を増やす手口? はそれ自体がオリジナリティある文体になっていて癖になる。それに一文目のセリフを最大瞬間風速にせずに、いい塩梅のところでちょくちょくギャグの上乗せをしていくのも心地よい(個人的に「メッシュまで入れたのか」が良すぎる)。突っ込みにも作者の持っているリズム感や好みがにじみ出ていて、読者が心の中で突っ込んだ次の瞬間に、ちょうどいい感じに登場人物がそれを代弁してくれる。
 ある種の質の良い笑いが当人たちの真剣さからもたらされるのだというのはよく聞く話だけれど、本作においても上手く踏襲されている。読み返してみればだれ一人笑っていない。蕎麦も必死なら主人公も必死だ。泣きそうにおろおろしている研究員もいい味を出している。研究費の不足や現場の板挟みに悲哀も感じる。その必死な感じと、一切こっち(読者)を向かないところがコントの質を高めている。ただ最後のオチだけは若干落としに行った感じもなくはないので、序盤に受けた衝撃以上のところには到達できなかった。それでも序盤のドライブが強すぎるので全く彼方まで引っ張って来られた感じではある。
 まだ投票前だけれど、本作には読者投票を勝ち取ってほしい……そして作者さんにはしばらく「代表作は?」と聞かれて「二八蕎麦怒鳴るです」と答える日々を送ってほしい……

境界のない、自在な

 批判精神の強い作品だ。一作のうちに様々な(現代における)問題をちりばめてあって、それらが4000字内で上手くまとまっているのだけれど、作者は一貫して、本作中に扱われている物事の、解決の出来なさに悲観しているようにも思える。人工皮膚によって肌の色を自在に変えられるようになっても差別やいじめはなくならないし、身体を機械に置き換えることで健康問題を解決しても介護の問題は解消されていない。精子提供により婚姻制度が消滅しても、家庭の単位は残されたままでいる。統治機構(作中には市が出てくるので、少なくとも行政は存在している)はもろもろの描写から、強権というよりも場当たり的な政策の積み重ねで歪に時代を重ねてきたという感触がある。
 高い技術力と、それを実行できてしまう社会情勢を勘案とすると、何か所か気になる所が出てくる。例えば本作の展開は、親が子に対して一定以上の責任を負うという前提に支えられているが、本作のように技術の進んだ世界において、そう言った親子関係をも解体してしまう事だって十分に可能なはずだ。それは婚姻制度の解体を成し得てなお生産性確保のために子供を欲する政府にだって、都合の良いアイデアではないか。でも現実にはそうなっていない。そうなっていないのにはどんな思惑や経緯があるのだろう。数々の社会問題を、ずれた政策によって別な形のものに変えることをいとわず、一方で「親と子の形だけは変わらない」ことを押しつけるのは欺瞞ではあるまいか。関連して、娘にはミミと名前が付けられているが、名づけと言うある種呪術的な行為がこの科学技術全振りの世界観でどのように生き残ったのかにも興味がある。少数民族の出身であることに重きを置く曾祖母が登場するのだから、そのあたりに関係してくるのだろうか。
 作中におけるアイデンティティの扱いも難しい問題ではある。アイデンティティは「みんなといっしょがいい」し「みんなと違っていたい」というコンプレックスの上に成立するものだけれど、本作ではその複雑系のバランスを大きく欠いた世界観が描かれる。そうしたアイデンティティの危機は集団社会生活を成立させる上で数々の齟齬を生みはしないだろうか。成立しているとすれば、やはりどういう経緯と施策がなされているのかが気になってくる。
 技術、制度、価値観の変遷と言うのはそれぞれが有機的に結びつき、連綿と続く流れのようなものだ。昨日までなかったものがいつの間にか存在し、昨日まであったものが気づけばなくなっているようなものだ。その流れをどういう姿勢でつかめるかが未来を描く上でのリアリティにつながってくる。そういうことをふまえた時、カウンター的な思考実験とそれに対する悲観的な回答のみでは、ひとつの時代を描き切ったというのに十分足り得ないのではないか。そんなことを考えた。

ヒュー/マニアック

 まず、未来の「色彩」ではなく「未来の色彩」をかみ砕いて作中に登場させていたところに面白さがあった。それに色彩のテーマを扱うにあたって、そもそも色の世界の外にいる登場人物に語り手をさせている発想も素敵だ。「星連」「恒星」などの言葉をちりばめ、はじめベールを被っていたお客さんがどうも宇宙人である(地球人ではない)ところまでは匂わせておいて、肌を見せたところで、体色が無く透明であるという予想より上の設定が出てくる二段構えが決まってて素敵。さらに主人公が色彩感覚を持たない設定(三段構えだった!)が明かされると、そこに至るまでの「プロフェッショナルの矜持」という筋がいっそう好ましく思えてくる。単に仕掛けやどんでん返しを「どや!」と晒すのではなく、その仕掛けが作品全体の質を高める方向にむいている。これはこの手の小説には大事なことで、「実はこうでした」と開示して「だから?」と返されたときに、ちゃんとその効果を説明できるかどうかが、作品の完成度を左右する。膨大なチェック項目や、感覚派の描写など、複線も巧みで、その点で本作は十二分に成功していると思う。
 一方で色彩についての説明は説明っぽさが抜けていないような気もするが、最低限の知識がないと効果が発揮できないオチになっているので難しいところ。こちらも「目に当たる感覚器を持たない主人公故の、色紙に対する理屈っぽい理解」ととらえると納得がいくので、そこまで大きなマイナス点ではない。
 話の本筋は正統派お仕事もので、「ある職業についての説明」→「すこし変わったお客さん」→「なんとか工夫を凝らしていったんの解決」→「でもこれでいいの?」→「より深い問題の解決へ」という王道をこれでもかと押さえている。SFとテーマの部分を展開の技巧に任せ、物語は王道を踏み、けれどもそれぞれがバラけないように良い塩梅で調合させる手腕は流石のもので、上質なエンターテイメントとして楽しめた。

オシロイバナより

 正統派のSFだ。
 ある日見つかる謎の天体、対処を迫られる人類。そこに「誰かしら」の議論が挿入される。スイングバイや太陽帆、エネルギー保存則など、キャッチ―ながら専門的すぎず、多くの人に理解が届く知識でストーリーがまとめられていて(やや種明かしの足取りが覚束ないものの)読みやすい。さらにそれぞれの仕組みを事前に別のシーンで使う事で理解をしやすくしているのも巧みだと思った。
 天災なのか、意思のある脅威なのか、わからないまま調査を進めていく展開もワクワクして楽しい。時を超えた二つの脅威の解消を一作で味わえるのも素敵だと思う。また冒頭の探査船のシーンなど非常にビジュアルが映えていて、一度も宇宙になんか行ったことがないのに、まるでその場にいるような感覚を覚えた。一方でそれ以降の文章は若干冗長で、推敲の過程で削ってもよかった箇所もいくつかあったと思う。
 余談。物語よりも図鑑を好んだ小学生の頃「食変光星」というのに魅せられたことがある。明るさの違う二つの星が連星をなしていて、片方がもう片方を周期的に覆い隠すことによって、見かけの明るさが変化する星のことだ。手を取り回るようなふたつの太陽が見られたらどんなに美しいだろうと思いをはせた。同じころ、家の周りにはオシロイバナが至る所に咲いていた。オシロイバナの実は薄い緑色から徐々に黒く染まる。黒くなったものは簡単にもぎ取れる。それを噛んで割ると中に真っ白の胚乳が入っている。これをすりつぶすと白粉のようになるからオシロイバナと言う。近所の子どもたちとよく頬に塗りあって遊んだ。だからオシロイバナがモチーフとして登場した時、あの他のどの植物よりも深く黒くて、マットで、ごつごつした実と小惑星をよく結びつけられたなと感嘆した。この作者は遠い宇宙とミクロの世界の両方の素敵さを知っている人だと思った。ただ同時に、割った時の鮮烈な白さを期待してしまった面もある。
  思えば宇宙への憧れも身近な植物との交歓も幾分か遠のいてしまったように感じる。社会がそうなのか、自分やその周りだけがそうなのかは全然わからないけれども、本作にはそういう遠のきつつあったものが、再び見えるようになるような感覚があった。


黄金蝉の恐怖

 素数ゼミには17年周期のものと13年周期のものがいて、それぞれ出現年の異なる群級に分かれている。ブルードXはちょうど今年(2021年)出現してすこし話題になった年群級だが、作中舞台は1970年なので三回前の出現を取り扱っている。また塩化金から24金を精製するバクテリアの研究も十年ほど前に話題になっていた。このように本作は現実に存在する二つのサイエンスを交錯させた(少しだけ)異なる世界を描くことで、リアリズム小説をSFと位置付けることに成功している。この手腕が見事だ。
 さて青春トラウマ昆虫文学の金字塔といえばヘッセの「少年の日の思い出」が思い起こされる(教科書でやったからね)。こちらは蝶の収集を取り扱っているけれども、「虫を壊す話」という点では本作と共通のグロテスクさを持っている。罪の不可逆性という重すぎるテーマを扱っているというのもあるが、ここで扱われるのが蝶でなければ(例えば切手、模型、貝殻であれば)、果たしておなじ感触を描き出せただろうか。虫を壊すことに他とは違うためらいを感じるのは、そのあまりの脆さと命との結びつきを、僕らの手が知っているからだ。だからヘッセの少年が収集するものは蝶でなくてはならなかったし、本作においてもそうだ。
 一方で、中盤の衝撃展開からポジティブな結末に持っていくにはいくらかの工夫が必要になってくる。本作はその点を、米文学的な舞台設定を借りることによってクリアしている。アメリカ文学の少年たちは多くがルーザーとして描かれる(僕の読書量がとても少ないので、これは誤解かもしれない)。ルーザーズストーリーは舞台人物設定の担う部分が大きいため、比して核心の心情描写は自由度が高く、自意識の底に沈むことなく「僕たち」の物語を構築できる強みがある。
 本作においても、主人公のトレーラー暮らしの境遇や、デビーの父親の設定などは核心と言うよりフレーバーとして扱われる。情景や背景設定に文字数を割かなくても、読者の脳裏には数々の小説や映画を通して構築された、古いアメリカの田舎町が容易に立ち上がる。類型にはまっているというよりは上手く援用しているといった感触だ。ストーリー展開も、内省の繰り返しではなく、ランダムかつストレートな感情の発露によってけん引される。だからこそ後半のやや都合の良いエンディングにも、違和感なく着地できるのだ。少年期のある種の残酷さや、自然の畏怖との接続可能性などを十分に描きつつ、アメリカの広大な土地に点在する町々の、隔絶しつつも流動する性質がこれら諸々のリアリティを担保している。
 虫に対する執着にも言及しておかなければならない。ヘッセが扱ったのはコレクションへの執着で、このコレクション概念は(負の部分も含めた)ヨーロッパ史と不可分のものとして共感の軸になったと思われる。特に標本採集は広く親しまれる一方で金銭がものをいう趣味でもあって、「少年~」でもこの境遇差への無意識の気づきが背景にあるために、罪の告白、不可逆性というテーマがより複雑で重いものとなっている。対して本作における黄金ゼミは名声の象徴として扱われ、大量の蝉の中に一つの黄金を期待する様はさながらゴールドラッシュのような趣さえ感じる。ここで描かれていることは僕らにとって、珍しい蝶よりもずっとなじみの深いものだ。名声を求める中で主人公たちが犯した過ちは彼らの内面にとどまらない。それは今日もっと普遍的に問われるべき類のものである。その結末として「偏執がなし得る(研究による)社会的貢献」が描かれるのは、救いともとれるし、また皮肉にも思える。

 ところで文章としては「!」が多いのが気になった。持ち味にはなっているけれど、静かに文章の力だけで情感を高ぶらせることも可能だと思う箇所もいくつかあった。また冒頭の回想に至るところだけれど、すこし切っ掛けが多すぎて散漫な印象を持った。「少年~」でいえばワモンキシタバ、「スタンド・バイ・ミー」でいえば新聞の見出しのように、過去に入る扉は一つに絞った方が効果的ではないだろうか。
 もう一つ気になる所と言えば作品の舞台のことで、「ラストベルトの端っこ、ボルチモアから200kmほどのところにある寂びれた町」とある。ラストベルトとあるのでペンシルベニア州北部だろうか。ところが同州内でボルチモアから200km程度の土地はほぼ全域にわたって、ピッツバーグやフィラデルフィア、ニューヨークに届く圏内だ。ボルチモアとペンシルベニア北部の間にはアパラチア山脈が南西から北東に横たわっており、都市間の接続もピッツバーグの方が強固である。住民感覚としても山の向こうのボルチモアより他の二都市の方に親近感がありそうだが、実際はどうなのだろうか(これは推測と言うか邪推だけれど、ブルードXの分布はペンシルベニア南部からウェストバージニアにかけてであり、その分布図を見ながら舞台を決めたとすると、舞台がボルチモアに接続されているように見えなくもない)。

スウィーティーパイ

 冒頭、虚構性の非常に高い世界観にもかかわらず、そこでの常識、思想、文化、営みが目の前にまで迫ってくるようで息をのんだ。主人公の姿、住環境は作品を追うごとに少しずつ解像度が増す。ヒトでないものを描くのが苦手な僕はそれだけで尊敬してしまう。
 また絵を描くことと種が存続することと不可分であるので、その切実さ、主人公の焦燥と絶望が十二分に伝わってくる。そのうえで中盤以降、創作に絶望した主人公が壺中天を介し異なる世界に接続することで創作の道に戻ってゆくストーリー展開は、何よりものを創る人にとって希望そのものであり、共感する読者も多いのではないかと思う。創作そのものの葛藤を扱った精緻な伝記的語りは中島敦に肉薄するものがある。
 一方で後半、実在の人物との交流が描かれるが、この設定が必要だったかには議論の余地がある。誰かと交流することで主人公に救いがもたらされる構図に問題はない。しかしヘンリーがニァグに救済をもたらしたことで、「ヘンリー」自体の存在に意義を持たせたようにも読めてしまう。これは人によるかもしれないけれど、実在人物に他者が都合よく救いをもたらし意義を規定することは、ある種暴力的にも思えてしまう(だから伝記は膨大な考証を必要とする)。まあこの点は僕の読みすぎかもしれないし「じゃあ非実在人物ならいいのか」と言われると難しい話になってしまうので、あまり強くは言えない。しかしそうでなくとも、例えば他の画家ではだめだったのかと考えるとき、作中に登場する画家が「ヘンリー」であることの必然性は、彼の描く絵の色彩豊かさでも、描かれたものの造形の妙でもなく、彼のアウトサイダーとしての特異性によって担保されているように思えてならない。このあたりも人によっては議論が分かれるところかもしれないけれど、ただ構成上は非常に上手く作用していて、さらにヘンリーのことを知らなくたってちゃんとカタルシスが生まれるように描かれているのがまた見事だ。だからこそ、実在人物の力を借りなくったって、この作者なら書ききれたのではと思うのだけれども。

昔、道路は黒かった

 人類の失敗史は悲哀の中にどこか可笑しさがあって面白く、たまに調べたり読んだりする。イースター島の滅亡から戦艦大和の沈没、タコマナローズ橋の崩落やデハビランド・コメットの墜落事故など追っていると、割とみんな、モノが完成してしまうまで、びっくりするようなポカに気が付いていなかったりする。それは現代でも変わらない。原子力もアスベストも、ほんの少し前までは夢の技術と呼ばれてきた。面白いことに、作っているときの人々は全員じゃないにしろ「私たちは完全に未来を掌握した」みたいな顔をしていて、その目は希望に満ちてきらきらと輝いている。このきらきらが美味しい。いまのところ、未来を完全に掌握した人間は存在していない。
 本作は道路の舗装素材の革命にまい進したビジネスマンとその顛末との落差がカタルシスを生む。僕は邪悪なので、もっと純粋に「世の中をよくすること」を心から求めた技術者の転落が読みたい部分もあったが、一方で出世欲といささかの泥臭さをもってプロジェクト成功に尽力する戸川さんの回想は解像度が高く、十分な魅力となっている。必要性を訴えるだけでなく、いかにして周囲を納得させ、既存のものを置き換えていくかについての戦略はとてもまっとうで(汚職はしたけれど)通りもよい。空行以降が無ければただの成功譚になっているところが好ポイントだ。
 ところで道路は現在においても非常に色彩豊かだ。アスファルトの間や路上には細かい砂や石が積もり、真っ黒と言うよりは青みがかった明るい灰色に見える。雨にぬれると街灯やネオン、夕日の光を反射していくそうにも色を変える。景観保全地区やスクールゾーンの道路にはすでに混ぜ物をして色のついているところも多い。「道路が黒い」というイメージはどこから生まれているのかには興味がある。それ今後、も少しずつ変わってくるかもしれない。
 気になった点は、人命にかかわり世論の関心も大きい予算は割とつきやすいのではないかというところと、(道路の顛末を知らないという設定上必要とはいえ)非常に明晰な戸川さんの回想により、認知症の印象が死んでいることくらいだろうか。

熱と光

 示唆的なところが多く、なかなか難しい作品だと思った。特にテーマとなっている色彩の要素について、初読では「あなたの幸せは、この私には見えない色なんですよ」という研究者の言葉に集約されているような気がして不足のようにも思えたが、冬乃くじさんの感想を読んでから読み返すと、ちょっと見え方が変わった気もする。子どもを持つこと、遺伝と疾患の物語が、それぞれの議論と直接強固に結びつき過ぎることなく、幸福の形の話にまで到達する。「子どもを持つ/もたない」が幸福だと明言しない。遺伝的性質が幸福に作用し得る実際の事情を、前景化させすぎない。すべてがあるだけ存在し、同時に幸せの色、形について思いを巡らすことができる。こうして諸々をゆるやかにつなぎおくことができるのは小説の素敵なところだ。
 ドーアの本を引き「我々がラジオを聞いているとき、我々は同じ光を聞いてる」という着想に対して「なごむ」と応える。彼女と重ねた手の熱交換に思いを馳せる。そうした些細な描写を通して、主人公は何かを共有することに強い希望を抱いていることがわかる。そんな中、自分がようやっとその存在、それを受け渡すことを認め始めた幸福が設計されたものであり、また一粒たりとも受け渡せない類のものであるという残酷な事実を、今後どうやって受け入れ直していくんだろう。自分の幸せが自分にしかないことを確定されてしまうのは、分かってくれる人のいる不幸よりもずっと淋しいことかもしれない。
 子どもがいる人いない人で読み方が変わったりするのだろうか、ということも考えた。この辺りは別の人の感想も追ってみたい。

七夕

 作品全体にわたって、バーチャル技術と伝統的な風習が融合した七夕まつりの風景が描かれる。お祭りは現代においてもそれ自体が、色彩をはじめ、音、光の多用によって非日常感を演出する。普段の生活に届かない異空間を「出現」させることによって、非日常性を創り出している。本作で描かれる、拡張現実を用いた七夕まつりはだから、祝祭の効果を重層化したものでもある。祭りの方からすれば、合理性と個人主義化によって縮小されることの多い現代の祭りを、技術によって蘇らせたポジティブな未来ととることもできるし、「空虚な非現実」と連想されることの多い拡張現実を、祭り本来の非現実性を借りて好意的にとらえ直すことに成功しているともいえる。
 蘇った祭りの解像度はとても高い。お盆との習合、七夕馬、短冊の色の意味、それぞれの飾りのモチーフについて、主人公は非常に多くのことを知っている。(七夕祭りが盛大に行われる地域は別として)ふつうのお祭りを描いたならば、この「知りすぎている感」が気になってしまうかもしれないが、伝達手段を更新しつつ、より多くの出来事、伝承を立ち上がらせることのできる未来の祭りでは、これが常識になっているのかもしれない、と思い直すことができる。多種多様な屋台の品も新旧揃っているし、スリまで一つの「文化体験的エンタメ」として描かれているところも面白い。
 また一方で、徹底してお祭りの非日常を描写することで、その背後に潜む日常はどんなものだろうかと想像も膨らんでゆく。主人公たちは、死ぬ者と死なない者のいるあわいの世界に立っている。「私はおばあちゃんが死ぬのが怖い」と言ったむぎちゃんの言葉は、余計な修辞のない、ストレートな言葉である分深く突き刺さる。本作はそれ以上の深堀をしない。一瞬だけ、はっきりと聞こえた現実の言葉を、祭りの鮮やかさの中に溶かしていくラストはとても好みだった。

まとめ

・昨年に引き続き、自分じゃ書けないようなすごい作品ばかりでした。
・超個人的な好みとして「黄金蝉の恐怖」「七夕」はとても心に残りました。
・「アザラシの子どもは生まれてから三日間へその緒をつけたまま泳ぐ」「境界のない、自在な」「熱と光」は対峙するのがとても難しい作品でした。こちらの読み能力不足の問題だと思うので、他の方の感想や講評を読みつつ見識を広げていきたいと思います。
・「スウィーティーパイ」「オシロイバナより」はがっつりSFとして、「二八蕎麦怒鳴る」「ヒュー/マニアック」「むかし道路は黒かった」は読みやすいエンタメとして、それぞれ楽しく読みました。
・第三回の開催、他のイベント、作品発表等楽しみにしています!


 


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