第四回六枚道場・感想

もう四回! いよいよnoteも六枚道場の感想に特化していますので何か更新したいものです。今回わたくし不参加ですが、皆さまの言葉に触れるのは控えめに言って心の特効薬なので、つらつらと感想書きたいと思います。

・感想の長さは作品評価に比例しない。
筆が乗るかはその日の気圧やお腹の空き具合による。
・いい所を探す練習でもあるので基本はほめる。ほめそやす。
でも言葉に嘘はないのでおべっかだと思わないでほしい
・あくまで感想であり客観的な批評ではない。
時折的外れな考察をどや顔で語るのを赦していただきたい

004A


1. 「ピンキーリリーの指の先」原里実さん

なんだろう、この気持ち。ぞくぞくする。こんな気持ちになれるのが小説だ。すごい。よい。すき。
夫の気持ちが全然分からない。これは「典型的な男女」の問題じゃないと思う。僕のまわりは(まわりの人も含めて)おもちゃであふれている。ぬいぐるみも合体ロボも買うし、縄跳びも投げ独楽も紙飛行機も買う。周りが変わっているだけかもしれないが、とにかく「奥さんがあんなもの、家の引き出しに大事に入れてるぼくの気持ち」が分からない。「気持ちはわかる」ってどういうことだろう。処分するほどのものなのか。恥ずかしいことなのだろうか。それとも本作中では魔法の道具たちに「おもちゃ」以上の意味が込められているのだろうか。
僕がおもちゃを買う時には、単になつかしさを憶えるの以上の、子どもの頃の時間を取り戻すような気持ちがある。でも必ずしも、子供の頃に恵まれていなかったわけではない。自分にとっての大事なことが、大人の世界にはないのだ。それは夢であったり冒険心であったりするのだけれど、つまるところ、曖昧な不確かさに対するあこがれだ。
単に社会不安と言いくるめられない、そういう不確かへの憧れに起因する揺れ動きの部分に、預言者は滑り込んでくる。それが善意か悪意か、真か偽かは知れない。予言が成就するかも分からない。けれど、共同幻想に浸っているうちは一人の主婦も魔法少女でいられる。タイトルが心にしみる。
ただここは僕と作者の見解の違いだと思うのだけれど、僕はSNSが無限だとは思えない。SNS上はすごく狭いと感じる。それを踏まえて、主人公が魔法を手に入れることが出来たならば、ネットを介さなくても、世界をもっと曖昧に出来る。小説ならそれができる。素敵なことだ。

2. 「過去形の言葉たち」紙文さん

巧みだぁ、というのが第一印象。作者の作品は道場の度に読むけれど、やっぱりこの言葉がぴったりと来る。そんなこんなで構えて読んだせいか、はじめ、時系列を誤読した。主人公が事故にあった後で、女性が「誰か」に呼び止められたラストだと思って「こりゃすごい」と思った。たった一人の発信者と読者の交歓が、無限に続いて行くんだと。あっちゃあ、誤読でした……いや、とも限らないか、などと無理やり読んでみる。だって主人公は置き忘れた携帯電話を見て「またか」と思ったのだし、ひき逃げの顛末も「そうなるってわかっていた」んだ。それに女の子パートの「毎朝わたしを起こしてくれるカラスの鳴き声が、はたして同じカラスの鳴き声なのかはわからないけれど」という一文が効いている。ループが無理のある読み方だったとしても、電車の忘れ物はよくあることだし、交通事故も、よくあることだ。記事の愚痴もうまい具合にはずされている。僕はなんとなく作中の二人に繋がりを見出していたけれど、そうだと確定できる情報は実は一つもない。
だとするとここに示された「過去形の言葉たち」とは何だろう。この一対一のブログは、ともすればその当事者の個をも挿げ替えて、いったい何のために流れているのだろう。複数形で示された言葉たちははたして一つのブログにおさまったものだろうか。素敵な想像は膨らむ作品だ。
余談になるけれども、インターネットの発達からSNSの登場までの間隙、ブログの全盛期にノスタルジックな感傷を抱ける世代は限られている。限られているけれども、その中で見れば本作から想定され得るような経験(突然更新が止まって取り残される経験)をした人は多いのではないだろうか。私事ではあるが、昔柄にもなくブログをやっていて、そこで仲良くしていた友達がいたが、3.11から更新がないまま、Yahooブログ自体のサービスが終了してしまった。取り残された言葉はとても生々しい。本作ではそのあたりが描写されない。描写されないだけに、まだ続いて行くような浮遊感がある。やっぱり巧みだと思う。

3. 「本文消失」一徳元就さん

ほんぶんが……ない……? わくわくする。これは面白い。天才かよ。偏見かもしれないが、Bで参加している伊予さんが絶対好きなやつだ。
古今東西、失われたテキストは数知れないが、それを伝説たらしめて人々を魅了するのはいつも周りの言葉たちだ。本作は直にそこをくすぐってくる。注釈文学と言えば『なんとなく、クリスタル』だけれどあれには本文がある。こっちにはない。ぬぅ、はがゆい。しかも、こんな注釈がつく本文はさぞ面白いにちがいないのだ。
いや、もしかすると、本文を読んでしまったら意外と肩透かしかもしれない。注釈だけを追っている間が一番面白いのかもしれない。すると本作の面白さというのは、注釈自動生成プログラムによってつくられたものなのか、元から作品に備わっていたものなのか、分からなくなる。でもこれは普通の読書でも起こりうることだ。文章を受け取る側の解釈やなにやで作品そのものの質が変容する。作品の面白さっていったい何なのだろうか。どこにあるのだろうか。分からなくなる。
言葉遊びも心地よい。その手は桑名の焼き蛤、嘘を築地の御門跡など、既存の言葉を弄るのはそれだけで楽しい。それにしても植田って誰だ。ビコムって誰だ。笑いが止まらない。おなかいたい。何のためにこんな注釈ソフトが創られたのか、とナンセンスなことも考えたが、「一言故事」という名前的に完全に諺を狙い撃ちしに来ている。開発者のユーモアに脱帽する。
あと完全に蛇足だけれど、注釈ソフト、なぜ麻雀に造詣が深いのか。リーツモ三暗刻ドラ六。あと一翻ほしい。はがゆい。


004B

4. 「週末エクトプラズム」伊予夏樹さん

おぅ……フェティッシュだ……というのが一読しての感想だった。そのことをハギワラシンジさんの実況キャスで打ち明けると「たしかにそうともとれる」というような反応だったので、この感想は一般的でないのかもしれない。しかし気になってしまったものは仕方がないので、あとでちょっと想像を膨らませてみる。
本作の良いところは、飄々としている姉に対して「つらいこともあるのだろう」と想像力を働かせることの出来る妹の存在だ。妹は語り部なので一読するうちは姉の方に意識が行くけれども、この妹の存在に姉さんは何度も救われたはずだと思う。兄弟姉妹とはいえ、学生生活の中で他人のつらさに思い至ることの出来る機会が多いとは限らない。僕には弟がいるが、弟が学生時代、どんなことで泣いただろうと想像しても全然分からない。本作ではエクトプラズムという分かりやすい「みんなとの違い」があるにせよ、そこから「ツラい経験はあるんだろうな」と思いを馳せれる人は優しいし賢いしすごい。なぜって、私も私で辛いことや悲しいことや、いろいろあるのだ。特に学生なら、大抵は自分のことでいっぱいいっぱいになるものじゃない?
そしてさりげなく「不安じゃないの?」と聞けるのもすごい。「姉は姉だ、私は私だ、知るか」とならない。それに対して姉さんはちゃんと不安を打ち明ける。「あんたに関係ないし」とか「別に、普通」とか言わない。これは普段から信頼関係を築けているからこそなし得る会話だ。この姉妹、めちゃくちゃ仲がいい。それが読んでいて心地いい。
でだ。ところでだ。僕はクラスに絶対一人は、「エクトプラズムが出ているのを見て惚れた」男子がいると思うんだ。絶対いる。「強烈な個性」「普段とのギャップ」「悩みの種になってそうという、安直なヒロイズムをくすぐる要素」。思春期男子をかどわかす三拍子がそこには揃っている。きっと「なにそれ気持ち悪い」とか言ってはやし立てた男子もいて、その中には本心では姉さんのことをちょっと好きになっちゃった子もいるはずだ。でも、かわいそうに、そんな恋をしたらもう普通には戻れない気がする。
姉さんは姉さんで好きな男子もいただろうと思うけれどその度に「本当のこと知ったら嫌われるかも」と悩んだはずだ。もしその相手がエクトプラズムを見て嗜好をねじまげられてしまったら……やっぱりフェティッシュだ。異論は認める。


5. 「アイマイポラリス」中野真さん

僕が百枚を費やして書けなかったものをこの作者は六枚で拾ってきた。悔しいというより尊敬する。うわー僕のための小説だ(不遜)。僕はこんな文章を書く人を追っていきたいし、文章を書いていきたい。なんだか似ているところがある気がする。勘違いかもしれないし、そう思わせることが作者の才能なのかもしれないけれど。
本作は青春もので、構成としては様々な出来事が連なっているが不良学生との絶妙な距離の取り方の部分で底が繋がっている。受験で入る私立や高校では、そもそもの目的意識がうっすら共有されている分、とんでもなく生きてきた過程の違う同級生を想定しづらいところがある。対して小中学校では家庭環境や学力素行関係なしに突然集められて「集団生活してください」と来るので、自分の環境とかなり離れたタイプの子ども達と否応なしに社会関係を築いていかなければならない。高学年から中学生にかけては、そうした中で「この子は別な人生の線を生きているんだ」ということがボンヤリと分かってくる。これに気が付かない程無垢ではないけれど、言語化して対処するほどには大人でない。そこに得も言われぬはがゆさがある。
そうした経験は、その中に居るうちは分からないが、離れてみると代えがたい経験のように思えてくる。多くの人が感じるだろう「思春期特有」であることへのノスタルジックな感慨は、たぶんこのあたりの事情に起因しているのではと思う。キングののスタンド・バイ・ミーが「あの十二歳の頃のような友達をそれ以降持ち得なかった」と語るのもそういう部分だ。
思春期の群像の中に居て誰が中心なのかが分からない。本作は「僕」を語り部の軸として、それを取り囲んでは回る人々が端的に描写されるが、一方で「僕」は周縁にいるという意識によって生まれる特有の罪悪感を抱えて、小さく傷ついている(この気持ちが痛いほどわかる)。視点によって中心と周縁が隔てられることへの繊細な気付き。加担したり巻き込まれたり無関心を装ったりしながら属することへの距離感をつかみかねている様子が、時にこぐま座のしっぽの先であり、時に極星でもあるポラリスの名を作名に冠させたのではと読んだ。

6. 「踏切」澪標あわいさん

何を読まされたんだ。告発のようで独白のようで、手紙みたいと思えば独り言にも思える。澪標さんは情景と心情を織りなす塩梅がすごい。新しい作品を読むたびに、その確信が強くなる。毎回前作を越えてきていると思う。
恋愛小説が世の中を席巻している。恋心は普遍的で、切なくて、強い情だ。だから分かりやすく人気が出る。だけれど、慕情ってもっと、曖昧で複雑で奥深く広いものだと思うし、恋愛とその他の強い感情の間には、実は思う様な明確な線引きはないのだ。そこら辺を拾うのに、作者の文体は最適だと思う。なんといってもモチーフとの距離の取り方が絶妙だ。本作では「あなた」に何があったのかは明確に示されないし、それが「踏切」とどういう形で関わるのかも分からない。想像するしかない(想像の手がかりも程よく描かれる)。でも、謎解き的な読み方で解き明かしたところで、そこに本質がないことはよく分かる。「あなた」がここにはいなくて、でも「私」がここで「あなた」のことを考えている、その瞬間しか存在しないのだという事実が、物語の情調を高めている。
それと表現がいちいち、むちゃくちゃ好みだ。「そっと花を添えたのは、私です」←この「、」の入れ方よ。「私はいくらか安心して」という一文の強さよ。僕の表現の嗜好はほぼほぼ萩原朔太郎によってつくられているのだけれど、読点で言葉を繋いでリズムとリーダビリティに破たんのない文章を織りなすところなんかはちょっと似ていると感じる。抒情を味方につけることの出来る書き手は(僕の中では)やはり強い。ぜひゆっくりと声に出して読むのを勧めたい一作だ。

004C

7. 「バラッド・オブ・ジョン・ヘンリー」ケイシア・ナカザワさん

おおお、曲調が変わった! カッコいい曲に合ってる。作者のこれまでの道場作品は静かな曲調に合わせたものが多かったけれど、こんなホットなものも書けるのかと思うと面白い。そしてやっぱり脳内BGM付きで読めるのは楽しい。違和感もない。
「そうか…そういうことか…」。なんだ…どういうことだ…。ミステリは好きなのだけれど、わぁ騙されたという感覚が好きで読み進めるので、自分で謎解きをするのは苦手だ。でもここで示された事件が単なる一対一の殺しではないことは期待できる。ともすれば長編にもなりうる陰謀や利害、駆け引きが数々渦巻いている気配がする。吉田茂の肖像やアジアンダイナーとのコネクションなど、些細な要素がいい味を出していて「まさかこれがあんな大騒動になるなんて」みたいなナレーションがふと頭をよぎる。バックヤードを想定するのが上手い人なのだと思う。
見るからに怪しい店主の外出にはどういった目的があるのだろうか。拳銃の所在を確認しているから、二人は店主に目星をつけて訪ねたのだろうと思うけれど……そもそもこの主人公たちからして、目的は単なる捜査といっていいのだろうか。殺しは、利権のからんだ抗争の報復合戦の一部かもしれないし、口封じとも考えられる。
六枚の短い中で上手く完結する事件ではなく、もっとずっと広い事件の一部を切り取って破綻なく作品に仕上げるのがすごい。小説はなにもその作品内ですべてが解き明かされてまるく収まる必要はないのだという、忘れかけていた事実を思い出すいいきっかけになった。

8. 「クジラの記憶」いみずさん

古来イノシシのことを別名で「山鯨」と言い、これは形質や行動パターンの共通ではなく単に「味が似ていた」ことに由来している。そんな由縁からか、海のクジラと山のイノシシを絡めた昔話もいくつかあって、「鯨はかつて山に住んでいた」という記述も少なくない。クジラがかつて陸の生き物だったのだと証明されるのはもっと随分後のことだけれども、科学的知識の乏しい時代に、その味をして「鯨が哺乳類である」ことに思い至っていたと言うのはなんとも面白い話である。
本作中のクジラは猪のことではなく、巨大で、海にいるような、いわゆる鯨の形で登場する。一方でその突拍子のない設定に隠れて、「私が何者なのか示されない」という点が、真に作品を難解にしているように思う。個人的には心地の良い難解さだ。
「クジラの記憶」は実際のところ随分小さくなったと思う。私たちの生活の側にはいなくなった存在だ。捕鯨解禁には賛否もあるが、手元に鯨肉がやってくることへのリアリティは、昔のそれとは大分違うのだろうと想像する。それは種としてのクジラを越えた、海そのものとの距離の話でもある。捕鯨を目的の一つとした開国要求が江戸条約・大阪条約に結びつき、日本のあまねく海岸が近代西洋式灯台で照らされた。打ち上げられた鯨は寄り物信仰と結びついて勇魚信仰を生んだ。かつて鯨は僕らと海との橋渡しでもあり、海そのものであったのに、もうずいぶん長い間、海がどんなに自分の身体と一体であったのかを忘れている気がする。
余談ではあるけれど、僕の故郷山口県では応援球団が大きく「カープ」「ホークス」「ベイスターズ」に分かれている。これは広島寄りの地域ではカープを、福岡寄りの地域ではホークスを応援しているからで、残るベイスターズはその前身である大洋ホエールズが地元企業である大洋漁業のものであったことに由来する。大洋漁業のお膝元であった下関市では、今も山の上に鯨がいる(下写真)。これは旧下関市立水族館の展示施設で、台風被害で水族館が移転となった後も、モニュメント的に残されているのである。まだ営業しているころ、一度だけ行った記憶がある。それさえもう古い記憶だけれど。

くじら


9. 「橋が落ちる」夏川大空さん

わかるー!
建築物に対する恐怖はよるべないんだ。拭い去れないんだ。そしてその緊張感はまだらで、本人がどこにこだわるかによって無頓着にも過敏にもなりうる。僕はジェットコースターは好きだが観覧車が怖い。飛行機では寝れるけれど、エレベーターでは冷汗をかく。これは僕がスピードには無頓着なのに、吊り下げられていることに過敏だからだ。本作の主人公で言えばそのこだわりの対象が橋と言う事になる。組み上げられていることへの不信感だ。
そして一度不信感を抱いたものに関して、ついつい悪い事例を調べてしまうのもよく分かる。橋の崩落といえばロンドン橋、KB橋、タコマナローズあたりだろうか。あのぐにゃんぐにゃんなってる映像見ちゃったら、安心して渡れないよね。
繰り返しになるけれど、彼の恐怖心が不均一なのがやっぱりリアルで面白い。そういう動画を見ているのならば、ホテル火災やショッピングモール崩落の動画もつらなって出てくるはずなんだ。でも彼はそこにはこだわらない。彼女が例に出したように、天井が落ちてくる可能性だって等分に存在するはずなのに、それはまさしく杞憂という面持ちである。実際、地震にはそこまで取り乱さない。「橋が落ちる」ことにだけ強く執着し続ける。これは歪な様でいてとても自然な恐怖心だと思う。人は心配性と不感症とをちぐはぐさせながらここまで発達してきた節がある。
個人的には、土木建築に関わる彼女にこそ、こういう恐怖心は抱いてほしいなと思った。たしかに縮こまっていては何にも出来ないけれど、安全神話は神話にすぎない。バランスが大事なのだろう。

004D

10. 「空のひび」深澤うろこさん

まぶしっ! 青春の暴力だ。のっけの「品性」という言葉選びから、特別な夏を思い出すラストまで一直線。会話は宙をすべるように軽やかなのに、それが決していらない物ではない感じ。たやすく、カジュアルで、でも全然空っぽじゃない、自分にとって大事なものを、自分にとって大事な方法でつかもうと手を伸ばす感じ。よい。
「ねえ、すべてはつながってる?」この一言だけで物語がぐんと加速する。空が割れる。わだかまっていた心がすとんと飛んで、次のステージでまた同じ様にわだかまる。その不器用な緩急が良いのだ。大人には出来ないのだ。儀式の展開もいい。悼む方法はひとの数だけ存在する。手作りの儀式は寄せ集めのブリコラージュで、手順も効果も拙いのだけれど、それなのに「宗教が究極ひとの心に整理をつけるためのものだ」という根源の部分には、ちゃんと手がかかっている。「普通に泣いた」という表現も素敵。友人の死を美化できない。物語に出来ない。「なんだかエモい経験をした私たち」みたいな自己陶酔をしない。それがリアルなことなのかはちょっと分からないけれども。
青春の特権と言うのは、どこかから流入してきた耳障りのよいボーイミーツガールに浮かされることではなくって、こういう心の動きを無自覚に行使出来るところにあると思う。知識や立場や処世術が身にこびりついてくると、一歩一歩階段を上っていくのが唯一無二の方法だと信じ込んでしまう。高く飛べなくなる。でも、これはノスタルジーではないけれど、もっとそうあって良いと思うのだ。もちろん、法や制度や経済はしっかりしていないといけないけれど、人の心くらいは、論理を飛び越してしまう時があってもいいと思う。そのために小説を書いている部分もある。

11. 「エラン・ヴィタール」あさぬまさん

パーソナリティの伸縮と他者関係という軸で様々な物事を散りばめた作品。第一回「脱兎」の後ろめたさ、第二回「モジホコリ」のペダンチックな観察、第三回「都市の夢」の場面展開と没入感、すべてがここにある。もしかしたら、名前を伏せて読んでも作者を当てられたかもしれない。言いすぎか。調子乗ってすみませんでした。
ボロノイ分割なんておいしいモチーフ、どこから拾ってくるんだ。すべての排他的経済水域がボロノイ分割となった地球が一つの細胞の塊に見えるというシーンは、桑実胚みたいな感じだろうか、ここがもう美しすぎて、よくそんなこと思いつくなと言うか、素直に言えばとても好きなシーン。惚れる。
第二回から予感していたけれど、作者は微視と巨視に回路のある方だ。目に見えない小ささから目に見えない大きさまでを包括することに長けている。だからこそというか(これは駄目出しとかではないけれど)、地球のシーンから直接精子へつなげた方が、風景をズームアウトしたまま微細に入り込めたような気がしないでもない。原爆のシーンが挟まると、いったん途切れるか、引き戻されてしまう感じがする。はたまたこのシーンが「後退」として意識されたものならば、それはまじですごい。
そうして個の認識の大小を旅した後、「僕」はヒトの大きさの自分に帰ってくる。それはとても寄る辺ないことだけれど、タイトルから察するに、とてもポジティブに受け取っているところにまだ希望と救いがある。

私信:第二・三回と同グループでしたが、今回は当方不参加と言う事で残念です。またぶち当たりたいですね……

12. 「未完性短篇〈挽歌〉」蝶潤發さん

まってた。なんならペンネームも何で来るのかをちょっと楽しみにしていたが、仙人、仏人ときてなぜ俳優なのか。とくに意味はないのだろうか。
そしてやはりバイオレンス。しかも表現とかの幅が段々広がってる。これは作者の成長とかではなく元々持っていた技量だろうし、かといって完全に制御され仕組まれた展開という風でもなく、なんというかクライマーズハイのような、書き上げるごとに筆がノる様な感じに思えてくる(違うかもしれないけれど)。「↗↖↗↖……」のシーンではもう、つい笑ってしまった。
内容はというと「うわーそうきたか!」という感じ。三作目にして自己言及的で、一、二作目はこのための布石だったのかとさえ思う。前作の感想では作者が見えてこないのがもどかしく、作品は読者の反応込みでは、みたいなことを書いたけれど、あながち遠くもなかったかもしれない。
というわけでちょっと意地悪な言い方をするならば、残念だったのは前二作までに、ボロクソの感想を書いた読み手さんがいなかったことだろうか。いや、いないほうがいいのはもちろん分かるのだけれど、もし以前の作品を「駄作だ」みたいに思って、感想としてSNSに上げた人が居たとしたら、この作品をどんな顔して読んだだろう、それからどんな感想を書いただろう。焦って手のひら返して褒めそやしただろうか。ぶちぎれて「認めん!」と頑なになったろうか。想像していると、なんだか悪い笑みがこぼれてくる。ほの暗い感情が湧き出てくる。怖い!
前作からの今作でようやく腑に落ちた部分もあったのだが、なによりの驚愕はまさかの(つづく)。つづく? つづくの!? ポッキーからの?! もう、いよいよ本当にどこへ向かうのか分からない。

004E

13. 「幼女先輩について」水野洸也さん

ちょっと作品には関係のない余談だけれど、「幼女」と言われて想像する年齢はどれくらいだろうか。調べると、定義としては一歳から小学校低学年くらいまでらしいが、がきデカで有名な山上たつひこの漫画「ええじゃない課」の中で「幼女=胎児から赤ちゃんくらい」みたいな解釈が採用されていたので、昨今の(元の定義に近い)幼女の扱いとはズレがある。これは想像だけれど、かつてのロリコンブーム時代に「少女」が担っていた年齢の内、幼い部分を「幼女」と呼ぶことで、「少女」を恋愛対象として公言することの免罪符としたのではないだろうか。今オタク界隈における「幼女」は「さすがに恋愛対象としては見ない存在」という扱いだけれど、まあ少女もダメだろうとは思う。現実と創作では違うから何とも言えないけれど。
本作はタイトルがなによりもまず強いが、その背景にはうっすらとこういう事情(創作上の幼女に対する一般認識)が存在する。僕らは幼女に無力を見るから、作中における語り手の無力との反転が面白い。幼女に無邪気を見るから、作中の残虐さが面白い。これはストッパーにもなっている。どこかでまだ幼い子に対する無邪気を信じる気持ちがあるので、本作での展開に腹を立てたり、気分を害したりすることなく読み切ってしまえる。「子供のすることだから」を上手く利用している。語り手の慇懃無礼さは無力というよりほのかな信頼に映って、本作のヒロインがなんだかそう悪い奴でもないような気がしてくる。
しかし読み返してみると、作中における「幼女」はもっぱら「幼女先輩」という固有名詞として使われているのみで、彼女が実際何歳の何者なのかは示されていない。彼女の情報は女性であること、両親が健在であること、語り手よりも年下で経歴が長いこと、それだけで、実際幼女かどうかはわかったものではない。むしろこなれた難しい言い回しで喋り、音楽に聞き入ることを「年甲斐もなく」と行減される彼女の年齢は割と高めかもしれない。前述のことを踏まえると、僕らは巧みに誘導され、雰囲気よく読まされてしまっているのだ。悪い出来事でないような雰囲気への誘導は、語り手の犬奴隷君の感慨に重なるところがある。

14. 「ギャラクティカ拉麺」小林猫太さん

いやぁ、よいですね。こういう作品を読めるのはよい。毎回の開催ごとに二三作はこういう作品を読みたい。
とにかく「ギャラクティカ」要素の塩梅が絶妙。この作品、銀河要素を抜いてみると驚くほど普通の「食通もの」パロディだ。ネットの記事で読んだのだったか、「食通もの」は大げさに単語を叫んでおけば、知識のない読者でもついてくるみたいな論を読んだことがあって、実際半ばネタ化されつつ、そういう作品は世に溢れている。一方「宇宙」を扱った表現もこれまた大げさすぎる場面展開で笑いを誘ったり、馬鹿馬鹿しさを演出するのによく使われる。背景に銀河星雲が広がるだけでなんだか爽快で面白い。
普通大仰な表現と言うのは、それ単体では進めない弱い展開に付加することで強引に歩かせるブーストツールとして多用される。しかし本作では、大げさに大げさを掛け合わせている。もっと言えば、現実では何でもないはずのフードファイトを大げさに誇張した「食通もの」に下地を置きつつ、そこからなぜか宇宙まで追加されて、何が起きるのかを実験しているようだ。そしてこの実験結果が「単なる掛け算」ではないのがまた面白い。二つの要素は殺し合うわけでもなく、けれども、2×2=4みたいな単純な相乗効果も起こっていない。二つの大げさは、どちらかというとぴったり寄り添うようにして、一つの程よくスピーディーな物語を織りなしている。刺激に刺激を重ね、究極の陶酔を目指したところで、究極の陶酔にはたどり着いていない。なんだか作品自体が銀河味噌拉麺と通じている様である(かなり強引)。
ところで辛い物をひたすら求めてしまう人間は一定数存在して、僕もその一人だ。スコヴィル値と聞けば振り返り、激辛と書いてあれば手を伸ばし、舌を焼いてお腹を壊して、それでも次の激辛商品を求めてしまう。彼女に「舌だけドM」と言われる始末である。なんでだろうね。どうして求めてしまうのだろうね。店主の言う「危険と隣り合わせの陶酔」って何だろう。前回僕は「生きてる感」についての小説を出したけれど、もしかすると、そういうものとも同根なのかもしれない(かなり強引)。

15. 「Nothing」今村広樹さん

フランク・ステラの黒い絵をきっかけとして、盛んに縮小合戦が繰り広げられたミニマリズムアートのことをちょっと思い出す。「六枚という制約」が起点の道場だから、作品の小ささに挑む人が居るのもうなずける。
マイケル・フリードは「芸術と客体性」においてミニマリズムを批判する際、作品そのものに内在するはずの芸術性の不在、空虚を問題としたが、そこで「リテラリズム」という語を使っているのがなんだか面白い。直訳すれば「文字通り」ということだけれど、文字通りの文字とはなんだろう。あ、いや、文字なのか。一周まわって分からなくなるぞ。
強引にフリードと本作とを絡めるならば、本作は夢落ち以外の何物でもないわけで、となるとその内容は文字通りに扱うより他なく、「夢落ちかい!」という読者のつっこみと、そこから始まる各要素の深読みや分析、言い回しの好みによってはじめて、かろうじて作品としてのオリジナリティを獲得するものととれる。その内容は読者の特別な体験を強く想起することを狙ったとは考え難く、またほかの作品ではだめで、この場でしか体験できない展開が用意されているわけでもない。ただ六枚道場という舞台で「小説」として投稿された事実が本作を小説たらしめている。
もっと強引に読むなら、流行りの「異世界転生」を中心に置いているのもおもしろい。一部のライトノベルやなろう系に見られる展開、キャラクター、世界観の定形化と量産には図らずもシルクスクリーンアートのような趣があるので、いずれ来る流れとして本作のような作品が出てくるというのも、一概に無しとは言えないかもしれない。
とまあ拙い知識でいろいろ書いてみたものの、本音を言ってしまえば、短いがゆえに感想も短くなるのが悔しくて、意地で文字数を増やしているのだ。この悔しさは小説作品の扱いを「何かしらの意図を読解・解釈することである」と無自覚に思い込んでいた事実を突きつけられたことに起因する。もっと自由に読みたいものである。でも、そのままを見てやるのはとても難しい。

16. 「にせものにんげん」千早とわさん

これも古い話をするけれど、特撮ドラマの「マグマ大使」を見たことがある人はいるでしょうか。いたらぜひ語り合いたい名作で、仮面ライダーやウルトラマンとはまた違ったほの暗さ、独特さが癖になる。話は地球征服をたくらむ宇宙の帝王ゴアが送り込んだ怪獣たちを、正義のロケット人間マグマ大使とその家族が迎え撃つという構成なのだけれど、主人公のマモルは直接変身するわけではなく、マグマ大使の息子であるガムの友達という位置づけになる。マグマ大使側にもマモル側にも家族がいて、作品はヒーローアクションより家族視点のサスペンスに重点が置かれている。
さてこのマグマ大使においてゴアがけしかけるのが「人間モドキ」である。これはルゴース星人という宇宙人によって生み出された生物兵器で、人間そっくりに化けることが出来る。ゴアはこの人間モドキと地球人を秘密裏に入れ替えてしまおうと画策する。
そして作品序盤で、人間モドキ計画の指揮にあたっていた「ルゴース2号」が正体を現すのだが、コイツがいつの間にか入れ替わって化けていたのは何と主人公マモルのお母さんだったのだ。しかもその入れ替わり、一話で解決しない。そのまま行方不明になったお母さんは終盤まで行方不明のままになる。安心しきっていた家族の空間に、知らないうちに異質なものが紛れ込んでいるという恐怖たるや。半端ないトラウマである。
長いまえおきになったけれど、上記のことを思い出したので本作もめちゃくちゃ怖かった。「お父さんはお父さんだよ」。やばい怖い。このへんのトラウマが強すぎて、最後、どちらが味方なのかという切り替えが上手くいかなかった。僕やお母さんが本物人間で、お父さんだけが偽物ならば、入れ替わり説もあるだろうか。そうならば黒服たちが来ても、必ずしも悪い結末にはならないか。けれどお母さんの描写や反応、僕の夢の内容から、この一家がみんな偽物人間だとすると、彼らはいったいどうなってしまうのだろうか。全部僕の妄想だと思いたいけれど、先生が話していたり、実際黒服の男がいるもんだから如何ともしがたい。ラストのチャイムは黒服たちだろうか。偽物人間とは一体何者だろうか。ちょうど気になるところで終わっているのが巧妙だ。こどもの僕から見えている/想像できることも少ないだろう。けれどもどうにか、この一家には無事であってほしいと願ってしまう。
話は戻るけれど、皆さんの感想をチラ見していると、思い出したものがそれぞれ違っていて面白い。クレヨンしんちゃんの映画とか、妖怪人間ベムとか。こういう「身近なものが別の何かかもしれない」というのは、こどもにとって割と普遍的な恐怖のようで興味深い。そしてどういう訳か最近はそういう作品が少ないように思う。本作でもキャンディによる懐柔や「坊や」という呼び方に昭和チックな響きがこもる。そこにはかつて「一様の平和」「一様の幸せ」に対する漠然とした不安感が存在したのではないかとも思う。

004F

17. 「ペリドットの瞳」草野理恵子さん

僕は人間の身体の中で、瞳が一番好きだ。あと宝石も好き。だから宝石を目嵌めこむなんて、そんな、そんな美しいことが許されるの!? と思いながら読んだ。
草野さんの詩は「私であって私でないもの」への回路がとてもささやかで、大仰すぎない分だけ心に入ってくる。それに、出てくるモチーフを、最後まで何だか分からないもののままにしておけるのもすごい。貸し借りが出来てビームの出るペリドットの目が何物かわからないのに、母も知らない双子の姉が具体的な病名をもって死んでしまうのがどうしてかわからないのに、それらがそこに確かにあったんだという事だけは信じられる気がする。読むと自分がいったいどこにあるのか分からなくなってくる。信じられる言葉を織りなせるのはすごいことだ。ものを書くとき、知識を核としてガチガチのストーリーラインを作るところから始める自分には出来ない芸当である。
心が寄る辺ない時期に、もう一人、待避所みたいな自分を作るのはどれくらい一般的なことなのだろうか。僕は自分が強くって、その分苦しい思いもしたけれど、もう一人を傍に置くことはしなかった。けれど周りの話を聞くとそういう人もちらほらいるので、案外メジャーなことなのかもしれない。草野さんはどうでしょう。
姉が死んでしまったことを諦めととるか成長ととるかで読後の味が変わる様な気がするが、それは表裏一体のようにも思う。大人になってしまった今となっては、身の周りの物が、子供の頃ほど宝石のように輝いてはくれない。海で拾った石みたいなものに美しさを見出しながら生きていくしかない。あのころのキラキラはどこへ行ったんだろう。「私」は姉の骸をずっと携えて生きていくタイプの人だろうか。何にも忘れられる強い人だろうか。文学をやる人には前者が多い気がするけれど。

18. 「砂漠の花」黒塚多聞さん

作者のここまでの足跡を見ているような気分だった。ここまで来ても砂漠は砂漠のままである。歌や詩や、言葉に希望を見出しても、この世界は生きていくには少しだけしんどい。
五首目の「業」という一文字がとても腑に落ちる。花は美しいけれど、それに心惹かれると認めることは、自分が砂漠において異化された存在であると認めるのに等しい。詩情に価値を見出した自分を肯定すると言う事は、周りのすべてが間違っていて、あと一歩、二歩、十歩あるけば「ほんとうの」世界につつまれて、生きるのがたやすくなるのだという幻想を、捨てることでもある。多くの他の人は、四首目のような呪詛を吐き続けながら力尽きるまで歩いている。どっちが幸せだろうと考えだすときりがない。そういう性としか言いようがない。
ところで「砂漠」書ける人って一定数いますよね。僕理解できても完全にはピンとこないんですよ。僕は同じ感覚で書けば確実に舞台が海になるのだけれど、もしかして文学者には表現における「山派・海派」みたいなものがあるのだろうか。みんなに聞いてみたい。

19. 「さんぽ道」乙野二郎さん

さんぽ良いですよね。僕さんぽ大好きです。
本作で描かれる視線のズレ、思考の小さい広がり、急に途切れる描写や言葉どうしの繋がりのなさは、僕がさんぽしている時のそのまんまなので、幻想表現というよりも、がっつりリアリティのある、写実的なものとして読んだ。
さんぽ中の思考って、う~んと考え込んだり、ぼうっとしている時みたいな深度と広がりはなくって、まるで花のぱっと咲いてはしぼむみたいに、これからってところで次に移るんだよね。それは他でもない自分の足が実時間、実空間的な地面を踏んで移動しているからで、地面を離れて完全な空想の世界へと飛ばないうちに、次の一歩でまた地面に戻っている。じっとしているとどこまでも深く潜ってしまうタイプの人間にとって、さんぽは程よい頭のクリーニングになる。しばらく使っていなかった部分をちょっとづつ動かして、油をさして、全体の不調を整えるような心地よさがある。
願わくば、思考が実物より少し遅れている描写があればまた面白い。風船の紐を持って走る子供みたいに。「そういえばさっきのあれ……」という感じで。これは個人的な好みだけれども。
不要不急の外出が出来ないこの頃、さんぽは自分の立っている場所を確認するための最後の砦になっている。そしてそこには技能も経験も必要ない。「移動すること」は人類の、生き物の根源的な存在理由と深く関わる部分があるように思う。それを思い出せる最も手軽な方法がさんぽである。
なんだか作品感想というより散歩ダイマみたいになってしまった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?