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「天国崩壊」読んだ話

伊藤なむあひさんの「天国崩壊」を読み終える。

なむさんはこっそり推しの作家さんの一人。
BFCの「跳ぶ死」で目にとまり→めずらしいペンネームを速攻で覚え→タイセンEでタイトルに惹かれ読み→「あ、しゅき」となり→「来たときよりも美しく」や、かなこさんとの共著「aneimo」を読み→「しゅき」継続し→「天国崩壊」とか言う超絶香ばしいタイトルの作品が、完璧なタイミングでやってくる。無意識にポチる。なむさんのマーチャンダイジングが半端ない。

 感想だけれど「うわあ、なんだ、なんだこれ。すごい、すごいぞ。わー」という感想から膨らました言葉なので、体系立っていないし的を射てもいないと思う。あくまで感想、思ったこと。です。まだの人は必読。買いましょう。面白いので。

 さて事前情報や、BFCEに参加されていた同世界観の短編「天使のマーチャン・ダイジング」から、どんな物語になるのだろうと思っていたけれど、読んでみるとその実は恐ろしく示唆に富んだ、それなのに何一つ掴めない、美しく滅びてゆくナラティブの集合といった感じだった。
特にこれらの物語に現れる不思議と現実離れしたリアリティは癖になる。例えば(日本人なら)慣れ親しんだ固有名詞や、手をちょっと伸ばしたところにある常識や、一見過剰にも思える対象描写のすべてが、「そこにありそう」に向かって書かれている、言葉のすべてが、この物語上の出来事を、質量を持った存在たらしめるために動いているなと感じた。だからというか、天国の崩壊や天使の存在をいつの間にか(フィクションかどうかを超えて)疑いなく受け入れてしまうし、作中の生死はとてもさらっと書かれるのに、それがライトな描写には思えない。
 そして、そこまで現実味を持った世界の全体像を、読者の僕は捉えきれない。結局何が起こっていたのかを簡単な言葉に置き換えることができない。ヒントや考察が足りないのかもしれないけれど、それ以前に、この作品がそういう視点に置かれていないのがよく分かるからだ。だから読み終えてみると、天国があったかどうか、とか、病気が何だったのかとか、そういうことを考えるのもなんだかナンセンスでずれているように思えてしまう。
 それは個々の小さな物語がそれぞれに閉じていることや、それらを数珠つなぎにする章が神様とネット配信という象徴的な形をしていることからも受け取れる。はたして「世界を俯瞰する」とはどういう行為だろうと、読後頭を抱えてしまう。
 たとえば「天国」「地獄」と聞いたときなんかに、それらに対峙しうる存在としての「この地上」「この世界」を、僕らは大概(誰に言われたわけでもないのに)巨視的に俯瞰的に捉えようとする。でもこの小説にはそれを拒み続けられた感がする。たとえ小説の中だろうと、世界を把握しきろうなどという試みはおこがましいんだよ、と突きつけられる。
 もちろん作者には明確な答えがあって上記の感想はまったくはまっていないかもしれないけれど……よいものを読んだという実感だけは確かなので、ここらで勘弁してください。まだ読めていない他の作品も読んでいこうと思いました。


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