怪談_記事

『怪談に学ぶ脳神経内科』【企画誕生前夜】第参夜(駒)


「みんなで力を合わせて綱を引きます」

 「みんなで力を合わせて綱を引きます」という文章は,言わずと知れたMini-Mental State Examination(MMSE)日本語版の検査項目の一つである.長谷川式認知機能スケールと同様,ベッドサイドや外来にて数分でできる認知機能検査として脳神経内科では日常的に用いられている.患者さんに復唱していただき,その能力を評価する.原版の英語版ではこの部分は“No ifs, ands, or buts”(もしとか,あととか,でもとか言わない = 言い訳無用)という文章である.こんなところに国民性の違いを読み取ってしまうのは,星の並びに星座を読み取ってしまうような恣意的な解釈であろうか.

 さて,企画誕生前夜,そこから遡ること十数年……
 なんてことない病棟実習でのこと.カンファレンスルームで気管奇形腫の症例を学生に提示し終えた外科系教授が真顔で語った.
 「子供の頃『少年クラブ』で読んだ話をずっと嘘だと思っていた.「夜中に急に咳き込んでいると,喀血とともに女の髪の毛が出てきた」という都市伝説,あれは今思えば気管にできた奇形腫の破裂だ.嘘は書いていなかったんだ.」
 ……そう,都市伝説や怪談には,勘違いや嘘なんかじゃない,まっさらな現象そのものの記録と考えられる事例がある.日々の診療で,あるいは当直・夜勤の病棟で,医療者はふいに不思議と向き合うことがある.学問が解明しきったことなど,21世紀現在のいまもって世界のごく表層にすぎない.

 民間伝承あるいは古典文学は,科学登場以前から伝わるものだが,根も葉もないことにとらわれていたかというとそうでもなくて,その合理的な姿勢に現代科学と変わらないと感嘆することが度々ある.そうした文学好きの感動を,医局の同好の諸氏とともに細々と共有する日々の中で,議論が洗練された場合には論文にし医学雑誌に掲載される機会があった.論文投稿は,さらなる同好の士の元へ,あるいは同じ困難に向き合っている同志へ,あるいは好奇心と探究心あふれる誰かに,届けばいいが,あてはない.しかし思いのほか広い展望のある場所にまで届くこともある.ある日,中外医学社さんから“こういう本”を書いてみないかという声をかけていただいた.本が進むべき方向は出版社から与えていただいた.自分の力の範囲を超えて言葉が成長していく様を揺籃する作業は冒険のように楽しかった.

 ところで,文系と理系はいましっかりと分かれていて,文系学部は国立大学では縮小すべきだという意見が文科省からあるのだという.文学はいまや自分の力を自分自身でしか承認できない苦境にある.私は8歳の頃から詩を拠り所にしている珍しい類の人間なのだが,そんな小さな存在に不釣り合いだと言われるかもしれないが言葉に対する自負を持っている.言葉の謎を追求していく中で,22歳の頃,図書館で「Penfieldの脳地図」に出会った.神経学という領域に言語の秘密を解く鍵があることを知った.

Penfieldの脳地図(運動野)

図.Penfieldの脳地図.Penfieldの論文および著書に添えられた奇妙で魅力的な図画はElinor SweezeyとHortense Cantlieという二人の芸術家の手による(1)

 同時期にNHKで医原性のWernicke脳症を患った方とその家族を,支えるような視点で取材したドキュメンタリーを観た.胸に突き刺さるメッセージが強烈に残った.ある家族の記録のような題名で,撮影した人は是枝裕和という名前だった.そのまま胸に刺さったモノが抜けず,詩では社会貢献ができるメドは立たない,脳神経内科医にならなければならないと思った.熱烈な神経学への希求の核にあるのはしかし,こうした文学的な出会い以外のなにものでもない.一つ一つ理論と実証を経て,蓋然性のある答えにたどり着かせる作業も尊い.でも一方で,心の中心にまっすぐ突き進み,人を動かすことができるのは文学ではないのか.

 20年以上前に心に強烈に響いたあの番組は,今では誰もが知る是枝裕和監督が撮影したドキュメンタリーの一つで,Wikipediaによると題名は『記憶が失われた時...~ある家族の2年半の記録』とのことだ.名監督の映像には医者を一人生み出してしまうほどの力があった.
 是枝監督もまさかそんなふうに受け取って走り出す者がいるとは思っていないだろう.でも,私自身はこのバトンを次の人につなげたい.

 『怪談に学ぶ脳神経内科』は,医学生や医療系学生,研修医,最前線で働く医者や医療従事者を具体的に想定して,皆で楽しく学べるように書いたつもりだが,さらに生命や脳の不思議に興味があるすべての人,そして人間の不思議に寄り添った医療に将来携わることになる中高校生にも,届けばいいなと思う.

参考文献 
(1)Wilder Penfield & Herbert Jasper. Epilepsy and the functional anatomy of the human brain. Little, Brown Company, Boston, 1954.

書籍タイトル
『怪談に学ぶ脳神経内科』

予約ページはこちらから
http://chugaiigaku.jp/item/detail.php?id=3129

著者略歴
駒ヶ嶺朋子(こまがみね ともこ)
1977 年生.2000 年早稲田大学第一文学部卒.同年,第38 回現代詩手帖賞受賞(駒ヶ嶺朋乎名).2006 年獨協医科大学医学部卒.国立病院機構東京医療センターで初期臨床研修後,獨協医科大学内科学(神経)入局.脳神経内科・総合内科専門医.2013 年獨協医科大学大学院卒.医学博士.詩集に『背丈ほどあるワレモコウ』(2006 年),『系統樹に灯る』(2016 年)(ともに思潮社)がある.




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?