シン・エヴァンゲリオンは考察する映画ではなく、解釈する映画である。

そもそもシンエヴァは考察ではなく、解釈をする映画です。考察は諦めましょう。だって劇中で全部不自然なほどに説明してますからね。
だから何度も繰り返し見て咀嚼してやっと【理解】するようなタイプの映画ではない。咀嚼して【味わう】映画ですね。アベンジャーズ/エンド・ゲームと同じです。

以下ネタバレ注意。

シンエヴァは【庵野さんが13号機と共に死ぬ】作品という解釈が旧シリーズまで含めて一番一貫性があると思う。

思い返せばエヴァに搭乗する14歳の子どもたちってみんな庵野さんだよね(もちろんゲンドウも)。アスカが加持さんに思いを寄せていたのすら、庵野さんが加持さんのような大人になりたかったっていう憧れの現れにすら思えてくる。
希望の槍を届けたのは大人組筆頭のミサトさんで、その槍を使って最後13号機とエヴァたちは死ぬ(死ぬという表現がこの場合適当かは置いておくが)。お話の作りとしてはこの槍は人の希望だとかなんだっていう、ある意味綺麗な言い分だけど、よくよく考えたら大人に殺られるって構図にもなる。

その次の場面においてはシンジくんたちは成長しているわけだが、シンジくん(一番庵野秀明を写している存在)の声が神木くんになっていることだけがこの作品で一番引っかかるところだった。じゃあなんでだろう?って考えた時にやっぱり新海誠(神木くん+声優っていうとアレを思い浮かべないわけがないじゃない)という次の世代にバトンタッチっていう意味合いがあったんじゃないかなぁと思っちゃうんだよね。

最後の初号機vs13号機なんてシンジvsゲンドウっていうより子どもの頃の庵野秀明vs大人になった庵野秀明だもん。第三新東京市での戦いもあえてミニチュアのような演出をしている(建物の壊れ方がミニチュアが吹っ飛んでる不自然なものになっていた)。こんなの普通ならコメディなんだけど、アクションシーン抜きにしても庵野秀明の凄味を感じさせる鬼気迫るものがあった。それは恐らく自分を殺す覚悟だったのかもしれない。

エンドロール見ているとスタジオジブリ「となりのトトロ」って映像使用協力のクレジットがあったと思うんだけど、第三村のシーンなんかジブリを想起せざるを得ないよね。これはある意味宮崎駿へのアンチテーゼでもあり、リスペクトだったのかもしれない。
そういえば、シンエヴァって第三村(宮崎駿)→マイナス宇宙(庵野秀明)→ラストの駅と神木くん(新海誠)っていう不思議なバトンリレーにも思えてくるよね。だから見ている最中に日本アニメの集大成だなぁとか思ったのかねw

まあ庵野秀明のマスターベーションと賢者タイムですっきりっていう鑑賞後感は変わらないんだけど、庵野さんは「私は好きにした、君らも好きにしろ」って全シリーズを通して言っているように感じた。

追記

とりあえずシンエヴァで分かったことは、庵野秀明作品は深く考えず正直に受け止めるのが正解ってことだね。俺たちが考えすぎていたのかもしれないw

そしてシンエヴァの評価は難しい。長年待ち望んだ完結っていう補正がかかるから、この作品を正当に評価するのを難しくしている。
むしろ旧シリーズ、序破Qシンエヴァと一気に続けてみたら評価が違うかもしれない。平行宇宙にいる一気見した自分と感想を語らい合ってみたいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?