クウェート留学講義1「ムスリムである条件」
年間5名が行けるクウェート留学。
毎年、沢山の方がこの選考に応募しているわけですが、私もブログを書き始めて、皆様にクウェート留学について発信し続け、アドバイスし続けてもう3年が経ちます。
そんな中、クウェート留学相談を受けていて、イスラームに関する理解不足を感じています。
いまだムスリムになれていない私ですが、クウェートに留学し、見聞きし、イスラーム法学を自分なりに勉強してきた身として、イスラームについて皆さんに最低限知っておいてほしいことをお伝えします。
「イスラームは平和の宗教」とか、「豚肉は食べちゃだめ」とか、「礼拝は一日5回で~」とか、表面的な話はするつもりはありません。
基礎的ではありますが表面的ではないディープなお話、私が思うイスラームの核心をお伝えしようと思います。
今回は「ムスリム」についてです。
【ムスリムである最低条件】
もし、イスラーム教徒の方、つまりムスリムの方とお会いしたことがある人は、その方を思い出してみてください。
複数人知っている方からしたら、「お酒を飲む人もいるし、毎回礼拝をかかさない人もいるし・・・」と、「ムスリム」と言っても、信仰度具合にはだいぶ差があると思いませんでしょうか?
では、皆さんはムスリムであるための最低条件を答えるとしたらどう答えますか?
「毎日礼拝を行なうこと」「教えにならった生き方をすること」「お酒をのまいない、豚を食べないこと」・・・
人それぞれ思いつくものは違うと思いますが、大事なことは以下の文に全て収まっています。それは...
لا إله إلا الله. محمد رسول الله
日本語で無理やり読むと「ラー・イラーハ・イッラー・ッラー。ムハンマド・ラスール・ッラー」です。意味としては、「アッラー以外に神はなし。ムハンマドはその使徒である。」です。
無理やり日本語で解説すると、
ラー(ない)・イラーハ(神、特に多神教の神)・イッラー(~以外)・ッラー(唯一神アッラー)
→唯一神アッラーを除いて、神はいない。多神教はありえない。
ムハンマド・ラスール(使徒)・ッラー(唯一神アッラー)
→ムハンマドは唯一神アッラーの使徒である。
となります。
皆さんご存知の通り、ムスリムになる際に唱える言葉です。この言葉で、ムスリムであることが証明されます。
最初の1文「アッラー以外に神はなし。」では、一神教であることが特定されます。
2文目では、その一神教の中でもイスラームであることが特定されています。
セム系一神教にはユダヤ教、キリスト教、イスラームがありますが、実はそれぞれ繋がりを持っています。
預言者は沢山現れていますが、
ユダヤ教はイエスより前に現れた預言者を信じる宗教です。
キリスト教はイエスまでの預言者を信じる宗教です。
そして、イスラームはムハンマドまでの預言者を信じる宗教です。
つまりイスラームにおいてはイエスも預言者ですし、モーゼも預言者です。実際に聖典クルアーンにもイーサー(イエス)、ムーサー(モーゼ)と、預言者たちについての言及があります。
預言者ムハンマドを神の使徒として認めることで、一神教の中でもイスラームを信仰していると決まるのです。
イスラームに入信する際に必要となるのはその2文です。お酒を飲まないとか、豚を食べないとか、枝葉のことよりも一番大事なのは、
唯一神を信じ、ムハンマドを預言者と信じることなのです。
この説明として、松山洋平先生は『イスラーム思想を読みとく』で次の伝承を示しています。
「あなたの共同体のうち、アッラーに何も並べたてずに死んだ者は楽園に入る・・・・・・たとえ姦通を犯しても。たとえ窃盗を犯しても」
もちろん罪は罪ですが、それが理由で「信仰者」でなくなることはないのです。お酒を飲んだからといってムスリムでなくなるわけではないということです。
ちなみに日本人がムスリムになる場合、日本はイスラームの宣教が届いていない多神教徒の土地なので、入信が最優先事項とされ、全ての義務行為が免除される、という解釈も出来るようですね。
プラスαコラム:イスラームと一神教、多神教
「アッラー以外に神はなし。」
先ほどから説明しているこの言葉、イスラームにおいては特に歴史上で重要な項目です。
皆さんは、イスラームにとって他の一神教と多神教、どちらのほうが歴史的に深い因縁があると思いますか?
イスラームの歴史とイスラーム法の観点から見ると...
実は多神教のほうが因縁が深いことが分かります。
イスラーム誕生以前、アラビア半島は多神教の土地であり、部族社会でした。その土地にイスラームが誕生し、後にアラビア半島を出て世界へ広がり、イスラームの下で統一されていきます。
イスラームの拡大に当たって、多神教徒からの反発が大きかったことは想像にたやすいかと思います。
メッカからマディーナへのヒジュラ(聖遷)も、多神教徒からイスラームが受け入れられず、迫害されたことが直接の原因です。また、多神教徒との戦争が多かったため、多神教徒との戦闘に関する規定もイスラーム法では細かく決められています。
対して、ユダヤ教徒はキリスト教徒は啓典の民、つまり同じ一神教の民として受け入れられています。
例えば食事の場合、日本では「ハラール認証」に躍起になっていますが、キリスト教徒の住む土地の場合、啓典の民に許された食べ物はムスリムも食べることを許されているので、「欧米では食べ物をあまり気にしない」とムスリムの友人から聞くことが多いです。
一神教か多神教かであるかは、大きな違いです。
「イスラーム国がヤズィーディー教徒の女性を奴隷にした」という話も2014年にニュースになりました。これはヤズィーディー教徒を多神教徒と考えた場合、イスラーム法学上理に適った事項です。アル=マーワルディーの『統治の諸規則』では、以下のように記述があります。
敵方の捕虜のうちサビーと呼ばれるのは、捕虜のうち女性と子供たちである。それが経典の民ならば、神の使徒ムハンマドが女性と子供を殺すことは禁じられたゆえに、殺してはならない。彼らは奴隷とされる捕虜として、他のガニーマとともに分配されるべきである。無神論者(ダフリーヤ)とか偶像崇拝教徒のように、啓典をもたない民に属する女性たちで、イスラームを拒否した者たちの場合は、シャーフィイーによれば殺してもよい。アブー・ハニーファはそういう女性捕虜は奴隷にすべきだと言う。奴隷にするときは、母親とその子供は離すべきではない(『統治の諸規則』,pp324,325)。
今でこそキリスト教とイスラームの対比で物事を考えられることが多いですが、歴史上は多神教徒との対立が色濃かったことは、覚えておいて損はないと思います。
また、余談ですが、イスラームの拡大に当たっては、戦争を免れられなかったので、軍事や統治に関する取り決めが詳細になされています。「イスラームは平和の宗教」と言う場合には、どういった観点での「平和」なのかを考える必要があります。
何を見てどのようにイスラームを見つめるか、イスラームについて語る各教授もそれぞれで見方が全く異なるので、各書読み比べてみると面白いと思います。
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