もみじ

「吾輩はもみじである」という文章は成立している。「吾輩は猫である」という文章があるから。というわけで、吾輩はもみじである。ちなみに名前はある。

 もみじと言っても人名ではないし、猫など動物の名前ではない。純然たる葉っぱの紅葉だ。もみじが思考している点をまずは受容してほしい。

もみじには、その木の一枚一枚に名前がついている。私の名前は「紅葉の時期に来たいね」だ。もみじの名前は基本的に人間の話した言葉があてられる。そのため、他には「もう散っちゃったね」「来週だった」「秋に来たいね」「綺麗」といった具合だ。被りがないように付けられているため、何回綺麗と言われてもその栄光を享受するのは一枚だけだ。

 もみじ界も昔とは変わってしまっており、昔はみんなで綺麗に赤くなろう!といった一致団結感があったが、インスタグラムの隆盛によってそれも様変わりした。写真にアップで撮られやすい、人間の目線くらいに垂れ下がった場所の価値が上がったのだ。写真にアップで撮られ、インスタグラムに乗る。それがもみじたちの承認欲求を満たすようになったのだ。

 六月のある日、その木のベスト・ポジションにいた一枚の葉が足を滑らした。彼の名は「君と出会ってから、僕の心はずっと紅葉模様だ。僕と結婚しよう」だ。長い名前だった。

 もしも、「君と出会ってから、僕の心はずっと紅葉模様だ。僕と結婚しよう」が散った場合、ベスト・ポジションは別の葉になる。嫉妬に狂うもみじたちは心のなかで思う。「そんなんじゃ秋までやっていけないよ」「早く落ちな」といった具合に。

もみじ界も大変である。


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