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怖いから動かないのか、怖くても動くのか

パラダイムシフト・コミュニケーションというセミナーを受けたので
理解を深めるためアウトプットがてら記事を書いてみようと思います。

「パラダイム」とは思考の枠のことを指します。
これはいつの間にか作っている限界であったり
「世間とは、自分とはこのようなものだ」という考えや信念のことです。
日常の中のちょっとした言葉がけに
自分が持つ思考の枠、パラダイムが現れるとのことです。

セミナーでは部下や同僚などに対するコミュニケーションについて
主に説明されていたのですが
子育て、あるいは自分自身に対する言葉がけについても同じだそうです。

相手や自分の思考の枠を外し
相手や自分の可能性を開くような言葉がけなのか
それとも相手や自分の可能性を閉じ
やる気を奪ってしまう言葉がけなのか…

例としてこのような問題が出題されました。

あなたに5歳くらいの子供がいるとします。
その子といつもの道を散歩していると
その道の途中に犬がいました。
見たところ普通の犬です。
その子供はその犬を見て固まっています。
どう声をかけますか。

私は「大丈夫だよ、怖くないよ」
みたいに声をかけるかもなぁと答えました。

ただこの答えの中にしっかり
自分のパラダイム、思考の枠、決めつけがあるのですが
何だと思われますか?

それは「この子は怖がっている」と決めつけているということです。
実際に怖がっているかどうかは分かりません。
なぜなら子供は強く興味がひかれた場合も固まっていたりするからです。

人は「これがもっともらしい」と最初に何か思いついてしまうと
別の答えがあるとは思わなくなってしまう傾向があるとのことです。

講師の先生はまず「どうしたの?」と聞いてほしいとのことです。
これはどんな答えの可能性もあるオープンクエスチョンです。

問題の続きです。

子供に「どうしたの?」と聞いたら
「怖いの」と返事が返ってきました。
あなたはどうしますか?

私は
「私がそばについていてあげるから大丈夫だよ」
みたいに答えると思います。

しかし一見、優しそうなこの言葉がけなのですが
子供の可能性を奪ってしまうかもしれないとのことです。

というのも「自分は無力だ」とか「一人じゃ何もできない」
という植え付けをしかねないとのことです。

またもう一つ重要なことも無視しています。
それは「人はそんなに単純な存在ではない」ということです。
つまり何かの出来事に直面した際に湧いてくる感情は
一つだけではないはずです。
「怖いけどその犬に触ってみたい」とか
「怖いけど仲良くなりたい」みたいな感情だったりもします。

しかし大人が一つ目にたどり着いた感情で対処してしまう
とその子自身もそれ以上自分の内面を
見つめるということをしなくなってしまいます。
講師はこのような状態を
「浅いところばかりを触るコミュニケーション」と呼んでおられました。

こうして育てられた場合
大人になってからも自分自身に対して
感情を深掘りすることができない
つまり自分の心と向き合うことができないようになってしまいます。

このような場合は
「他には?」と聞いてほしいとのことです。
問題の続きをいきます。

その子から
「怖いけど、触ってみたい」という返事が返ってきました。
このような返事に対してはどう返答しますか?

こうした場合大人が
「じゃあわかった」と言ってすぐに対処しないこととのことです。
どうしたらいいかというとさらに
「他には?」と聞いてほしいとのことです。

そんなに繰り返し聞かなくちゃいけないのかなと思うのですが
これに対する講師の例えが面白かったです。
もしあなたが中華料理屋さんに入って
メニューに「ザーサイ」としか書かれていなかった場合と
同じと思ってほしいとのことです。

もしメニューに「ザーサイ」としか書いてなかったら
お店の人に何と聞くでしょうか。
「他には?」と聞くと思います。
それは中華料理屋さんに入ってメニューが
「ザーサイ」しかないなんてありえない
もっとあるはずだと考えているからだと思います。
人の心と向き合う時も全く同じだとのことでした。

「もうないよ」という返事が返ってくるまで
「他にはある?」と聞いてほしいとのことでした。

もう一つ興味深いお話を伺いました。
「怖いと動けないのか、それとも怖くても動けるのか」という話です。
先ほどの例で犬を見て固まった子供を見て
「きっと怖いのだろう」と思った人は多いと思います。
私もそうでした。

講師も過去にいろんな人を見てきて
とっさにそう考える人が多かったとのことです。
それは「怖いと人は動けなくなる」
という思考の枠があるからだとのことです。

これはある意味では正解で
危険を察知した時にはむやみに動かずにその場で立ち止まるというのは
さらに大きな事故を起こさないために重要なことだと思います。

ただしそれがチャレンジしたいことを前にした時にも発動してしまうと
前に進めなくなってしまったり
自分に制限をかける枠になってしまいます。
このことについてあるエピソードを紹介しておられました。

ジェットコースターが好きな講師がある時
絶叫マシーンに乗ろうと思って列に並んでいると
小さな男の子とお母さんが前に並んでいたそうです。

最初は意気揚々と並んでいた男の子でしたが
自分の番が近づくにつれて徐々に元気がなくなり
顔が青ざめてきてしまいました。
そしてついに次の番となった時
とうとう動けなくなってしまったそうです。

講師は「さあ、どうするんだろう?」と思って見ていたそうですが
そうしましたらお母さんが
「どうしたの?」というように聞いたそうです。

「この状況下で『怖い』以外にありえないでしょう」と
講師は思わず心の中でツッコミを入れたそうなのですが
日々コミュニケーションを教えていて実際に
「どうしたの?」と聞く人を見たのが初めてだったので
非常に興味をひかれたそうです。

お母さんの「どうしたの?」という問いかけに
その子は「怖いの」と答えたそうです。
(そりゃそうだろうなと思います)
そうしましたらそのお母さんはなんと
「他には?」と聞いたので講師はさらに驚いたそうです。

しかしそれに対してその子は
「怖い、しかない」と答えたそうです。

「怖いけどやってみたい」とか
「怖いけど○○」というように他の感情があれば
対処のしようもあるのですが
「怖い、しかない」と答えられてしまったら
どうしようもなくなってしまいます。

無理やり引っ張っていくわけにもいかないし
私だったら「じゃあ、やめようか」と言うところかなと思います。
ただそのお母さんはなんと答えたかと言いますと
「そうだね、でも怖いだけだからね」と言ったそうです。

講師は思わず心の中で
「いやそれ答えになっとらんわ」と思ったそうなのですが
でも確かに、絶叫マシーンに乗ったからといって
「怖い」以外のことは起こり得ません。
さらに驚いたことにその子は
そのお母さんの「怖いだけだからね」という言葉に
「うん」と言ってジェットコースターに乗り込んでいたそうです。

その後その親子がどうなったのかが気になり
講師は出口で待ち伏せをしていたそうです。
出口にやってきた親子は
子供は涙と鼻水でぐちゃぐちゃ
母親も息も絶え絶えという感じで出てきたそうです。

「どうだった?」とお母さんが子供に聞くと
「怖かった、でも、怖いだけだった」とその子は答えたそうです。

その時、講師は
その子の中で「怖い」ということと「行動する」ということが
別々になったのだと思ったそうです。
この先この子は怖いから動けないということはきっとないだろう
例えば高い飛び箱を飛ぶ時、誰かに思い切って話しかける時
怖いと感じてもきっと行動できる子供になるだろう、と感じたそうです。

この話を聞きながら自分はどうだろうと考えてみました。
私は子供はいないのですが
後輩に仕事を教える時などは
結構、過保護にやってしまうタイプかなと感じました。

相手が壁にぶつかった時に、怖いと感じている時に
「怖いだけだからね」と背中を押せるかというと
できないなと思ってしまいました。

私は
「相手が歩く道の上にあるつまずきそうな石を
 全部先に拾って歩いているね」
と言われたことがあります。

どうも、相手が失敗したり傷つくのを
黙って見ていられないという性質のようです。
しかし、一見優しそうな先輩ですが
これは全く相手のためにならないとのことです。

なぜなら転んだ時の痛みや
そこから自力で起き上がる方法を学ぶ機会を
相手から奪っていることになるからです。
そのため「自分はできるんだ」という自己効力感も奪いかねません。

また、もっと言うのなら
相手の力を信じていない、相手を見くびっている
ということでもあると思います。

親あるいは育成者に必要な態度として
何があっても最終的に自分でカバーできる範囲を見極め
その中で相手が失敗すること
痛い思いをすることを黙って見ていられるかということがあるそうです。

私は過保護ぎみに育てられたので
どうしてもそうなってしまうのかなと感じます。

思考の枠は多くの場合
親から受け継ぎ、親はそのまた親から引き継いでいるものです。

だからしょうがないよねではなくて
自分の枠に気づいて
自分も相手もその枠に無意識に押し込めないこと
まずは自分がどんな枠を持っているのかに気づくこと
できればその枠を解放していくということを
やっていきたいなと感じました。

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