身体のコリと空っぽのコミュニケーション
先週末、自力整体を習いに行ってきた。
色々と気づきが多い中で一番印象に残ったのは、
首の骨の話だった。
よく「スマホ首」と言われるが、
背骨を頭蓋骨の下から数えて6番目の骨(頸椎6番)付近が
固まって、血流やリンパが詰まってしまっている人が多いのだそう。
ちょうど『千と千尋の神隠し』のカオナシのように、
うつむいた状態から顔だけを正面に向けた状態がそれにあたる。
この姿勢でいるのは当然、身体に良くないのだけれど
メンタル的な面で言うと、
斜め反対側に位置する胸部に圧迫がかかって塞がることになり、
人と感情を分かち合うようなコミュニケーションができなくなる
とのことだった。
身体が心に影響を与えているのか、心が体に影響を与えるのか、
卵が先か鶏が先かわからないけれど、
自分の体感としても、
緊張するような相手と話すときは、
つい伺いを立てるように首を垂れがちだし、
胸のあたりもこわばっているように思う。
ここから先は、その整体の先生の自論だけれど、
最近、文章やSNSなどで表現していきたいと思うようになった私にとって
非常にぎくりとするような内容だった。
先生曰く、胸がこわばった状態でのコミュニケーションは
「コミュニケーション」ではなく単なる「トレード」であるという。
得になるか、損になるかでお互いを値踏みしあい、
それ以上の発展性も、感動もない。
胸が固まった人から発せられる言葉は、
ヴィジョンがなく、何事をなすこともできない、
ただ消費されるだけで、何一つ残らないんだよ、と。
これもカオナシとよく似ていて、
彼(彼女?)は自ら発する言葉を持たない。
誰かから声を借りてようやく話すことができる。
金のようなものを生み出すが、それらはすべてニセモノで、
本当の意味では何も生み出していない。
意志を持たず、クレ、クレ、と常に飢えている。
楽しませてクレ、情報をクレ、愛してクレ…
それを聞いて、何かを表現しようとすることが少し怖くなってしまった。
身体を診てもらったら私の胸部もガチガチで、
「表現したい」というときれいに聞こえるけれど、
要するに、認められたい、愛されたい、承認に飢えているからじゃないか。
自分も何か特別なものを生み出すことができやしないかと思っているけれど
それを発する元になるヴィジョンなんて、持ち合わせてないんじゃないか。
ヴィジョン(光)を発する人を見て、
その人から発せられる光のいくばくかのうち、
今の自分につかめる量だけつかんで、
自分のもののようにしているだけじゃないのか。
自分がひどく虚ろに、空っぽに思えた。
そして、慣れない運動をしたせいか、
週明けから熱を出し、激しく咳き込むタイプの風邪をひいてしまった。
ボーっとした頭で、再度考え直してみて、
でも、胸がふさいだ中で吐き出したものの中にも、
ホントウと呼べるものが多少なりとも含まれているんじゃないかと思った。
エビデンスを示せと言われると困るのだけれど
色んな事情により弱まったり曇ったりしても
誰しもの中にヴィジョン(光)は必ずあると私は信じている。
その整体の先生も、
身体をゆるめ胸部をゆるめることで、
多少の早い遅いの違いはあるけれど、
見違えるように朗らかになり、人間関係が改善し、
グループの中や社会の中で能力を発揮できるようになる人を
何人も見てきたと話しておられた。
満たされない承認欲求は当然、否定しがたく存在するけれど、
決してそれだけでもないとも感じる。
同じ空間の中にピアノとギターを置き、
ピアノを思いっきり鳴らすと、同じ音でギターが鳴りだすという
「共鳴り」という現象がある。
キラキラ輝く人を見て、
美しい自然を見て、
感動する出来事に触れて、
心が勝手に共鳴りし始め、自分の内側にだけとどめておくことができず
打ち寄せてきた波をまた世界に返すために、
今の自分にできる方法で表現しているという面もあると思う。
その純度を守り、強めていくために、色々あるうちの一つの方法として
身体をゆるめるというのは有効なのだと思う。
ちなみに、特定のポーズや専門的なツボを知らなくても、
例えば何かの作業に集中した後に無意識に
思いっきり伸びやあくびをしながら
「あ゛あ゛あ゛ーーーー」と声を上げたりするけれど、
まさにこの動作が
ほどよく首や肩回り、胸部をほぐす動きになるとのこと。
変顔や変声になるのを恥ずかしがらずに思いっきりやるのがポイントで、
気持ちよく伸びをするときに無意識発せられる音は「原音」と言い
演技や作りこみがない本来のその人の声に近いため、
音のバイブレーションによっても体をほぐすことができるらしい。
一日のうちに気づいたら何度でもやってよいとのこと。
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