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ジガルタンダ・ダブルX これは愛の物語

ジガルタンダ・ダブルX これはシーザーとレイsirの愛の物語。芸術を糧として激しく燃える純粋な熱情。それは互いにシュートをし合うシーンに象徴される。自分の得物を手に構え、双方一歩も引かずに見つめ合うあれが愛以外のなんだというのだろう。

二人とも異性愛者としてハッキリ描かれているからそこに肉体的な欲望はない。あったとしても、それはインド映画ではまだ描かれないだろうし、描いて欲しくもない。だって彼らは互いに自分の芸術への情熱を満たすために欠かせない存在として愛を感じているのだから。

キルバイは不思議な男で、普段は臆病で血を見ると失神する程暴力沙汰に弱いのに、レイsirになった途端スイッチが切り替わって別人になる。ほんの少しの時間映画スタジオで撮影している所を見学しただけで監督として振る舞うのに必要な態度を身につけてしまう。恐らく彼は自覚はなくとも演技の天才なのである。

だが芸術が彼を魅了したのは「監督」及び「撮影監督」としてだった。彼はフレームの中で美しく動くものを撮りたくなったのだ。そしてそれがシーザーだったのだ。

シーザーが自分がしつらえた舞台でヒーローとして充分な見せ場を演じるのを見て、レイsirは初めて自分の心からの望みを知った。彼の姿をフィルムに収めたいと。シーザーこそが彼のミューズ(男だけど)。彼をとらえた芸術はシーザーという人間そのものだった。

シーザーもまた「自分に必要なもの」を備えている人間を初めて見つけた。それが自分の話に耳を傾け、それを映像として残すことのできるレイsirだ。シーザーは物語を内包する人間、いわば脚本家なのである。

ダブルXを見た方は思いだして欲しい。あの中で常に「俺のかっこいい場面を撮れ」と指示を出しているのはシーザーだ。彼は現実に起こる事を予測し、それが映画にふさわしい場面になると踏んで撮影を強行させることができる。そして様々な場面を撮ったあとで最後にレイsirに「俺達の物語を書き直そう」とさえ言える。彼の頭の中には自分を主人公にした映画の構想がしっかり入っているのである。

シーザーは字が読めない。当然書くこともできない。だから自分の中にある物語を「脚本」として存在させることができない。だが意図を伝え、その通りに撮影させることはできる。そう、自分自身の物語を持たずにやって来て「お前の映画を撮ってやる」と言ったレイsirはまさに渡りに船だっただろう。シーザーは、初めて自分の考えを形として残すことができたのである。絵でも文章でもなく、映像として。

それはシーザーが狩や暴力行為以外に初めてできた自己表現。すなわち「芸術」である。そう、レイsirの出現によって、シーザーの前に自己表現への道が開かれた。「芸術」が彼をとらえた瞬間である。

レイsirはシーザーにとって絵筆であり、ペンである。道具といわれれば確かにそうだが、表現者にとっては必要不可欠ものだ。唯一の自己表現の手段として自分を撮影してくれるレイsirは、シーザーにとって何よりも大切だったはず。

シーザーは、自分を表現したくてたまらない人間である。それなのにできる事といったら襲撃者を返り討ちにするのにクリント・イーストウッドの真似をすることぐらい。とても物足りなかったに違いない。

シーザーの中には物語がある。自分が「おもちゃの銃」を手に入れた経緯を語る時にきちんと起承転結ができあがっている。それはマドゥライで映画をたくさん見て養ったものかもしれない。撮影初期は自分をヒーローにして「たくさんの敵と戦ってことごとく勝つ」程度の話でしかなかったが、それをレイsirに指摘されて「つまらん」と言われ、しっかり考え直すことができる辺りがすでに凡夫と違うのだ。

この時点でレイsirはシーザーが自らの仇だと知っている。それまで言われるままに撮影していたのに、「シーザーを殺すために映画を撮る」と決めてからは心構えが違ってくる。レイsirにとってもそれまでは準備段階。甥っ子の撮影を見ながらこっそり研鑽を積んでいた成果が発揮される。シーザーを中心にどんな「絵」を撮ったら美しいか、自動的に頭に浮かぶようになっていたのだろう。

ここからレイsirとシーザーの真剣勝負が始まる。一人は「撃つ」、もう一人は「撮る」、どちらも「シュート」で狙いを定めその気迫を相手にぶつけるのだ。

この時の俳優二人の姿が実に美しい。レイsirもシーザーも芸術に魅入られそして選ばれた人間なのだから崇高な程美しくあるべきで、二人の俳優はまさにそれにふさわしい演技をしている。芸術へのひたむきな愛の表現として、これ以上に緊迫感のあるシーンを私は知らない。

シェッターニの襲撃でシーザーが毒に倒れた時、すべての重荷から解放されたはずのレイsirは喜ぶ代わりに涙を流す。これまでの人生で自分が最も充実し高揚感に満ちて楽しかったのは真剣勝負でシーザーを撮影していた時だったと、自分の思いに気づいたからだろう。薄々感づいていたものの、それまでは素直に認められなかった自分の心に。

レイsirにとってはシーザーを中心に素晴らしい映像を摂る時こそが生の実感を得られる幸福な瞬間だったのだ。

物語を内包した主演俳優と、そのミューズ(男だけど)を美しく撮る事が天職の監督。そこにあるのは友情ではない。至高の芸術に身を捧げるのは、愛でしかないのだ。

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