『ザ・フェイス』ネタバレありの感想

#ザ・フェイス ラーム・チャランの顔の良さと大胆な展開が評判ですが、実は物語の真のあるじは彼ではないのです。それはチャランの母のシュリラジャ。そう、チャランの顔をサティヤに移植した医師でもあります。彼女が語る物語だもの、これ。 
午前1:32 · 2024年3月18日

ジョン・ウーの『フェイス・オフ』から顔面移植というアイディアを得たとはいえ、映画の内容はまるで違いますからね、『ザ・フェイス』。どちらかというと『フランケンシュタイン』に近いです。もちろんシュリラジャがフランケンシュタインに該当。相当なマッドドクターですわよ、彼女。

そうするとフランケンシュタインの怪物がラーマを名乗るサティヤになります。恋人を目の前で惨殺され自らも死にかけて復讐の鬼と化したサティヤ改めラーマはそれにふさわしいキャラでした。

このラーマがオリジナルの怪物と違うのは、当然「顔が良い」こと! 顔だけじゃないよ、10ヶ月も寝たきりだったのに筋肉も完璧だよ。シュリラジャ医師が寝ている間も筋肉に刺激を与え続けていたのに違いない(現実にそんな事ができるかどうかはおいといて)。

そしてラーマが凄いのは、新しい顔を得た途端にその使い方を完璧に会得している所! あ~、元からハンサムだったというのは認めますが、アッル・アルジュンさんのファンには申し訳ないけれど、チャランガルの美には惜しくも及びませんよね? それなのにその顔を駆使してシュルティの恋人役に治まったり、ヴィールの弟をたらしこんだりしてる。ラーマのあの美しい顔は誰の心の中にも印象がくっきり刻まれるだろうし、親しくなれたら嬉しいと思わせるんじゃないかな? 綺麗なだけで一目置かれるというのはありがちだったりするもんね。

その「綺麗な顔」の能力をいきなり駆使できるのが、やっぱり怪物なんでございますね。必要に応じて殊勝に振る舞ったりして、伏せた目から伸びる長く美しい睫毛を相手に見せつけてますからね。あれは男相手でも効果があるのがスゴイ。

このワザ(?)はラーマのもので、本来の持ち主だったチャランは使ってないはず。チャランは目を伏せる前に手が出るタイプだったから。美男だけど、それより乱暴者の名の方が先に来るのか意外と女子からちやほやされてなさそうな感じだった。

そのチャランを育てたシュリラジャ先生、なんつーか、女傑でございます。『バーフバリ』のシヴァガミに匹敵するんじゃないのか。シヴァガミと違って可愛がる息子が一人きりだったから、比較の必要もなくずっと幸せだったかもしれない。息子の良い点を信じ、手塩にかけて育てたのね。まああの息子だったら相当世間との軋轢もあっただろうけど、シュリラジャ自身が世間なんてあんまり気にしてなかったみたい。医師という立派な職業を持ち、たぶんカーストも高いのでしょう。夫に死なれたからといって引きこもったりせず、堂々と社会に出てるだけであれこれ言われるのを全部はねのけて来たんだもんな。

彼女自身の人生は語られないけれど、その思想は息子を通じて体現されているんだと思う。つまりチャランという人間が、彼女の理想そのもの。勇敢で、情に厚く、人々のために立ち上がり盾となることを厭わない。母としての彼女は怪物ではなく素晴らしい人物を作り上げたのね。

映画では語られないけれど、彼女の夫、チャランの父も案外理想化肌の活動家だったのかもしれない。愛した人の姿を息子に重ねて慈しみ、でも甘やかさず理想の姿になるように厳しく育てたのでしょう。いや、甘やかしてるか、あれは……。

実はこのシュリラジャの姿に重なるのは『ビギル 勝利のホイッスル』に出てくる父親、ラーヤッパン。二人とも早くに連れ合いを亡くし、一人で息子の成長を担ってきたから。『ビギル』と違うのはシュリラジャの方が息子の非業の死に立ち会わなければならなかったという点。

しかしシュリラジャは負けない。
負けないんですよ、このお母さんは! 
愛息子の亡骸から顔を剥ぎ取り、それを半死半生のサティヤに移植したんだから。

まああの美しい顔を火葬にするのはさすがに辛いですよね。それよりは命の危機にあるサティヤを救うために利用する方がずっといいと思うのは分かる。チャランの顔の代わりなのか、サティヤの顔はもう半分焼けちゃってるわけだし(ちなみにこの時のサティヤの顔は『ダークナイト』のトゥーフェイスが元だと思います)。

顔を移植するということは、それに伴ってアイデンティティーも移るということなんですよね。
「顔認証」という言葉が昨今まかり通っているように、人間は第一にその人の顔で本人かどうかを見分けますから。

だからシュリラジャは顔面移植によって文字通りに新しい命をサティヤに与えた事になります。
そういう意味でシュリラジャはフランケンシュタイン博士と同列で語られる立場になるのです。
やっぱりマッドドクターだと思う。

そして怪物は逃げ出すのがセオリー。だって『フランケンシュタイン』だから。生まれたてなので当然人間性も何もない。

サティヤの場合、身につけた知性と教養はそのままだけど顔と一緒に自分自身としての人生は失われ復讐心しか残ってなかった、という形で人間性の喪失が描かれています。

だから復讐をやり遂げてしまえばもうその命に何の未練もなかったわけですね。このまま自分も死んで恋人の待つあの世に行こうか……なんて思ってたのに、命を狙われれば反射的に身を守る行動に出てしまう。ついでに襲ってきた奴らを返り討ちにまでした所で、生への本能には勝てないと思い知るのです。

やっぱり自分は生きたいんだ、と悟った所からが第二章ですよ。「自分」はもうサティヤでも、仮に名乗ったラーマでもない。今のこの顔こそが「自分」のアイデンティティー。ならばそれについて知らなければ……となって、初めて「あなたの命はこの私が与えた」と言ってたシュリラジャ医師を思い出す。この辺のテンポ感、監督の演出が見事だと思います。

そこからが実はこの映画が本当に描きたかった部分になるのでしょう。すなわちチャランの鼓舞によって人々が立ち上がっていく姿。『RRR』にも通じますが、恐怖政治に反旗を翻し蜂起する民衆ですね。国か街の一角かという規模の違いはあっても、心意気は同じです。倒されても倒されても、再び立ち上がって支配を目論む輩に戦いを挑む人々の姿は、チャランの最期の戦いと重なります。それは人の心を熱くする。その話をシュリラジャから聞いたサティヤがそうだったようにね。

オリジナルとは違って、怪物は生みの親であるシュリラジャから拒否されることなく人間性をも授けられ、アイデンティティーを元の顔の持ち主であるチャランから譲り受けると決め、それにふさわしい行動を取り始めます。

ここで原作とは袂を分かち、この話はマッドドクターが成功を収めて終わるのです。
そうなんです、シュリラジャは、再び息子を我が手に取り戻したの! もちろんサティヤにチャランとしての生育歴はないから記憶の共有はできないんだけど、彼女が理想とした「民衆を導く自由の神」は実現したのだから。

インド映画のヒーロー物を見てると、主人公が大成する前に大概大事な身内が死ぬんですよね、兄とか姉とか父とか夫とか。つまり、何かを成就するためには命の犠牲を払う必要があるわけ(昔ならそれが生贄だったんでしょうな)。

逆の見方をすれば「大いなる犠牲を払った人が物語の主人公」とも言えるんですよ。『ザ・フェイス』の場合、それは息子を奪われた母であるシュリラジャにあたりません? 

無論前半部では恋人を殺されたサティヤで間違いないんですが、そのサティヤをラーマとしてこの世にカムバックさせたのはシュリラジャですからね、彼女の方が格が上。

というわけで、この映画の真のヒロインはシュリラジャだったのでした。何人もの男が面と向かって談判に来ようが喉元にナイフを突きつけられようが微動だにせず、一人息子の死に直面しても取り乱すことのない母君、カーリー女神の生まれ変わりででもあるんでしょうか。


おまけ。
#ザ・フェイス でデート中のマンジュが持ってくるスナックの入った新聞紙、大きく人の顔が印刷されてるでしょう。あれ、2012年公開『ホビット』でビルボを演じているマーティン・フリーマンじゃないかと思うんだけど…

午後10:46 · 2024年3月17日

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