『ビギル 勝利のホイッスル』感想と考察(ネタバレあり)3

死と再生のモチーフ

マイケルが走り始めた電車から飛び降りた時、一緒に落ちたサッカーボールはホームの上でてんてんと跳ね、やがて動きを止めた。ラーヤッパンの呼吸が止まったように。それは同時にマイケルのサッカー選手としての人生の終焉だった。

すでにその時マイケルのナイフを血まみれだった。最初の敵を倒した瞬間、元の生活には戻れないと悟ったはず。サッカーで国の代表になることを夢見た子ども時代のマイケルは一度そこで死んだのだ。

父親の亡骸を前に血染めのナイフを再び握った時から新しいマイケルの人生は始まる。それは亡き父に代わって周囲の者達を守り抜くという固い決意。ラーヤッパンが続けるはずだった人生を自分が肩代わりして生きる事の選択だった。

だからあのサッカーボールが静止したのはラーヤッパンではなく、マイケルの死の象徴なのだ。


7年後、マイケルはまたもシャルマによって夢を断ちきられる。シャルマが重傷を負わせたカディルは女子サッカーチームの監督だが、そもそもそのチームを立ち上げたのはマイケルだったのだ。自分自身の傷を癒すように慈しんで育ててきたチームがまさかの監督の不在のため大会の出場資格を失うとは……。

今度こそ殺してやると魚市場でナイフをふりかざすマイケルだが、仲間に止められ、シャルマは警官に引き渡された。感情のはけ口をなくし、絶望にかられるマイケル。7年前はラーヤッパンに成り代わることで何とか生への執着をつないだが、今回はもうそれもできない。

その時車がやってきて、一人の男が降り立つ。何か話があるようだ。
涙を拭うマイケルの手からナイフが滑り、折からの雨でできた水たまりにボチャンと落ちた……。



今回思ったのは、「水に落ちる」というのはインドでは一種の浄めにあたるのかな、と言うこと。客として招かれた家に入る前に足に水をかけて浄めるシーン、インド映画を見てると出てくるじゃないですか。だからあの場面でナイフが期せずして水に落ちたのは、それまでの血の汚れが浄められたということなのかも、と。マイケルがラーヤッパンとして生きた日々の汚れはその時洗い落とされ、再びマイケル自身に立ち戻れる機会が来たという事なのかな、とね。

ナイフは元々ラーヤッパンの象徴ですが、彼自身はその死で自分の罪を購ったのだと思います。だから今マイケルが持っているナイフはラーヤッパンの罪まで帯びていない。マイケル自身の血の汚れは7年辛抱することで浄化されたと思っていいのではないでしょうか。

まあマイケルも商売上様々な犯罪行為に関わっていたのでしょうが、殺人という禁忌はあの時の駅舎以来、犯してないんじゃないかな? 

というわけで、マイケルが自分自身に立ち返る準備は整っていたのだと思います。それをカディルが後押ししてくれた。たぶんカディルはマイケル自身よりも彼がサッカーを求めていることに気付いていたのでしょう。ただ、もう選手にはなれない。その代わりに監督という新たな道をカディルが切り開いていてくれた。あとはもうマイケルが決心するだけ。



マイケルにとっては捨てたはずのサッカー。
再びサッカーの道を歩むことは、今度こそ最愛の父、ラーヤッパンとの訣別になる。

だが封印していた子どもの頃の部屋に入った時、そこで彼が見たのは父の愛だった。サッカーに情熱をかける息子をこよなく愛した父。マイケルがサッカーであげた成果の全てを大事に飾ってくれたラーヤッパン。自分と同じ道を歩むなとことあるごとに語ってきかせた最愛の父親。

マイケルはトランクを開き、あの時着ていたウェアを手にする。背中に書かれているのは「ビギル」の愛称。それこそは父が誇らしげに何度も呼んだ名前。
「ラーヤッパンでもマイケルでもない、ビギルこそがこの地域を変えていけるんだ」と。

そうだ、今こそマイケルでもラーヤッパンでもなく、ビギルに生まれ変わる時なんだ!

マイケルもラーヤッパンもこの世を去った今、忘れていた本来の姿をようやく思い出したビギル。ここから彼の物語が始まる。

7年前に自ら降りた列車に今度は飛び乗り、新しい人生を歩み始めるビギル。その目に映るのは7年前と同じ姿で自分に手を振るラーヤッパン。父もまた、悲願であった自分とは違う道に遂に突き進んでゆく息子を見て、全ての苦悩から解放されたのかもしれない。



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