『ビギル 勝利のホイッスル』感想と考察(ネタバレあり)1

スクリーンで3回目か4回目の観賞になる今回、ようやくマイケルの感情の変化にも焦点をあてて見る余裕ができた。すると彼の人生が他人に翻弄され、自分の夢を潰されて来たという重さが胸にずんと響いて辛くなってしまった。

『ビギル』を初めて見た時は、大切なカップをエンジェルに壊された際のマイケルの反応がふざけ半分のようで不思議だった。だがそれはこのシーンがコメディパートであり、その後彼女との恋愛に発展させるためにそういう演技をしているのだと思っていた。でもそれは間違っていた。

マイケルは自分の怒りの感情をコントロールするために敢えてそういう態度を取るようにしていたのだろう。それは恐らく子どもの頃から彼の将来を案じた父親、ラーヤッパンによって諭されてきたためだ。マイケルにとって父親の言葉は絶対だから、自分の激しい怒りの感情を直接相手にぶつけないためにどうすればよいかを子どもの頃から考えて、その解決策が笑いに紛らす事だったのだと思う。

幼い子どもがそうすると誓ったのは父親を恐れたからではない。父親以上に愛する人がこの世に存在しなかったからだ。父親を悲しませないために我慢してコントロールしている怒りだから、その父親が悲しい思いをしたと思った瞬間、タガが外れる。それがラーヤッパンが警官にまるで連行でもされるかのように扱われた時のマイケルだ。あれが演技をしていない、彼の真の姿。怒りにかられれば他の事を全て忘れ、何もかもを破壊してしまいかねないポテンシャル。ラーヤッパンの中に存在するのと同じもの。一旦解放すると二度と元には戻れない。

それを恐れたからこそ、ラーヤッパンは時に厳しくマイケルを叱り、怒りに身を任せないようしつけてきたのだろう。

どんなに彼は、自分の息子に真っ当な道を歩んで欲しいと願っていたことか。

その願いがまさに実現されようとし、さらに息子には美しい嫁まで迎えられることとなり、遂に願いが叶ったと思ったその瞬間、彼の世界は足元から崩れ去る。

あまりに嬉しくて幸福をつい長く噛みしめてしまったため、彼の人生で初めて油断したのがその瞬間だったのかもしれない。だからたぶん、致命傷を受けながらラーヤッパンはこれも自業自得と思ったのだろう。速やかにやがて来る死を決意しながら、だが最後まで息子の幸せだけを願っていた。犯罪に関わらない、有望なサッカー選手としての人生を歩んで貰うことを。

彼は気付いていなかったのだ。
彼が深く愛したように、息子もまた深く深く父親を愛していた。
息子が自分の夢を叶えるのが父にとっての願いだったが、息子の願いは夢を叶えて父と一緒に喜ぶ事だった。父親が、ラーヤッパンがいなければ、息子の、マイケルの本当の望みは叶わない。

そしてマイケルは、父親が目の前で死にかけているのに無視して自分の夢を優先するような人間ではない。

列車から飛び降りたマイケルが手慣れたナイフさばきで襲撃相手を的確に斃していくのを見て、ラーヤッパンは自分の血がマイケルにも運命として伝わったのを皮肉と感じていたのだろうか。

深い愛で包み込んで運命の魔手から隠そうとしていたのに、その愛の深さ故にみすみす過酷な運命に足を踏み入れてしまった息子。ラーヤッパンは最後まで自分を責めながら息を引き取ったのだろう。

当面の敵を全て片付けてから駆けつけた時にはすでに遅く、ラーヤッパンはすでにこときれていた。父親を腕に抱きながら、もう一度ハグを返してくれよと大声で泣くマイケル。そんな風に泣いたのは、利口なマイケルにとっては物心ついてから初めての事だったかもしれない。こんなにも感情をむき出しにして幼子のように声をあげて泣きじゃくるのだから。

だが泣くのをやめ、立ち上がった時にはマイケルは先刻までの彼と別人になっていた。大学生らしい世間知らずの甘さは消え去り、そこにいるのは一家を支える長。子分達と縄張りに暮らす家族達の生活と安全を守るために父親の跡目を継ぐと決意した男。まるで敵を屠るナイフを手にした瞬間に必要な知識がそこから流れ込んできたかの如く、揺るぎのない自信が漲るマフィアのドン。あたかもラーヤッパンの魂が乗り移ったかのようなマイケルに、部下達もごく自然に従うのだった。


この父と子のエピソード、二役ってだけでもすごいのに、それぞれの感情の激しさや繊細さがタラパティという一人の人から自然に滲み出てくるのがすごすぎて、たぶん初見では情報量多すぎて処理しきれなかったんだと思う。『RRR』もそうだけど、何度も繰り返し見ないと言葉にはできないのよね。感情のうねりとして胸に伝わって来るものが大きすぎる。非業の死を遂げるラーヤッパンの顔に浮かぶなんとも言えない無念な様子に、死にかけてるのに自分のその死を哀れむより息子を思っての悔しさの方が勝っているのを感じたとしても、それが具体的な言葉として自分の中で形を結び、外界に発するまでにするにはスクリーンで何度も見なくちゃいけない。

しかしタラパティ、そんな父親を自分で演じておいて、その父親の死を悼んで泣く息子も演じられるってどうなってんのよ? あんな悲痛な泣き声で観客の胸をかきむしって貰い泣きまでさせるって、演技力すごすぎない? 

「泣きじゃくる」って演技、テクニックだけでやってて感情が上っ面だと台詞で何か立派な事言われても白けるばかりで観客や視聴者の心に届きませんからね。あー泣き真似だって、すぐに分かるのよ。感情が大きければ大きい程自然に振る舞うのは難しいし、リアリティを失いやすい。

それをさ、タラパティはすっとやってのけるのよね。脱帽よね。

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