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ばあちゃんの畑


喉が渇いた。

「ばあちゃん、なんかない?」

そういうと、

「トマトが冷えとるよ」

と返ってきた。

✴︎✴︎✴︎

ばあちゃんは田舎で一人で野菜や米を作って暮らしている。

人生のほとんどを農業をしながら暮らしていて、我が家はお米を買ったことがない。じいちゃんとばあちゃんがずっと作ってきたお米で育ったからだ。

お米だけでなく、畑で季節ごとにたくさんの野菜を育ててはわたしたち家族に食べさせてくれる。子どもの頃からその光景が当たり前で、玉ねぎやさつまいもといった長期保存ができる野菜に関しては、買うという認識があまりなく育った。

いつも家のストックがなくなっては、「米がもうそろそろなくなるけえ、もらいに行くけえ、ついとって」と母が電話する。米を”つく”というのは精米のこと。よくある、5ぶづきとかの、あの”つく”だ。
米農家さんのところなら珍しくない光景だろうが、ばあちゃんちでは稲刈りが終わると玄米のまま米袋に入れ、それを大きなお米専用の冷蔵庫で保管し、一年かけて家族で食べる。精米の前に冷蔵庫から出して常温にしておかないと、米が割れてしまうらしい。だから前もって電話しておくと、準備しておいてくれるのだ。

子どもの頃はこの一連のことが当たり前に行われていて、私は母について行くだけだった。これらのことが、当たり前ではない環境だと認識されたのは大人になってからのこと。今考えると本当にありがたい子ども時代を過ごしていたものだ。

そしてその頃からずっと続いているのが外の冷蔵庫探り。ばあちゃんの家は外にも冷蔵庫がある。そこにはいつも飲み物やアイス、夏ならトマトやすいかが冷えている。農作業の合間にそこからお茶やアイスを取り出して長靴を履いたまま小休憩をし、それからまた仕事に戻るのだ。
私が行くといつもアイスあるよ、ジュース冷えとるよ、と言って出してくれていた。そんな調子だから大きくなってくると、自分から冷蔵庫を見ることが癖になってしまったのだった。

✴︎✴︎✴︎

昨年の夏のこと。仕事が休みの日に、いつものように母が電話をかけてからばあちゃんの家に向かった。

「ばあちゃん、なんかない?喉渇いてから…。」と言いながらわたしは冷蔵庫を開ける。

「トマト。今朝とったやつじゃけ冷えとるよ。お茶は今ないけえそれでも食べんさい」と返ってきた。

正直、今は飲み物が欲しい気分だった。

トマトかあ、と思いながらも仕方なくそれを洗って、歩きながらかじりつく。

(ん…!!?なんだこれは…)

(なになにこのおいしさ…。)

キンキンに冷えたトマトは、かじった瞬間果汁がジュワッと口に溢れ出し、飲み込んだぶんがすぐに渇いた体の中をぶわーっと走って全身に染みていくみたい。
太陽にしっかり照らされて真っ赤になってから、ようやく今朝収穫されたその果実。とにかく味が濃くてみずみずしくて唸るおいしさ。息継ぎを忘れるほど無心で食べ、食べ終わってから大きく息をつき、おいしー!と叫んでいた。

今まで毎年、山のようにもらって食べていたはずなのに。採れたてのトマトがこんなに美味しいだなんて知らなかったよ。

知っていたというより、忘れていたり見えなくなっているなとそのとき感じた。私はなんでこんなことも忘れてしまってたんだろうと妙に考え込んでしまった。

ちなみに、喉が渇いたらトマトを食べるのは、ばあちゃんの水分補給方法。冷やしたトマトやすいかを、畑から帰って食べると美味しいんよ〜と夏にはよく言っている。


私が未来に残したい風景は、このばあちゃんの畑。そしてこんなふうに野菜の本来の味に気づく瞬間のこと。

手軽になんでも買える時代に生きている私達は、どの食べ物を買うにも色味や形でスーパーの棚の中から良さそうなのを選ぶのが普通になっている。けれどこういう、土の匂いが感じられるような経験でしか思い出せない人間としての感覚や本能みたいなものがあるのではないかと思う。

大人になってばあちゃんの家に行く回数はどうしても少なくなってきているが、その分私は畑や田んぼのある光景が当たり前でないことがわかってきた。畑では、毎日野菜が成長していて、野菜があまりない冬の寒い時期でも、土の中では微生物や小さな命たちが、野菜作りに必要な環境をせっせと作り出している。このことの尊さと素晴らしさを、ちゃんと感じられるようになった。

未来。たとえ工場の中で人工の光で葉っぱが育つ技術が一般的になったとしても、土の匂いのする場所で食べるトマトの味や、それに感動し、生きている実感を持てるような瞬間を残したい。

それは、人が生きていく中で本当に大切な感覚の一つだと思うから。



ばあちゃんはもう高齢だし、今はピンピンしていてもいつ何があってもおかしくはない。そんな中で私は、あと何年こうして野菜を食べれるだろう、と考えるようになった。

食べ物を作る事は簡単なことではないけれど、ばあちゃんがやがていなくなったときに畑を引き継げるように、少しづつ農業の勉強を始めることにした。まずは地元の農協がやっているセミナーに申し込んでみた。今の暮らしの中でできそうなことからやっていくことで、未来はちょっとずつ変わっていく。


ものが溢れる時代でも、農業という形で食べ物を作る人々はどんどん少なくなっていると耳にする。後継者問題もあるし、安いものを求める今の社会では、世の中の生産者の方々は大変な苦労をしていると思う。

そんな人々に少しでも心を寄せて、買い物の時の店やものも意識的に選ぶようになった。地元の農家さんが出している産直のものを選んだり、すぐに食べるときには値引きされているものを破棄されないようにそちらを買ったり。あとは安すぎるものを選ばないこと。買う側が農家さんのためにできることがあればもっとやっていきたいけれど、今はまだこれくらいだ。

未来に残したい風景を、作ることも壊すこともできるのが今。だからこそ、しっかり考えて対話して調和して、私たちの未来を選びたいと思う。

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