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62台だけ作られたレクタフレックスローター

1950年代にイタリアで作られたレクタフレックスは、日本の一眼レフがアメリカに上陸する前に、アメリカ市場でかなりよく売れたのである。

イタリアはローマで作られたカメラということで、どのような場所であるかが気になったので、以前ローマに行ってその工場があったところを見学に行った。ローマ法王はカメラが好きで、わざわざローマのシシリア通り152番地まで来てレクタフレックスの会社からゴールドのレクタフレックスをもらって上機嫌だったそうだ。

ダライ・ラマの場合もそうだったけど、宗教関係のトップに送るカメラと言うのはみんなゴールド仕上げと言う相場になっているようである。実際のレクタフレックスを作っていた会社の本社は結構立派なファシズム建築であるからそんなに古い建物ではない。それでも100年以上経過していることになる。

レクタフレックスの資料と言うのは結構完備していて、全部で50,000台も作られなかった。カメラであるにもかかわらず、英語フランス語、ドイツ語イタリア語のそれぞれのバージョンが出ている。

それによると、当時活躍していたパパラッチのイタリア人カメラマンがレクタフレックスにタレントをつけたほうがいいと言う。サゼッションを受けて、会社は実際にそれを作ったのである。全然売れなくて62台しか作らなかった。これがライカであったらではものになるのだけど、何しろレクタフレックスであるから、値段はそんなに高くはならない。

そのレクタフレックスローターを私は二台持っているから、全世界の生産台数の30分の1のカメラを私が所有していることになる。自慢にもなりませんね。
それでみっともないのはこのバカなカメラを発案した。イタリアのパパラッチだけれど、彼がレクタフレックスローターを構えている写真が大きく使われていて、呆れたことに彼との位置がずれているのである。要するにその1では写真は取れないわけだ。そういうわけで、このパパラッチさんは、レクタフレックスの歴史の中で、結構みっともないことを記念に残してしまった。

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