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本日無料立ち読みコーナー。コンポラ写真てなんだ? 12 ストレートフォトグラフィーをコンポラ写真として日本に広めたのは山岸Shojiさんとニューヨーク在住の写真評論家小久保Akiraさん。山岸さんに最後に会ったのは神田の学士会館。カレーライスをご馳走になった。私に心を開いてくれた。1976年6月だった。

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ストレートフォトグラフィーをコンポラ写真として日本に広めたのは山岸Shojiさんとニューヨーク在住の写真評論家小久保Akiraさん。山岸さんに最後に会ったのは神田の学士会館でカレーライスをご馳走になった。私に心を開いてくれた。1976年6月だった。

篠山紀信を世の中に出したのは山岸Shojiである。みんなそう話していたのが60年代の半ばだった。アサヒカメラの伝統的なちょっと古めかしい編集方針とか当時あった雑誌のフォトアートと言うリアリズムで一生懸命と言うそれぞれ政治的な方向が出ているカメラ雑誌の中で、カメラ毎日は1線を画していた。要するに我々若かった写真学生はカメラ毎日それしか相手にしなかったのである。

山岸さんは山岸天皇と呼ばれていた。

それほどスーパースターで怖い存在だった。1970年の1月号。ちょうど半世紀前のカメラ毎日にまずお正月特集であるからトップは当時のトップフォトグラファーの8人から10人ぐらいの特集で、その次に20代の眼と題して若手の10人ほどのフォトグラファーの第二特集があった。私が22歳で、最も親しい写真家だった須田さんが29歳だったから大昔の話である。それでトップの特集の有名写真家連中の写真はそれなりに結構だがそこには軽さと言うものがなかった。我々20代の駆け出しには軽さしかなかった。他に表現するものなどなかったのである。それがコンポラ写真であったと思う。

山岸さんに写真を見てもらうときにはダイヤルを回す手がその指が震えたものである。これは当時デビューした写真家がみんな証言するところである。その電話番号は時代が変わったからもう明らかにしても差し支えないと思う。212 1644であった。山岸さんが亡くなって何十年も経ってからそのことが気になってダイヤルのトップに3の文字を電話してみたことがある。何かの酒の席でみんなで山岸さんを懐かしんでいる時だった。そこは毎日新聞の運輸部か何かの電話であった。間違い電話であることを相手に丁重に詫びて電話を切った。それで我々オールドフォトグラファーは顔を見合わせてため息をついてほっとした表情になった。

はい!山岸!!

と電話の向こうで声がしたらどうしようかとドキドキしていたのである。

1976年の6月にヨーロッパで計画している現代日本写真家展の準備のために日本で21人の写真家にあった。忙しい日々であったが最後にカメラ毎日の山岸さんに挨拶に行った。とても私の計画していることを理解してくれて、その時に山岸さんは私に謝ってくれた。

1974年1月号に掲載された、記憶の街と言う私のオーストリアウィーンをテーマにした8ページのカラーの作品がある。その中の1ページが当時中国と国交を進行させようとしているときに毛沢東を批判的に扱った画像があったので、そのページが削除されたのである。都合2ページが削除されたわけだ。小さな黄色い紙がお詫びとして投げ込まれていた。写真編集者としてこれはシェームであるからそのことを忘れないためにその掲載誌を20冊まとめて部屋の見えるところに置いてあると言うお話だった。それでヨーロッパに山岸さんが初めていかれた時にローマの街でぼったくりにあったと言う話を笑いながらしてくれた。山岸さんが亡くなったのはその翌年の事だったと思う。

当時の現代写真の中心はニューヨークであった。ニューヨークの情報をカメラ毎日に発信していたのが写真評論家の小久保Akiraさんだった。インターネットが登場するずっと前にこのマンハッタン通信は非常に貴重なものであった。1982年から1年間マンハッタンに滞在していた時に小久保さんのお宅によく遊びに行った。Lowerウエストサイドの立派なアパートメントでNew York Cityが芸術家のために用意したアパートであると聞いた。ダイアンアーバスがここに暮らしていたそうである。

小久保さんがニューヨークでの仕事を切り上げて日本に戻ってくる直前にどこかで講義ができるような場所はないかと言うので私は母校の日大写真学科を紹介した。小久保さんの講義は素晴らしいものであったがいちどきりでそのつなぎがなかった。大学にしてみるとマンハッタンでバリバリ活躍していた写真評論家が自分のところに来るとそれまで年功序列でぬるま湯につかっていた教授連中がやられてしまうと言う危機管理が働いてしまったらしい。日大写真学科の連中は小久保さんを怖がっていたわけである。何か今回のクルーズ船の岩田教授の事件と似ているようなところがあるな。橋本の息子が変な張り紙貼って端を書くと言うわけだ。

小久保さんはニューヨークにいた時に時々自分で撮影した写真を見せてくれた。キャノンネットか何かの安いカメラで撮ったやつである。そこには全く気取りのないマンハッタンの日常のランドスケープが映っていた。そこに私はマンハッタンで生活している人のコンポラ写真の息遣いを感じたのであった。小久保さんが亡くなって20年ぐらいか?

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