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高崎藩の領地だった銚子~庄川杢左衛門の物語~

 銚子の高台の道の脇,気付かずそのまま通り過ぎてしまいそうな場所に,ある頌徳碑がひっそりと建っています。

お墓のように見える頌徳碑

 一見お墓のように見えますが,石碑です。

 これは,高崎藩の代官・庄川杢左衛門(しょうかわもくざえもん)の遺徳を後世に残すために,1823(文政6)年に高神村の名主と村民たちが建てたものです。

庄川杢左衛門の名前が読み取れる


 杢左衛門は,天明の大飢饉(1782〜88年)の際,独断で高崎藩の米倉を開放し米を配給して多くの人命を救い,後に独断専行の責任を問われて自刃したという伝説のある人物です。


 銚子は江戸時代,高崎藩の領地(飛び地)でした。
 1717(享保2)年から廃藩置県まで,150年以上続いています。

 高崎藩の大河内氏は,徳川氏の一族です。銚子は軍事上も経済上も要地で,江戸の発展に伴い益々重要度を増していたため,幕府は銚子を親藩に統治させていたのです。
 現在のヤマサ醤油本社の少し先に高崎藩の「飯沼陣屋」があり,郡奉行1名と代官2名が駐在していました。

高崎藩の飯沼陣屋跡

 庄川杢左衛門は,1781〜88年の天明年間に,高崎藩の代官として銚子に派遣されてきました。

 1783(天明3)年,銚子は春以来続いた寒冷な気候に加えて,浅間山の噴火の降灰に襲われました。いわゆる天明の大飢饉です。人々の飢えは壮絶でした。醤油醸造の工程で出る醤油粕までも口にせざるを得ない惨状でした(ひどい食料難だった太平洋戦争末期から戦後ですら醤油粕を食べたということはなかったそうで,天明の大飢饉がいかに深刻だったかがわかります)。

 杢左衛門は高崎藩に救済米の配給を要請しましたが,浅間山に近い高崎はそれどころではありませんでした。そこで杢左衛門は,独断で高崎藩の米倉を開放して人々を救い,後に責任を問われて自刃したのです。

 …と言い伝えられています。

 そして,この村の盆踊り「じょうかんよ節」は,「じょうかん」すなわち「代官」の杢左衛門を偲んで歌い踊られています。


 しかし,先ほど私が「…と言い伝えられています」と書いたとおり,真実はやや異なるようです。


 杢左衛門の話は,1956(昭和31)年に発行された銚子市史に取り上げられたことで注目されるようになりました。
 しかしその銚子市史自身も,「この人の伝記はさっぱり判らない」としています。
 そして,頌徳碑をよく読めば,杢左衛門の独断で米倉を開放したと明記されてはいませんし,死因についても自刃ではなく病死と書かれています。


 銚子市立公正図書館で調べてみると,1994(平成6)年発行の冊子「名代官の虚像と実像 再考『天明大飢饉と庄川杢左衛門』」(岡田勝太郎著)は,当時の間接証拠・間接事実を冷静かつ丁寧に積み上げて,次のように指摘しています。

 わずかに残存している資料を見ると,そこに浮かび上がってくる庄川杢左衛門の人物像は,いわゆる義士のそれでもなく,庶民の英雄といったものでもない。むしろそれは,藩から任ぜられた代官の職分を忠実に務めた良吏の姿である。天明の飢饉に際して高崎藩が銚子領に与えた援助は,すべてが代官のすぐれた働きの結果だったとしても,近隣の幕府領や他藩のそれと比べて格別に厚いというほどのものではなかった。代官に与えられていた地位や権限は限られていて,たとえ死を賭して事を起こそうとしたところで実行は不可能であったと思わねばならない。………後年作り出された名代官の物語は,領民の境遇に温かい共感を寄せた庄川杢左衛門の人柄と執政のあり方の中に胚胎したものと考える。代官のありし日が語り伝えられている間に,領民の救済に尽くした代官の行為はやがて藩庫開放という事件の形に変化し,その帰結として代官自刃の話が加わったというのが,伝説生成のあらましの経過であろう。

岡田勝太郎「名代官の虚像と実像 再考『天明大飢饉と庄川杢左衛門』」


 杢左衛門が素晴らしい人物であったこと自体は争いはなく,ただ,語り継がれていくうちに変わってゆく共同体の記憶と,冷静かつ丁寧な調査分析から見えてくる歴史との違いに触れて考えさせられた,今回の銚子旅でした。


 なお,私の頌徳碑を皆様に建てて頂く際は,スカイツリーほどの高さまでは必要ありませんので,ご無理なさらずとも大丈夫です。

 頌徳碑(原文は漢文)

 本了院圓觀宗融居士尊位
 居士之姓は藤原氏は庄川諱は杢左衛門字は盛職君は高崎候の忠臣にして性は仁徳慈慧貞順古今の名士也嘗て天明中銚子港の郡司となり租税訟獄を掌る同三癸卯の年七月信州浅間嵩焼く沸騰する熖火は天に亘り焼灰は雨の如く降り白昼浡昧として闇夜を縫う如し積ること寸有余立毛大いに痛み公米八百俵を戴く同六年戌午の年霖雨降り続き以て冷気募る復七百俵を戴き再び飢渇餓死を凌ぐ為め百両余を以て扶助さる性命を保ち農事を励み飢渇餓死に至らざる者千有余人なり且つ浦の退転を起立の為め二百俵幷に通邨二万余人数千俵余幷に数百両を救う之の全米を以て一統餓死退転も無く連綿として相続く明なる哉大君の人徳を以て多勢の性命を保つ悲しい哉寛政二庚戌の年九月三十日病を以て五十有七歳にして卒し高崎館の先塋に葬る仰ぎ願わくば郷中一統永久に高恩に報ざんため万代仰いで興廃易らず霊場に鎮め安置して後世に伝え石に刊して碑を建つ然れば則ち絶ゆるを継ぎ廃するを起し賢君永久たり道徳は礼敬厚く怠慢なく以て御武運長久を欲し敬礼は在すが如く拝礼を為すべきなり
 嵩文政六癸未八月十五日
 催主 加瀬新右衛門方重
 惣願主 高神村中


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