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「犬吠の太郎」と高村光太郎

 銚子の先端の町,長崎の墓地に,名のない墓があります。

 高村光太郎の詩「犬吠の太郎」の,主人公(本名:阿部清助)の墓です。

犬吠の太郎の墓


 犬吠の太郎は,旧会津藩士の家に生まれましたが,知的障害をもっていたため,成長後は曲芸団の旗持ちやビラ配りなどをしていました。
 そして,曲芸団の人たちと共に来銚(銚子に来ること)し,彼だけがそのまま定住しました。
 彼は曲芸団のメンバーのお染に恋心を抱いていましたが,お染は銚子から去ってしまいます。

 彼は銚子半島の有名人になりました。
 彼が石油缶を叩きながら銚子の街に現れると,子どもたちは「それ,長崎の太郎が来たぞ」と群がりました。

 彼は銚子の旅館「暁鶏(ぎょうけい)館」に雇われ,皆から愛されていましたが,電車にはねられて亡くなり,暁鶏館が亡骸を引き取って長崎の墓地に墓を建てました。


 高村光太郎は,銚子の旅で智恵子と偶然再会し,後に結婚します。

 光太郎は,その旅で泊まっていた暁鶏館で犬吠の太郎と出会い,彼のことを詩にしたのでした(この投稿の最後に詩の全文を掲載します)。

 大正元年に作られたこの詩では,令和の今では差別的な表現と受け止められる「馬鹿の太郎」という言葉が使われています。しかし,光太郎は犬吠の太郎のことを差別などしておらず,むしろ個人として尊重していたことが,詩全体から伝わってきます。昭和31年発行の銚子市史も,「詩人はこの孤独の痴呆の,最大の味方だった」と書いています。


 犬吠の太郎の墓は,観光案内にも地図にも書かれていません。
 暁鶏館の方に場所を尋ねると「多分高福寺だと思います」。高福寺で「墓地は長崎のあそこです」と教えてもらい,ようやく辿り着きました。
(※この記事をFBに投稿した後,現在は残念ながら暁鶏館は閉館しました)

暁鶏館内に掲げられていた犬吠の太郎の詩

 元は石が積まれただけの墓だったのが,平成になって遠縁の方がその上に小さな地蔵を建てたようでした。

 銚子の海を眺め続ける地蔵を前に,ここに眠る犬吠の太郎の生涯を想いました。

銚子の海を眺める地蔵


(高村光太郎の死後50年の経過により著作権の保護期間は終了しています。なお,「智恵子抄」については著作権の訴訟があり,一審で20年以上かかった末,平成5年に最高裁が判決を出しています)

高村光太郎「犬吠の太郎」

太郎,太郎
犬吠の太郎,馬鹿の太郎

けふも海が鳴ってゐる
娘曲馬のびらを担いで
ブリキの鑵を棒千切で
ステテレカンカンとお前がたたけば
様子のいいお前がたたけば
海の波がごうと鳴って歯をむき出すよ


今日も鳴ってゐる,海が――
あの曲馬のお染さんは
あの海の波へ乗って
あの海のさきのさきの方へ
とっくの昔いっちまった
「こんな苦塩じみた銚子は大きらひ
太郎さんもおさらば」って
お前と海とはその時からの
あの暴風(しけ)の晩,曲馬の山師の夜逃げした,あの時からの仲たがひさね
ね,そら
けふも鳴ってゐる,歯をむき出して
お前をおどかすつもりで
浅はかな海がね

太郎,太郎
犬吠の太郎,馬鹿の太郎

さうだ,さうだ
もっとたたけ,ブリキの鑵を
ステテレカンカンと
そして其のいい様子を
海の向うのお染さんに見せてやれ

いくら鳴っても海は海
お前の足もとへも届くんぢゃない
いくら大きくっても海は海
お前は何てっても口がきける
いくら青くっても,いくら強くっても
海はやっぱり海だもの
お前の方が勝つだらうよ
勝つだらうよ

太郎,太郎
犬吠の太郎,馬鹿の太郎

海に負けずに,ブリキの鑵を
しっかりたたいた
ステテレカンカンと
それやれステテレカンカンと――

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