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続きのない話#37:子どもが本を好きになる、たった2つの冴えたやりかた(194/1000)

児童書編集をしていた数年間。3000人以上の超読書好き小学生と会って、
彼らがなぜここまで本を読むようになったのか、考えたことがありました。

先日、姪の子どもが2歳になるというので、絵本を何冊かプレゼントしたんですね。
その際、姪とその両親に絵本の話をしたところ、やたらに感心されたので、世の親御さんたちも関心あるかなと思って書き記す次第です。

結論から言いましょう。
子どもが本を好きになるやりかたは、この2つです。
1.錨だと認識する
2.放任する

なるほど、そうだよね! と同意される方はここまでで大丈夫。その方針を今後も貫いてください。

は? 何言ってんの? と不審に思われる方はこれからちょっと長い(くどい)話になりますが、おつきあいください。

まず、設問にご注意を。
子ども「が」本を好きに「なる」、です。
子ども「を」本好きに「する」、ではありません。
主体は子ども。
大人が策を弄して、むりやり本好きに「する」ことは不可能です。
まあ「なる」ような環境を整えることだって、厳密には大人の意志が入っているんですけれども、ここで言いたいのは、読め! と命令するのではなく、子どもの自発性に任せようということなんです。

その前にもう一つ。
以下書き記すことは具体的な研究があったり、著名な学者が主張したりしていることではありません。もちろんさまざまな資料は参考にしていますが、あくまでも私が子どもたちに接して(話したり意見を聞いたり観察したりして)考えついたもの、あくまでも主観です。
ですから文末に「~と思う」「~と考えられるのではないか」など推量の言葉を置いたほうがいいんでしょうが、いちいちあったらうるさいし、カンジンなことが伝わりにくくなるかと思うので省きます。
全部読み終わったあと、「と、私は思います」という一文を挿入していただければ。

ではお待たせしました。説明に入りましょう。

1.錨だと認識する
子ども(この場合は1歳~3歳くらい)って同じ絵本を何度も何度も何度も何度も「読んで~」とねだってきますよね。
たいてい大人は「それ、もう読んだでしょ。もっと別の絵本を読もうね」などと言って、別の絵本を読んであげたりします。
いや、絵本を読んであげること自体は素晴らしいこと。どれほど読んであげてもかまいません。

ただ、ここで、「なぜこの子は同じ本ばかり読みたがるんだろう?」と考えていただきたいんです。

子どもにとって毎日は驚きの連続。
新しい場所に行き、知らないオトナと出逢い、聞いたことのない単語を耳にして、初めて食べる珍妙なものを口に入れる。
桜だって海だって落ち葉だって雪や氷も、彼らにとってはほぼ初めて見て、触れて、経験するもの。常に周囲を未知なものに囲まれているわけです。

たとえばアナタが、まったく言葉も習慣も知らない国にいきなり連れて行かれたと想像してみてください。
日々、どころか時々のレベルでものすごいストレスを感じるはずです。
そう考えれば、たとえ目の前でにこにこしてくれていたとしても、子どもは実にストレスフルな瞬間瞬間を生きていると想像つくことでしょう。

また、悪気はなくても大人は子どもを惑わすようなことを言います。
「お金は大事だよ」
「お金より大事なものはいっぱいあるんだよ」
(うーん例えが今ひとつだけど、真逆なことを言ったりしますよね)

家では「あの人は本当にひどい奴だ」なんて言っているのに、本人と会っているときは褒めそやしたりして。
いったい真実ってなに? と幼い脳みそは混乱しています。

でも、絵本は違います。
一度読んだ絵本は、主人公が途中でハラハラする目にあっても、必ずハッピーエンドになることが分かっている。
言ってることが翌日違ってる、なんてこともなく、常に同じ台詞を口にする。
時々刻々と知らないことが襲いかかってくる日常の中にある、確実に未来が予見できる安心感。この安堵はいかばかりかと思います。
絶対にぶれない、まったく裏切らない。
だからこの1冊の絵本は、彼らにとっての精神安定剤とも言えます。
言い換えれば、子どもをこの世界に繋ぎ止めてくれる錨。

水面は波があり時折強い風が吹いたりもしますが、1本の錨、1冊の本があれば、そこにとどまることができる。
本が「君はここにいていいんだよ」とオーソライズしてくれる。存在を肯定してくれる。
まさにそういうことが、絵本を繰り返し読むことで起きているわけです。

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見出しの3冊は、このケースに入っている小さな絵本です。
娘が2歳くらいのころでしょうか、この中の「くまの木」がものすごく気に入っていて、いったい何百回読んだことか。

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「ありました。のはらの まんなかに、ぶたの木が!」
「ちがうよ、くまの木だよ」
「ごめんごめん。ありました、おならの木が!」
「全然違う~。うぇ~ん(と泣く)」
などというやりとりも無数にあったなあ。
これが明らかに娘にとっての1本の錨でしたね。
このnote書く前に聞いてみたら、今でもこの本のこと、よく覚えていました。

同じ本を読むことがどれほど大事なのか、ぜひご理解ください。
これはこの子をこの世界に繋ぎ止めている錨なんだと思えば、「ああ、またこの本を読まされるのか」とむかむかすることはないはずです。

錨による怒りの制御、
とか言ってみたりして。

コホン。

では次にいきましょうか。

2.放任する
こちらはご想像の通りです。
子どもの選択に委ねる、口を挟まない。
もうね、これに尽きます。

かつて小学生読者を招いてイベントをよくしていました。
参加している子どもの保護者にもいろいろ聞いてみて、印象的だった話。

「2週間に1回、この子(とかたわらのお嬢さんを指す)と図書館に行って、それぞれが読みたい本を借りられるだけ借りるんです。(貸出期限の)2週間で読み終わり、それを返しつつまた借りる、この繰り返しです」
お母さんが子どもの本の選び方について口を出すことはない、と言っていましたね。
その子はたしか小学4年生くらいだったと思いますが、そのときで年間200冊くらいは読んでいると言っていました。
話をしてみると、その小学4年生の賢いこと。
知識はもちろん豊富なんですが、それよりも、会話の文意をきちんと読み取れるしなやかな理解力が際立っていましたね。

実際その頃に会っていた小学生は、年間200冊、300冊読むなんて当たり前でした。
お母さんたちは「この子が隙あらば本を読んでしまうので、ウチでは本棚にカーテンをかけて、子どもの目に入らないようにしています」と仰っていました。
そういう子どもたちに聞いてみると、選書は完全に自分で行っていて読みたいものだけを読んでいました。
図鑑が好きな少年もいたし、バレエに関する本だけを丹念に読んでいる少女もいたし。
でも結果として、勝手に賢くなっている。結局、なにを読むかではなく、どう読むかが大事なんだ、と教えられたことでした。

とりわけよく本を読む子どもたちに齊藤孝さんと対談してもらったことがあります。自由に質問してもいいよ、と言ったとき、小学5年生の男の子(年間300冊読んでいる)が
「なにかオススメの本はありますか?」とまことに少年らしい問いかけをしました。
齊藤さんが「きみにはちょっと難しいかもしれないけど」と前置きをして題名を挙げると「ああ、それは読みました」「それも読んでます」と次々に読了済みを告げていきます。
しまいには齊藤さんが
「ふう、君はなにを投げても打ち返しちゃうなあ」とお手上げするくらい。

逆に当時の同僚が書店で見かけた話。
お母さんと小学3年生くらいの女の子が本を選んでいます。
「お母さん、これ読みたい」(と児童文庫を見せる)
「なにこれ? こんな漫画みたいな本じゃなく、もっとためになるこれを読みなさい!」(と古い児童文学の本を渡して、娘の本を棚に戻す)
「。。。」
女の子は本当にいやそうに、泣き出しそうな顔で母親が選んだ本を手にしたそうです。

あーあ、こんな風に本を渡したら絶対本を嫌いになっちゃうよ、と同僚は思ったそうです、って誰でも思いますよね。
たいていのことは他人からああしろこうしろと指図されたらつまらなくなるもの。たとえ自分がしようと思っていたとしても。
「あんた、宿題はやったの?」と聞かれると
「今、やろうと思ってたのに!」とヤル気をなくしたこと、経験あるでしょう?

読書もまさにそう。
いくらお母さん(もちろんお父さんでもおじさんでもおばあさんでも同じ)が本好きだったとしても、その本に感銘を受けたとしても、それは個人的なことで、子どもも同じ趣味、同じ感興を抱くとは限りません。
押しつけたらたいていキライになっちゃいますよ。

図鑑でも漫画でもたとえカタログでも、他者がなにかを伝えようとするものを受け止めるという作業は同じです。
大事なのは自分に引きつけて自分が引き受けて読むという行為。
また、子どもが選ぶ本を子どもに委ねるというのは、君を信頼しているよというメッセージを送ることでもあります。
ここで生まれる信頼感も、ひとつの錨となることでしょう。

まだまだ言いたいことや伝えたいエピソードはありますが、もういい加減長くなったのでこのあたりでおしまいにしましょう。
錨と放任。
身近なお子さんが本と親密になりますように。









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