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「いちばんすきな花 紅葉」 心にブレーキをかける

「思い込み」「思考の癖」
 
紅葉が子供の頃に感じた「寂しさ」って、なんだろう?
もし、私が、鬼に抜かされてしまって一人になってる紅葉を見たら、子供の中に入って遊んで、紅葉と一緒に「私たちはここにいるぞ!」って、鬼にアピールする。一人を捕まえるより、大勢を相手にした方が鬼も楽しいから、そっちに行っちゃうっていうだけ。と、私は思うから。そして、それを紅葉に伝えたいから。大人の私が一人になりたくないから、紅葉を助けるわけではない。

同じように、紅葉は、篠宮君の「寂しさ」を感じたから彼を助けたかった。他者の靴を履く。それが、出来る子供だった。でもそれは、ケアラーとしてのスタンスであったのではないか?利己的な傲慢な気持ちがあったのではないか? と罪悪感に駆られる。

「それでいいんだよ。」「紅葉は、篠宮君を助けたかったんだね。優しいね。」私はそう言葉をかけてあげたい。自分の利他的行動に、変な理由をつけなくていい。慈悲感情に何の理屈があるものか。それで、僕も「ボッチ」にならなくて済んだ。と、紅葉は言うけど、それは、「結果」である。彼がとった利他的行動の結果である。理由ではない。

だから、紅葉は、幸せにになったり、成功することを、避ける必要はない。

優しい人についてのニーチェ論

エンパシーについての本を読んでいたら、アレ?っと紅葉とリンクしてしまった。

彼は鏡であり、「自己目的」ではない。実際に客観的な人間とは、一つの鏡である。この鏡は、認識されようとするものであり、服従することに慣れているものである。そして認識が、すなわち「映し出すもの」が与えてくれる喜びのほかに、喜びを知らないのである。

p228 他者の靴を履く ブレイデイみかこ

人間がエンパシーを働かせてできるだけ正確に他者を理解しようとするときには、その準備として「自己を失う」(≡フラットになる)ことが必要になり、それには大きな弊害が伴うというのだ。

p229  他者の靴を履く プレイデイみかこ


エンパシーを働かせるために自己を失う人は、もともと持っていた自分自身を失うのではなく、エンパシーの対象である強烈な自己との比較によって、自分の自我のなさを感じてどんどん無私になっていくのだとブライトハウスは主張する。

P238 他者の靴を履く ブレイデイみかこ

エンパシーは良いのか、悪いのか

子供が生まれた時、わたしは優しい子に育って欲しいと思った。でも、そんな思いは、全く必要がないとすぐに気づいた。子供は優しいから。優しいいきものなんだ。でも、今自分の育児を振り返って見ると思う。優しいからこそ、親は気をつけなければならない。子供のエゴを大切にしなければいけない。親を大好きな子供のエゴを、親は大切にしなくちゃいけない。今更気づいても後の祭りよ!と言われても仕方ないけど、結構それは直感でやってきた。そんな親がほとんどだと思う。

「共感」が「同調」にならないように

元々の子の繊細さや、親のキャラクターや、どんな大人の関係性の中で育ったは、育児のあり方で決まる。
次に来るのが、ルッキズム。思春期の自意識は、成績ではなく、スポーツ万能感でもなく、ルックス。見た目、その中にはジェンダーだったりも入ってくる。
そして、同じ仲間をすきになる時期を超えたら、異なるグループの良さを知る時期が来る。
でも、ある時期は、みんな「同じでなければならない」。ここで社会性を身につけるのだが。。。神経発達症と言われて、そのグループからはみ出したり、不登校になって思春期カウンセリングに通ったりする人もいる。そして、逆に「適応能力」や「知的能力」で自分の個性を殺して、周りと調整を取れるが故「生きづらい」人もいる。

自分を殺して、人に合わせる。これは、ある時期必要だけど、もう「大丈夫」。そんな必要はない。個性。それが人。と、思えるように周りの人も成長してるよと、知ることができれば。。

ドラマの感想

自分らしく生きても、もう大丈夫!と、みんな気づいてくれたら!
楽に生きてくれたら!
楽しみに見てる。