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【後編】憲法学者 石川健治に聞く。「立憲主義とは何か? 」 #コロナ時代を生きるために

2021年5月3日は、日本国憲法施行から74年を迎えた憲法記念日でした。CLPでは憲法学者の石川健治さんをゲストに番組を行いました。その対談の後編を、こちらのnoteにまとめます。(前編はこちら)

憲法99条に明記された、憲法尊重擁護義務という大原則が、特に安倍政権以降、政治の側から“ないがしろ”にされているのではないか。そうした問題意識をもとに、昨今のコロナ危機の中、憲法に則って“法で治める”という「立憲主義」とは何か、改めて考えていきたいと思います。

番組のアーカイブはこちら。

【出演】永井玲衣(哲学研究者) 石川健治 (憲法学者)

国民投票法改正案めぐる動きについて 


永井:こうした中、ある意味危機に乗じて、自民党・公明党が憲法改正の手続きに関する国民投票法改正案を連休明けの5月6日に衆院の憲法審査会で採決し、5月11日に衆院を通過させる方針を固めたという報道がありました。
この改正案をめぐって、野党側からは、CM規制がないといったことなどが指摘されていますが、与党側は、審議は尽くされたとしています。
この動きについて、石川先生はどうお考えになりますか。

押さえておくべき改憲派の思惑

石川:憲法改正論議というものは、戦後50年代からやっていることです。しかし、議論すればするほど、改憲の機運は薄れていくということを繰り返してきたのです。この数年に関して言いますと、安倍政権が続いてる間は改憲論議をしない方がいいというレトリックが一定程度説得力を持っていたこともあり、改憲の動きを止めていたという側面があると思います。

以前、あるところで伊吹文明さん(自民党・衆院議員)とお話をしたときに、「安倍さんが総理大臣として改憲と言えば言うほど、どんどん改憲の機運が遠のいていく」とぼやいておられましたけれども、確かにそういうところはあって、安倍政権になってから、改憲反対の声が世論調査でも増えていきました。

安倍さんが一生懸命になればなるほど、改憲の機運が遠のいていったというのが安倍政権の実態だったのですが、安倍政権が終わったことで、少なくとも安倍政権が続いてる間、というレトリックから外れ、一定程度の人が元の論憲派に復帰した気配は確実にあるし、あって当然だと思うんですよね。

ただ、その際に考える必要があるのは、確かに安倍さんはやめたけれども、安倍政権の間はやらないと言っていた議論の前提が、菅政権になって変わったのかということをきちっと見極めるということなのではないかと思います。

菅政権はのっけから学術会議問題を起こしましたし、問題の多い政権運営を続けていると思いますね。その点も考えた上で、この改憲問題に臨む必要があるのですが、そういうことを言っていると、またさらに改憲の時機が遠くなってしまいます。だから、ずっと改憲派だった人たちは、どこかで切り上げてしまわないと絶対に改憲が実現しないということを身に沁みて感じているために、とにかく一気に決めるという流れを作りたいわけなんですね。

1950年代の改憲論議のときは、内閣に憲法調査会をおいて、そこで改憲を議論していました。ところが、学問的にやりすぎて、非常にこの議論は長引き、そうこうしているうちに日本国憲法自体が国民に定着してしまったんですよね。

ですから、真面目にやっているのではかえって改憲できなくなってしまう、というのが改憲派の教訓になってることは確かです。とにかく流れができたら一気にやりたいので、今回もこのコロナの機に乗じて先へ進めたいということなんだと思います。

改憲論議の問題点とは

石川:ただ、繰り返し申しますように、改憲論議を行うための前提が果たしてできているのかということが、この場合はポイントになってきます。
前提ができてない状況で改憲論議を進めますと、結局政治的な多数派に有利なように全てのことが運ばれてしまうわけですよね。

単純な多数決で問題が進んでしまうということにならないように、その時々の流れで決めないように、憲法は96条で重たい改正手続きを用意しているのです。

今回のコロナのような、たまたま起きたことのその場の勢いや、今与党が強いからなどという勢いで簡単に進められないように、もともと条文を作っています。だから、改憲論議とはその前提で進められなければいけません。
そういう意味では、現在皆の目がコロナとオリンピックに向いてる状況でことを先に進めるのは、問題のある運び方じゃないのかなというふうには思いますね。

CM規制の話も出ましたが、この点の問題は、結局政権を握ってきた側に有利になってしまうということですよね。フラットな土俵ができないということが問題なわけです。強引な政権運営で次々に機動的に法律を作ってきたということは仮にあったかもしれませんが、憲法も同じ流儀でやるのは間違っていると考えてもらいたいです。

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立憲主義を危機に陥れる感染症と自由の境界線


永井:政府も危機に乗じてしまっていますし、私達の方も、危機の中で私権が制限されることに鈍感になってきていると思います。法的根拠がない中で私権が制限されることも現に起きていますが、そういった状態を踏まえて、そもそも菅政権下で行われている現在の政策は、「立憲主義」にのっとっていると言えるのでしょうか。

石川:緊急事態とは例外事態ですので、立憲主義にとっては非常にやっかいな問題を含んでいます。緊急事態対応というものは、立憲主義を危機に陥れることはしばしばあるのですが、その際に重要なのは、まず時限を切るということですね。

これまでずっと失敗してきたのは、それがズルズルいってしまったケースです。ズルズルいって既成事実化した結果として立憲主義が空洞化するという歴史を繰り返してきた。

今回の特措法は2年という区切りがありますけれども、コロナ対策はなかなか2年では終わりそうになく、ズルズルいく気配だけがありますね。この時流に乗って、立憲主義が押し流される点が一番怖いわけです。だからそういう意味で、このズルズル感というのは立憲主義にとっては危機なんですよね。そのことをまず確認しておく必要があると思います。

それから、もう一つ大事なことは、自由の境界線です。もともと、近代国家の権力とその限界は、極論すれば感染症対策で決められてきたと言えます。感染症とはすなわち公衆衛生で、公衆衛生は警察対応なんですけれども、感染症対策が自由の限界を隠してきたところがある。どこまでなら規制していいのか、どこからは自由の領域で介入してはいけないのか。その境界線を動かしてきた論点が感染症対策なんです。そういう意味で言うと、現在はこの自由の境界線が動いていますね。

永井さんから、「私権が制限されることに慣れてしまう」という話が出ましたが、従来ならば、「ここまで規制されるのは許せない」と思っていたところが、次第に常態化してくるとなんともなくなってくるということがあります。境界線が動くのです。

そうやって、その時代その時代の自由の限界が決まってきたわけですが、このような境界線が動いてる状況でそれに乗じて憲法改正をして規制権力を強化してしまおうという考えは、コロナが去った後に非常に大きな後遺症を残してしまうと思います。

ここまでコロナが長期化しますと、後遺症が残らないことは考えにくいんですけれども、しかしできる限り後遺症は小さくしなければいけません。だから、やはり期限をちゃんと切って、いつまでのものなのかを常にはっきりさせていく必要があります。そして、その期限は客観的な根拠のあるものでなければいけないということですね。

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石川:例えば、15年戦争の頃は対外危機だということが言われていました。本来ならば満州事変なんてサクっと終えるつもりだったのがズルズルいってしまって、本来時限付きの危機が常態化し、常態的な対外危機に陥り、これが憲法体制を壊してくことになりました。

こうやって、どうしても長期化しそうな気配のコロナ問題をきっかけにして境界線を動かしてしまうと、結局、一旦動いたものを元に戻すことが難しくなってしまいますので、非常に強い後遺症を残すことが考えられるわけです。

だから、やはりきちっと「ここまで」と言える、けじめのある議論をするということが大事です。それがこのコロナ禍の、あるいはコロナ問題の後遺症を極小化する方法だということになるわけですが、このコロナに乗じて自由の限界を動かすという改憲論は最も危険だというふうに言わざるをえないでしょう。そういう意味では憲法論よりも先にやることがあるはずではないか、ということだと思います。

自由を奪われないために

永井:最後に、「立憲主義とは何か」というタイトルに関連して一言お伝えしたいことはあるでしょうか。

石川:立憲主義というものは、一言では語りにくい難しいものです。
どの時代のどの状況のどの文脈の立憲主義か、ということを考えてもらう必要があると思います。

非常に単純化して言いますと、一番大事な基本線は、「専制主義 対 立憲主義」です。専制主義に対して、立憲主義をとるという局面が、現下においてはどこにあるのかということを見極めるってことですね。

つまり、どこに専制権力があり、何に対抗しなければいけないのか。また、自由を守らなければいけないんですけれども、自由を守る原動力は一体どこにあるのかということをきちっと見極めた上で、立憲主義が語られなければいけないということなんだと思います。

そこの見極めが非常に難しい時代に今入っています。例えば国際政治でいいますと、アメリカのバイデン大統領はまさにその専制主義 対 立憲主義の戦いとして、米中の対立を演出しようという気配がある。日本はそれに巻き込まれようとしていますが、本当の敵がどこにいるのかということをよくよく考えるということですね。

そして、それによって自由を奪われないということです。自由の原動力が一体どこにあるのかということをきちっと見極めた上で議論をしていかないといけません。例えば、何か成り立ちそうな改革論議があったとしても、それを動かす原動力がなければ絵に描いた餅になって、むしろシステムが単純に壊れてしまうだけに終わってしまいます。

だから、確かに現状で変えるべきところはたくさんあるし、日本国憲法にも変えるべき点はあるわけですが、どう変えるかということと、この流れで変えるということは、改革の原動力がどこにあって何を倒そうとしているのかということを、きちんと見極めた上でないと、非常に危険な帰結をもたらしてしまうんじゃないかと思います。

専制権力と立憲主義的権力の違いとは

石川:やはり、まずもって、どこに専制権力があるのか、ということです。専制権力の特徴というのは、問答無用であるということなんですね。口数が少ない、説明をしないということです。

立憲主義的な権力というのは必ず憲法に根拠を置き、その都度正当化をしないと進めない権力で、非常に饒舌な権力なんです。しかし、専制権力は、理由を言わない、説明をしない、問答無用というような特徴を持っていますから、とにかく決めてしまうんですね。

だから、どこに専制権力があるかを見極める際にポイントとなるのは、身近な権力が口数少なくなっていないかをしっかり見極めるということだと思います。

そして、それにいかにしてブレーキをつけるのか。ブレーキをかけて止まっちゃしょうがないんじゃないかということも、もちろんありますが、ブレーキがついていなければ取り返しがつかないことになるんだということを考え、例えばコロナ危機に対する対応が取り返しのつかないことにならないように考えていくというのが、立憲主義の基本的な精神だと言っていいと思います。

永井:そういった非常事態というものに、私達は「恐れ」や「不安」といったものを抱えてしまって、「わかりやすさ」や「スピード」「強さ」というものにどうしても飛びつきたくなってしまいます。より権限を与えてお互いを罰し合ってしまうことを求めたり、憲法で無理やり制限した方がいいというような、わかりやすい議論にどうしても引っ張られてしまう。

すると、不安や恐れゆえに、石川先生がおっしゃった、問答無用で口数も少ない相手にも問うことがなくなってしまって、強さに飛びついてしまう。ですから、口数の少ない相手に問い続けたり喋らせたり、こちらがブレーキをかけたりすることをどうしても続けていかないといけないのだと受け止めました。

石川:わかりやすい話は確かに魅力的ではあります。わかりやすい議論とは一直線の議論ってことなんですよね。多段階ではなくて一段階の議論なわけですよ。専制権力とはわかりやすい権力です。段階の少ない権力。

そして、立憲主義的な権力というものは、暴走しないように多段階的に出来ているので、ある意味わかりにくいということでもあります。ややこしい。わかりやすい話が良いことだという側面ももちろんあるんですが、しかし、わかりにくいこと、あるいはややこしいことに意味があるかもしれないと考えてみていただきたいと思いますね。

永井:そうですよね。非常事態において、わかりにくさや、複雑さに耐えながら、ずっと問い続けたり、石川先生がおっしゃっていただいたような分節化を続けていけたらと思っています。石川先生、本日はありがとうございました。

以上。

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