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兎、波を走る感想(サッと見ることの危険性)

8月12日の18時〜(大阪@新歌舞伎座)の回見てきましたー。25歳社会人男性です。なお初記事です。
いろいろモヤモヤをプレゼントしてもらえて、非常にいまネガティブケイパビリティです。
(ネガティブケイパビリティとはなんぞや)

掴みどころが難しい作品なので、あくまで私個人の理解をまとめてみます。

以下ネタバレも含むので見てない人は注意です。




私が注目したのは、以下2点

①檻から抜け出せなくなる母親
②サッと見過ごす当事者でない私たち

です。

どういうことかというと
まず①についてまとめてみます。

①檻から抜け出せなくなる母親
アリスの母親は冒頭で
以下のことを問いかけられます。

❶「ジッと見ても僕が兎に見えるのは、君が僕を兎として見たい事情があるからではないの?」
❷「兎もいないし、本当は娘だって初めからいないんじゃないの?」

(記憶上のセリフなので、雰囲気こんなことを言ってました、たぶん)

ここから母親が接触した娘は、すべて妄想の娘という可能性が出てきます。(妄想するしかない国というワードも出てきますし)
終盤で兎は、アリスを攫った日のことを母親に語るのですが、母親は兎を娘のいなくなった理由を知るものとして思い込んでるとしたら、これはすべて母親の頭の中の出来事かもしれません。

中盤でアリスの母親は、自分自身のことをアリスだという場面があります。これはアリスの現在を知りたいあまりアリスになってしまった母親の姿だと思います。
また後半アリスは、クジラの場面で生まれ変わりを示唆するような発言を兎に語るのですが、同調した兎に「本当にそう思う?」と問いかけ、生まれ変わりを否定します。

しかしこれは全て母親の妄想です。娘は生まれ変わって会いに来るのではなく、私が娘のところまで会いに行くしかない、そうして「私の愛は闇よりも深い」と覚悟し、螺旋階段を下ります。

これは第三者からすると「娘がまだ生きていて私を待っている」という妄想に取り憑かれた母親の姿を感じさせるのですが、母親にとっては突きつけられた現実の檻(=確信)の中でもう決して逃げることはできないということを意味していると思います。(途中で「これは妄想するしかない国ではないんだ。もう、そうするしかない現実なんだ」と叫びますしね。)

②サッと見過ごす当事者でない私たち
本作品の重要なキーワードに「サッと見る。ジッと見る」というものがあります。
中盤で、遊びの園の関係者は兎をサッと見たことで、現実から妄想するしかない国に連行されます。

兎というのが複数の役割を与えられていそうなので、難しいのですが、兎こそが不条理のメタファーなのかなと私は思いました。ちなみに高橋一生さんはパンフレットによると「脱兎」だそうです。これは国からの亡命ということと不条理(=兎)を否定する存在という2つの意味を持つと思います。とはいえ最後、抵抗の末に不条理に飲み込まれてしまうのですが、、、

話を戻すと、兎をサッとみたことで彼らは不条理に攫われます。これは現実に置き換えると、情報社会にいる私たちのようです。私たちは、SNSで多くの情報に晒されています。毎日事件事故のニュースが流れているのに対して、私たちは一つ一つの出来事をジッと向き合って考えられず、サッとスワイプするように、野次馬的に受け流します。
そうして過ごすうちに、私たちは人と人の血の通った経験を忘れてしまい、AIが作る物語も受け入れるようになるのです。
(ロチア人、ドイチ人というように血もキーワードでした)(また昔遊びの園で見た母親との思い出をヤネフスマヤは忘れてしまいます)

その結果、最後には、アリスの母親が言うように「私の話を聞く人はいない」という状況に陥ります。ちなみにその前?にアリスの母親が螺旋階段を下るところで、遊びの園関係者たちとすれ違う場面がありましたが、それはもう当事者とそれ以外の第三者は今後交わらなくなることを意味してるのかなと思いました。

終わり
以上が私の理解です。
「兎波を走る」というのはことわざだそうで、私は初めて知りましたが、「月影が水面に映っているさまのたとえ」の他に、「浅い段階にとどまっている人のたとえ」という意味を持つようです。
これは世の中の出来事を、サッと受け流す私たちのことを言っているのかもしれません。
結局はサッと見過ごすのではなく、ネガティブケイパビリティの先に人間との交わりがあるということですね!(ネガティブケイパビリティとはなんぞや)

ちょっと思い出しながらババーっと書いたので、
抜けてるところ、違うところ、いろいろあると思いますが、もし読んでくださった方いれば何かしら感想ください。お読みくださってありがとうございました😊

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