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河童

 202265日、上高地ウェストン祭は3年ぶりの一般開催となりました。このNOTE2年ぶり再開です。

例年だとニリンソウでいっぱいなのですが、今年は半月ほど早く、すでに散ってしまっていて残念。

焼岳は噴火レベル2で上高地側の登山道は閉鎖されていました。

上高地側からの焼岳は登山禁止

今年の講演者は平出和也さん。ピオレドール受賞3回のアルパインクライマーは地元、富士見町出身。コロナで2年、待ちに待った講演が実施されました。学生時代は陸上で全国上位の成績をおさめていましたが、途中から、他人と競争するより、もっと楽しい登山を選びました。そしてヒマラヤの未踏の壁を登ることに充実感を見出しました。

富士見町出身、アルパインクライマーの平出和也さん

島々谷の登山道が大雨で崩れ、コロナで修復が遅れ、今年は徳本峠を越えることはできませんでした。しかし安曇小学校のみなさんは上高地から元気に往復されました。

安曇小学校の児童たち
ことしも元気にウェストン祭を祝ってくれました

「これは或精神病院の患者、 第二十三号」から始まる芥川龍之介の小説『河童』。おそらくその精神患者が本人だったのではないかと、この小説が発表された1927年(昭和2年)の724日に自死してしまいます。

命日を『河童忌』と呼びます。

芥川龍之介さんは1911年(明治44年)に槍ヶ岳、1920年(大正9年)に穂高へ登山に訪れています。

「河童は我々人間のように一定の皮膚の色を持っていません。なんでもその周囲の色と同じ色に変わってしまう。草の中にいるときは草のように緑色に変わり、岩の上にいるときは岩のように灰色に変わるのです。これは勿論河童に限らず、カメレオンにもあることです。僕はこの事実を発見したとき、西国の河童は緑色であり、東北の河童は赤いという民俗学上の記録を思い出しました。」

河童の皮膚の色について、民俗学者であり、日本山岳会会員でもあった柳田國男先生の研究から引用しています。
 
河童の世界は人間の社会と似ていますが、大きく違うところもあって、河童のお産が近づくと、おとうさん河童がおかあさん河童の大きなおなかに向かって「お前はこの世界へ生まれて来るかどうか、よく考えたうえで返事をしろ」と大きな声で尋ねます。「僕は生まれたくない」と返事すると、おかあさんのおなかは空気を抜いた風船のように小さくなって子供は消えてなくなってしまいます。これから長い人生の苦しみも楽しみも自分で受け入れるかどうか自分で判断しろというわけです。
 
この国にも戦争がありました。それはある河童夫婦のお宅に訪問したカワウソの軍人が毒殺されたというのがきっかけでした。道楽者の夫を毒殺しようと奥さんは夫を生命保険に加入させ、ココアに青酸カリを入れたところ、それをたまたま訪問したカワウソが飲んでしまったのです。緊張状態にあった2国で、この事件をきっかけにカワウソ帝国と戦になり、河童帝国は勝つには勝ちましたが、369,500匹が戦死しました。さすがにこの事実は柳田國男先生も知らなかったに違いないって言ってます。
 
ファンタジーなのか社会批判なのか、今の時代に読んでも新鮮で奥深い物語です。

こどもたちと『河童』のぬいぐるみがかわいい

明治から大正にかけての、上高地界隈のお話です。詩集『智恵子抄』で有名な高村光太郎さんですが、1913年(大正2年)に徳本峠を越えて、1ヶ月間、絵を描くために上高地清水屋さん(現上高地ルミエスタホテル)に逗留していました。智恵子さんも後から上高地入りするので光太郎さんは島々まで出迎えに行きました。智恵子さんは健脚でたいへん元気よく徳本峠を越えて上高地に到着したそうです。智恵子さんといえば、心の病でふさぎ込むことが多く、東京の生活がなじまなかったと言われています。
 
高村光太郎『智恵子の半生』によると、「彼女はよく東京には空がないといって嘆いた。(中略)彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終わるまで変わらなかった。」と、その一瞬の晴れ間のような1ヶ月間、上高地で油絵を無心になって描いていたそうです。
 
コロナで外出が難しかった時期、抑うつになってしまった方も多かったのではないかと思います。私もそうでした。しかし、この上高地の山の空気に触れ、岳沢や焼岳、梓川を見ると心が一気にリフレッシュします。智恵子のように都会に疲れたら、時々上高地へ山の空気を吸いに来ると生き返ります。私の泊まっていた宿にも、おばあちゃんと女子大生のお孫さんとで上高地に遊びに来られた方がいらっしゃいました。大学ではオンライン授業で友達にも会えず、ふさぎ込んでいたところ、おばあちゃんに誘われてきたそうです。「リフレッシュできましたか?」と尋ねたところ「はい」と笑顔で答えてくれました。
 
それからもうひとつの有名なエピソードですが、光太郎さんが清水屋さんで旧友に偶然会った時の話です。画家の茨木猪之吉さん、和田村出身の歌人、窪田空穂さん等にしばらくぶりに出会いました。盛り上がってしまい飲んで騒いでいたら、後ろから外国人が「もしもし!」という高い訛りのある声に驚かされて、互いに顔を見合った。「少し静かにしてくれないか、妻が具合が悪いんだ。」と言われました。それはウェストンさんだったそうです。

窪田空穂全集 第六巻 「日本アルプスへ」
茨木猪之吉さんの挿し絵


茨木猪之吉さんは日本山岳会創立当初の会員でもありましたのでウエストンさんの名前は良く知っていましたがこんなところで出会うとはびっくりです。しかし1944年(昭和19年)に穂高で消息を絶ってしまいます。


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