2015-09-19室堂

アーネスト・サトウの黒部横断、針ノ木峠越えと有峰伝説

アーネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新』上・下(岩波文庫)
Ernest Mason Satow  “A Diplomat in Japan” 1921年(大正10) 

アーネスト・サトウ(1843-1929)は18歳のとき図書館で『*エルギン卿のシナ、日本への使節記』という絵草紙ふうの日本紹介本を読んだのがきっかけで外交官を目指すことになりました。外交官試験に首席合格し初任給は年俸 200ポンド(約500両)

清国勤務を経て、憧れの日本へ1862年(文久2)9月8日、英国公使館の通訳生として 19 歳で来日。

「江戸湾を遡行する途中、これにまさる風景は世界のどこにもあるまいと思った。(中略)ミシシッピ・ベイの白い断崖がだんだん近くなり、それが次第にはっきり見えてきた。(中略)一年余りの月日を経て、とうとう宿望を達したのである。」

「おとぎの国、日本」への上陸が近づき期待で胸を膨らませています。9月2日、ランスフィールド号で北京を後にして、浦賀水道を抜けて東京湾に入り、三浦半島沿いに北上すると屏風ヶ浦や本牧の岸壁が見えてくる。かつて外国人はこの美しい風景を「ミシシシッピーベイ」と呼んでいました。

萩原延壽氏は、オックスフォード大学留学中に英国国立公文書館に保管されていたアーネスト・サトウの1861年から1926年までの45冊の日記を丹念に調べ上げ、大作『遠い崖 - アーネスト・サトウ日記抄』(朝日新聞社)(全14巻)を14年間かけて執筆しました。タイトル『遠い崖』の由来は、サトウが船上からはじめて見て語った言葉「青い波に洗われた遠くそそり立つ崖」から借用したと紹介しています。

*エルギン伯爵ジェイムズ・ブルース
アロー戦争(1856年‐1860年)の遠征軍司令官。外務大臣ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵、に日本勤務希望を申し出、31歳で日本大使館スタッフに任命され、1861年(文久元年)には**ラザフォード・オールコックから、在日本英国公使館の一等書記官に任命された。)

**ラザフォード・オールコック(1859-1864約3年半日本に勤務)
1859年3月1日初代駐日総領事就任(後に公使)。医師、外交官。清国駐在領事。1844年に福州領事、1846年に上海領事、1855年に広州領事に転じ、15年間清国に在勤。上海領事だった頃には首相パーマストン子爵宛、清国に武力行使をするよう進言する書簡を送り、アロー戦争(1856年)を引き起こしました。1860年9月11日富士山村山口より富士山外国人初登頂

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Vanity_Fair.1903年4月23日号に掲げられている
サトウの風刺画  文化女子大学図書館所蔵

サトウは1862生麦事件1863薩英戦争1863-64下関戦争(英米仏蘭4ヶ国艦隊が下関を攻撃)、1864鎌倉事件を目撃。攘夷をあきらめた薩長が英国に接近し、戊辰戦争を経て明治維新に至るダイナミックに変化する時代を目撃して記録に残し、戦前は禁書とされた一級史料です。徳川慶喜、明治天皇への謁見も叙述。1869(明治2)までが収録されています。

彼は日本語を話せるだけでなく、読み書きも出来たので英国領事館にとって貴重な存在でした。幕末の政治状況、庶民生活までリアルに丁寧に描いています。

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主な任務は自国民保護と通商権益確保の通訳でしたが、赴任してすぐ1862年9月14日生麦事件を経験します。

通訳と言っても辞書もなければ語学教官もいない環境で日本語を猛勉強しました。

拙者を ”I, the shabby one ”(つたない者である私)と訳した覚えがあるが、そのころは日本語の進歩の程度をはかる事ができない状態だった。

通訳の未熟さを語っています。

次々と発生する外国人殺傷事件に関わり、多くの外国人たちにとって、攘夷派武士たちの粗暴な行為は、脅威だったに違いありません。軍艦で武力をチラつかせて条約交渉を有利に進めようと、薩摩とは全面戦争直前まで行きました。

300年続いた封建制度が崩壊していく過程で、欧米の先進技術を貪欲に吸収しようとする若い武士や脱藩浪人たちが、時代をダイナミックに動かしていった変化を目の当たりにしました。

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横浜開港百五十年-神奈川・世界との交流
神奈川県立歴史博物館図録より 

1861年(文久元)7月5日に発生した「第一次東禅寺事件」(水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件)。オリファント、モリソン両氏への襲撃の様子を画家のチャールズ・ワーグマンが遭遇し描いています。乗馬用の鞭で反撃するオリファント。襖の陰に隠れているのがモリソン。

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高輪の東禅寺に今なお残る刀傷 2019年10月8日撮影

東禅寺に掲示されている「東禅寺由来」より

創建以来250年は諸大名家の江戸での菩提寺でした。嘉永6年(1853)に至り長閑だった日本にペリーが来航、欧米列強の脅迫的な開国要求に止むをえず日米及び日英修好通商条約を締結しました。
 幕末の150年前の安政6年(1859)6月7日に英国公使オールコックは此の東禅寺境内にユニオンジャックの英国旗を掲揚して最初の英国公使館としました。文久元年(1861)水戸浪士による襲撃事件、及び翌文久2年(1862)と2回にわたり襲撃事件がありました。
 此の東禅寺はかつて幕末に於いて日本外交のひとつの舞台でした。しかし幕命に逆らえなかったとはいえ攘夷の風潮のさなか、而も神聖なお寺に異邦人を居住させたことにより穢れた寺とし誹謗され、7ヶ年に及ぶ占拠はお寺の事情を一変させました。檀家の有力大名家はお寺を見放し離檀、経済的な裏付けを失くして境内は荒涼として憂慮すべき一途を辿りました。

1862年(文久元)5月29日に発生した「第二次東禅寺事件で英国公使館となっていた高輪の東禅寺警備役松本藩士伊藤軍兵衛のイギリス兵2人殺害と、1862年(文久2)9月14日に発生した「生麦事件」でのリチャードソン殺害について幕府と討議するために、12月のはじめ、ニール大佐(オールコック公使が日本を離れた間の臨時代理公使)、シーボルト、ラッセル、ロバートソンとサトウとで、アプリン中尉に騎馬護衛兵を指揮させて馬で江戸に向かいました。その時は江戸湾に英国軍艦を待機させ、万一の事態の対応を準備しています。

1858年(安政5)年の日英修好通商条約締結(日本が結んでいた不平等条約の一つ)までは、外交・領事関係者が自由に国内を旅行することは許されていませんでした。

われわれ若い館員は、江戸行の番が回ってくると大喜びだった。

好奇心いっぱいの気持ちを表しています。

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愛馬に手をかける乗馬服姿のアーネスト・サトウ
(明治初年・1969年頃)  横浜開港資料館蔵。

サトウはその後、1870(明治3)に書記官として再び英国公使館に勤務し、1883 年(明治17)まで勤務。さらに 1895(明治 28年)から 1900(明治 33)まで、在日英国公使として赴任しました。

サトウの自宅は、慶応2年(1866年)11月に英国公使館が横浜から江戸の泉岳寺に建設され、ほど近くに住居を借りて同僚のミッドフォード書記官と一緒に住みました。江戸湾を見下ろす高台で、広い庭を持ち、日本語の勉強に打ち込みながら、日本人との交流を重ねました。

西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、勝海舟、徳川慶喜といった幕末期の要人たちと外交交渉に望み、個人的にも多くの日本人と親密な交流がありました。

アーネスト・サトウの日記を補完する記録として、1866年10月から1870年1月まで、二等書記官として日本に滞在したA・B・ミッドフォードの日記も興味深い。

攘夷の武士たちが外国人を切りつける事件が多発し、一刀のもとに肩から腰まで切り下げるための素振りを街角で見せつけられ、絶え間ない恐怖心で心神耗弱になってしまう外国人も多かったようです。

1867年2月に将軍慶喜に謁見するため、サトウ等と大阪へ。江戸にもどった後に公使館で悲劇が起こりました。

我々の同僚であった通訳生は、昼も夜も彼に付きまとう恐怖感で頭がいっぱいになり、(中略) ある晩、哀れな若者は、それ以上耐えきれなくなった。彼は仲間と一緒に静かに食事をして自分の部屋に戻った。銃声が二度聞こえた。最初の一発が失敗したのは、手が震えたせいだと思われるが、その弾丸は天井から発見された。二度目が致命傷であった。自殺は伝染するというが、その週のうちに横浜で二度同じような事件が起きた。


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上記幕末期の地図、緑枠を記入した部分ですが、1884年(明治17)500坪もある元旗本屋敷の土地を自宅として妻のために購入しています。武田久吉の自宅住所について、1907年(明治40)発行「山岳第二年第一号」に付録の名簿には「東京市麹町区富士見町四ノ六」と記載があります。現在は法政大学市ヶ谷図書館として利用されています。

法政大学

正式な結婚ではありませんが、サトウは武田兼を妻として三児(長女は生後すぐに死亡、長男・栄太郎、次男・久吉)をもうけました。

次男・武田久吉さんの長女・静江さんへの週刊朝日インタビュー記事です。
『幕末を動かした英外交官が日本人妻へ送った500通のラブレター
熱愛』 AERA dot. 2014/09/01 07:00

(前略) 20年ほどの日本滞在で、武田兼(かね)との間に2人の男の子をもうけました。次男が父・武田久吉(ひさよし)ですから、サトウは私の祖父になります。
 その後、祖父は各国に赴任し、晩年はイギリスで暮らしました。基本的に、祖父と家族は離れて暮らしていたのです。
 ずいぶん前に、祖母の遺品を整理しようと段ボール箱を開けてみましたら、祖父から家族あての手紙が500通くらい出てきました。イギリスや赴任先の国からの手紙を、祖母はぜんぶとっておいたんです。
 イギリスに祖母を連れていけば、言葉も生活習慣もちがうから苦労する。だから、一人で帰ったんでしょうね。寂しかったから、手紙をこれだけ寄越した。亡くなるまで生活費も送ってきてくれたそうです。
 日本で生まれ育った父は、背が高くて、足が長くて、すごくハンサム。写真で見た祖父にそっくりでした。顔だちも外国人みたいだった。だから、戦時中は嫌な思いをしたようです。 (後略)


1870年、1875年、1880年にそれぞれ賜暇(官僚の5年に1度の休暇)で一時帰国後、シャム、ウルグアイ、モロッコでの領事を経て、1895年に駐日特命全権公使として日本に戻ります。日清戦争を見届け帝国陸軍・海軍の成長を目の当たりにし、1899年には治外法権の撤廃を盛り込んだ日英通商航海条約を調印。1900年(明治33)から清国公使を務め、日露戦争を見届け1906年(62才)、北京より日本へ立ち寄り、故郷英国へ帰国。枢密顧問官となり引退。晩年は南西部のデボン州で隠居。日本の家族に仕送りを続け、孤独な英国の生活に耐えきれず日本への渡航を希望しましたが病のために実現できず1929年(昭和4)8月26日、86才で死去。

次男の武田久吉は、1910年(明治43)にイギリスに留学後、植物学の研究を始め、色丹島の植物の研究で植物学の博士号を取得。1905年(明治38年)に日本山岳会創立発起人の1人で、のちに同会の第6代会長を務めました。また、初代日本山岳協会会長日本自然保護協会会長を歴任。1972年6月7日、89歳で死去。各地の山を登って高山植物の研究を行い、尾瀬の自然保護に努めたことで「尾瀬の父」と呼ばれています。

英国大使館前の有名な桜並木は、1898年(明治31)サトウ公使が公使館前の空き地に植えた桜の木を東京府に寄付したものです。

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千鳥ヶ淵の桜並木 2018年3月27日撮影

サトウは鉄道網が整備される以前、日本各地を旅行して登山記録もたくさん残しています。100年前の地形図(大日本帝国陸地測量部)を広げて地名を照らし合わせながらページをめくるとさらに楽しく読めました。

***1872年(明治5)新橋~横浜開業、1885年(明治18)上野~横川開業(横川~軽井沢は馬車鉄道)、1888年(明治21)軽井沢~長野~関山開業、1889年(明治22)新橋~神戸開業、1891年(明治24)上野~青森開業。

日本人の旅行好きについての記述があります。

本屋の店頭には、宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物、そのほか旅行者の必要な事柄を細かに書いた旅行案内の印刷物がたくさんおいてある。それに相当よい地図も容易に手に入る。精密な比例で描かれたものではないが、それでも実際には役立つだけの地理上のあらゆる細目にわたって書いてある。そのほか、マレー(イギリスの有名な出版社)に親しんでいるイギリス人が欲するような、伝説的、または歴史的な、いろいろの民間説話をのせた見事な営利の東海道案内記もあった。

著書にはありませんが、大英帝国の一外交官ですので、諜報活動の任務はあったでしょう。針ノ木峠越えでは、途中の村からわざわざ飛脚を使って登山報告の書簡を領事館宛てに送っています。下山後に領事館で書けばよさそうなものを、です。

『アーネスト・サトウの明治日本山岳記』
E・M・サトウ(庄田元男訳)

サトウは1884年にA handbook for travellers in central & northern Japan(邦訳『明治日本旅行案内』)をジョン・マレー社から刊行しました。

マルコポーロが14世紀に日本を紹介したのを契機に、未知の異国日本の存在がヨーロッパに広がり尽きぬ興味を呼び起こしました。鎖国時代にはわずかに長崎出島のケンペルやシーボルトが日本研究を行いましたが、外国人には決められた場所以外を旅行することが認められなかったため限られた情報のみで発表せざるをえませんでした。

横浜などの外国人居留地から十里以内と定められていた外国人旅行制限が1874年(明治7)に緩和され、外交官や宣教師、御雇外国人たちが各国の旅行案内書に日本編を加えて行きましたがその中心的存在として活躍したのがアーネスト・サトウでした。

富士登山 1877年(明治10)

ディンキンスと富士山(須山口~剣ヶ峰~御鉢~須走口下山)に東京(駐日英国大使館)から5日間で登っています。オールコックが富士登山を行った1860年は100人の大部隊でしたが、17年後の登山はずいぶんシンプルです。

7月28日、11:00に東京を出発し、箱根峠を越えて18:30須山着。馬で移動したと思われますがそれにしても早い。

7月29日、06:40荷馬に乗って須山発。14:30六合目のお中道、16:20八合目、そこから苦しみながら浅間神社に到着。近くの宿で宿泊。
どこまで馬を使えたのか不明だが、早い。

7月30日、04:00に起床、ご来光を見る。剣ヶ峰から御鉢めぐり。金明水~薬師ヶ岳~吉田口登山道~八合目分岐から須走口登山道~12:30一合目砂払着。16:55御殿場着。大宮という宿で泊る。

7月31日、08:00出発。乙女峠~千石原~湖尻の宿に宿泊。

8月1日、7時過ぎに出発。小田原着。藤沢~神奈川までは人力車。夕方の汽車(***1872年に開通した横浜~新橋間の鉄道を利用している)に乗り遅れたため20時まで待ち、深夜の帰宅となる。

富士登山について、山頂への五本の登路、須走、須山、村山、吉田、人穴を解説しています。人穴ルートは今は使われていませんが、当時西面に人穴浅間神社からお中道までのルートがあったようで、最もアプローチの短いルートだと書かれています。

針ノ木峠越えと有峰伝説 1878年(明治11)

7月17日、A・G・Sボーズと2人で飛騨に向けての山旅に出発。宿、街道、行程時間、気温、植生、地質、寺院、産物等、詳細な記録が書かれています。1878年(明治11)、鉄道がまだ敷かれていない時代の旅行です。ポニーの馬車で出発(***上野~横川間の鉄道が開通するのは1885年)。気温は34度の猛暑。横浜~板橋~大宮~上尾~鴻巣~籠原~新町の郵便局泊。

7月18日、馬車で新町を出発。安中~富岡~松井田~刎石(はねいし)泊。

7月19日、徒歩で刎石を出発。新道(明治天皇が軽井沢訪問のために政府が建設中の道)を碓氷峠へ。峠からは榛名山、赤城山を望み、下山時浅間山が一瞬見えた。軽井沢~追分(人力車)小諸の上田右源治の旅籠泊。小諸で八ヶ岳と飛騨山脈が一瞬見えた。

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田沢温泉 2005年10月23日撮影

7月20日、徒歩で小諸を出発。雪で白く縞模様の飛騨の山々が見える。

上田城は実践のための砦というよりは玩具のように見えた。

上田~田沢温泉の宮原庄右衛門宅(現在の田沢温泉ますや旅館)泊。

7月21日、主人の意見で予定の合田をやめて本城経由大町を目指す。

一晩中蚊に悩まされた。

徒歩で田沢温泉出発~地蔵峠~法橋(現在の西条)

「法橋で冷やしそうめんを食べ、ひどく苦労して人夫を雇った。」

萱野峠~下生野~風塩坂峠(生坂村から池田に抜ける池田町大字陸郷にある小高い峠。)~油屋〇〇〇泊(池田より137m高い場所にある。〇〇〇は文字の判読ができない)。

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夫神岳より上田盆地と浅間山 2007年10月21日撮影

7月22日、飛騨の山に詳しい老人から情報収集。雨のため午後2時、老人のアドバイスで脚絆をつけて大町に向けて出発。池田~大町~野口泊。

※サトウ等が42年前に泊まった田沢温泉の「ますや旅館」や、池田の「油屋〇〇〇旅館」(おそらく池田町の民宿油屋)は現存しており今でも宿泊が可能。

7月23日、午前5時出発。大雪渓をつめて針ノ木峠へ。ヤハズヶ岳(スバリ岳)、蓮華岳、五六岳、爺ヶ岳、冷が見えた。
野口~大出~白沢小屋~黒石沢小屋~針ノ木雪渓~針ノ木峠(人夫の遅延でここまで所要10時間かかる)~黒部川越え~(19時到着)建設中の旅宿泊。イワナを食べる。

※1877年(明治10)、「信越開通社」と「越中開発社」が総額1万400円の予算で「信越連帯新道」第二塩の道とも呼ばれる。(大町野口~針ノ木峠~黒部川~ザラ峠~立山温泉~大山町原)開発工事に着工。信州のこの地方の食塩は糸魚川からの移入のみに頼っていたため、商人の暴利の対象となり、供給が不安定であった。結局新道建設は難工事と資金不足に陥り中止。サトウらが通過した1878年は開通予定の2年前で部分的に通行できていた。

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立山カルデラ展望台(松尾峠)より
「立山温泉跡(砂防ダム)」方面を望む
2018年7月3日撮影

※1858年(安政5)の****飛越地震に伴う土石流によって立山下温泉街は壊滅している。

7月24日、5時50分発。黒部川の旅宿~ヌクイ谷~刈安峠~中ノ谷~ザラ峠~新湯~刈込池~深見六郎の立山下(りゅうざんした)温泉で*****「有峰伝説」を聞く。

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天狗平より剣岳 2018年7月19日撮影

7月25日、06:05出発。案内人は本郷の金兵衛。立山下温泉~松尾谷~天狗平~室堂(13:10に着くが荷物を待つ)~16:30巨大な窪地の硫気孔域~巡礼東拝者の小屋泊。室堂の大地獄に驚嘆する。

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別山乗越より地獄谷と室堂 2015年9月23日撮影

7月26日、雨のため立山登山は断念。7:45小屋を出発~鏡石~一体の彫像~姥石~弥陀ヶ原高原~桑谷平~橅平~橅坂の頂点の小屋~右手に称名滝~材木坂の急坂~川岸から中央部の溶岩の巨塊まで途渉~神社の神官の長の家に宿泊。数年前に訪れたディロンとガウランドの消息を聞き、有峰へはここからだと厳しい山道なのでいかない方がよいと説得される。

7月27日、終日芦峅で休む。オカミノカミ社(雄山神社)の首席神官の佐伯正憲の家に滞在する。(701年、雄山神社建立後、家来はすべて佐伯を名乗ることとなった。)

7月28日、5:20出発。常願寺川の谷を下り~シナキ(千垣)~岩峅寺~立山の神官を世襲している佐伯慶治の家で朝食。江戸のパークス公使宛て報告書を書いて飛脚を使って発送。
~ミズイシ(水須)~上滝(現在は立山橋)~花崎~上浦~東黒牧~福沢~カムラ(真成寺)~二本松~舟の峅~牛ヶ増~町長~吉野の村山吉四郎の家泊。

道はヴィアマラ(スイス)の様子に似ている。(中略)対岸は絵のように美しい片掛けの村落で、実物そっくりのスイス風の小屋が見られる。畳もない粗末な宿だが、鱒の焼き物と鮭のカツレツのおいしい夕食をとった。

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富山地方鉄道立山線「有峰口駅」 1998年7月28日撮影
1937年(昭和12)開業当時の姿をとどめいています。

1584年(天正12)、佐々成政の厳冬期「さらさら越え」は有名ですが、実際には越えていないのではというのが定説になっています。ザラ峠は越えれたかもしれませんが針ノ木峠は当時の装備では絶対に無理だと私も思います。

「信越連帯新道」は結局全面開通することはありませんでしたが、運よく工事中に通過できることができました。針ノ木峠越えは今でも厳しい登山ルートで、この時代にここをよく歩きとおせたと感心します。立山下(りゅうざんした)温泉は現在立ち入り禁止になっています。天狗平に上がる道も今は廃道ですが、室堂の大地獄の景観は驚いたに違いありません。有峰伝説に興味を持ったのも日本の民俗学への探求心だったのでしょう。

****飛越地震
1858年(安政5)4月9日、跡津川断層によって引き起こされた烈震で、越中・飛騨を中心に被害は加賀・越前にも及んだ。推定震度6、マグニチュード6.8という。この地震のため立山カルデラの火口壁の大鳶山・小鳶山をはじめ各所で根こそぎに崩れ落ちた。崩壊土砂は四億一〇〇〇㎥と推定されている。崩壊土は常願寺川上流の真川・湯川を塞ぎ止め、各所に大水溜まりを生じた。カルデラの底にあった有峰領立山温泉も大崩壊後土に埋まり、夏の薪ツクリ湯小屋の修繕のために入っていた人夫原村の四人、本宮村の二十六人、柿沢村の六人、計三十六人がその下になった。 

有峰の記憶2

大野家の人々(大正10年ころの有峰のある家族)
有峰の記憶」 前田英雄 編 より

サトウとボーズが聞いた*****「有峰伝説」

宿の主(立山下温泉)が有峰の村人のことを話してくれた。その村落の人々は平家の血をひき、身内だけで血族結婚をする奇妙な系統であるという。全部でわずか十一世帯、それぞれに三つか四つの家族がいて。金銭を持つことを許されない。外見は良く似ており、知力に限りがあるというのだ。

後に宿泊した神官の佐伯慶治から聞いた話によると

有峰にはいかない方がよい、ここから水島(水須のことか?)まで三里ある、そこを過ぎて峠まで八里の山道を登るのだが、その間に人家は全くない、米や他の食糧を持っていく必要がある、住人は稗を食べるだけで汁といえば塩水のことなのだ、一二、三世帯しかなく、それぞれに三、四家族が同居している、彼らの身内だけで血縁結婚をするが、体格や知能の面で外部の人々に劣るところはない、平家の落人の子孫であるというのは確からしい、言葉は通常の日本語と少し違うようで慣れないと通じない、人の名前は古めかしい。

上記の「有峰伝説」はサトウとボーズが立山下温泉の宿の主から聞いた話と芦峅の神官から聞いた話が神秘性を帯びて横浜のヘラルド社の記者に伝わり、その他の英国人たちに広まったようです。英国人教師のDHマーシャルとEダイヴァースが「有峰訪問記」で以下のように実際に有峰を訪問した報告を1879年(明治12)に日本アジア協会の例会で発表しています。

私の見たところでは村の人の様子は普通の集落のそれと殆ど変りはない。彼らは訪問者にとても礼儀正しいが、食料については、予想していたように譲ってくれる余裕はないといっていた。しかしながら食料を持参していると説明すると、村長は安心してその家に泊めてくれた。各家では少なくとも一頭の馬を大切に飼っていた。家や神社には馬の絵が奉納されていて大事にされているとの印象を受けた。泊めてくれた家の主人は、寝具がないので粗末な筵を敷き、木の枕で寝てもらうしかないといっていた。翌朝、出発する前に、村民の全部が招きに応じて私たちを見にやってきた。-男、女、子供、彼らの誰を見ても痴呆じみた容姿は認められなかった。また、顔つきが似ているということもなかった。そして品物の交換とかお金の使い方もわきまえていた。

サトウの「日本旅行日記」の翻訳者の庄田元男氏は、信越連帯新道を通過した外国人グループの記録として6例を挙げています。

①1978年(明治11)7月31日 アーネスト・サトウとボーズ
②1878年(明治11)7月25日 エドワード・チンキ
③1879年(明治12)8月12日 アトキンソンとディクソン
④1879年(明治12)7月末頃 マーシャルとダイヴァーズ
⑤明治の早期にチェンバレン(武田久吉は否定)
⑥信越連帯新道は通らなかったがミルンとガウランドが有峰へ

有峰への道

サトウ等は結局道が険しすぎるとの理由で有峰行きをあきらめましたが、現在、車で有峰へ入るルートは4本。日本百名山でもある薬師岳登山を行う場合は以下のいずれかのルートから登山口の折立を目指します。

富山県側からの2本は、大山町小見から和田川沿いに入るルートと、大山町水須から小口川沿いに入るルート。

岐阜県側からの2本は、神岡町土から大多和峠を越えるルートと、神岡町山之村から富山岐阜県境トンネルを越えて入るルート。

車道が開通する前の(薬師岳巡礼登山時代の)古い道を調べてみると、現在でも徒歩で行けるルートは、上記の岐阜県側の神岡町土からのルートと、神岡町山之村からの唐尾峠越えの二つだけになり、富山県側からは残雪期以外は難しそう。

大山町史によると、江戸時代から使われていたルートとして、越中の稗作検分出張の役人たちは常願寺川の上滝から水須村の口番所で馬を降り、徒歩で尾根上のルートを1日がかりで有峰へ行きました。江戸末期になると水須口番所の役人たちも下山してしまったので廃道となっています。

岐阜県側神岡町土からの大多和峠越えの道は、1963年(昭和38)の愛知大学山岳部13名の薬師岳雪崩遭難時には、富山県側はすべての道は雪崩で通行できず、救助隊はすべてこの大多和峠を越えて有峰に入りました。

参考資料
1)一外交官の見た明治維新 上・下 アーネスト・サトウ著(岩波文庫)
2)『遠い崖 - アーネスト・サトウ日記抄』 萩原延壽著(朝日新聞社)
  ①『旅立ち』②『薩英戦争』③『英国策論』④『慶喜登場』
  ⑤『外国交際』⑥『大政奉還』⑦『江戸開城』⑧『帰国』
  ⑨『岩倉使節団』⑩『大分裂』 ⑪『北京交渉』⑫『賜暇』
  ⑬『西南戦争』⑭『離日』
3)横浜開港百五十年-神奈川・世界との交流(神奈川県立歴史博物館図録)
4)『英国外交官の見た幕末維新 リーズデイル卿回想録』 AGミッドフォード著、長岡祥三訳(講談社学術文庫)
5)アーネスト・サトウの明治日本山岳記 庄田元男訳(講談社学術文庫)
6)アーネスト・サトウ明治日本旅行案内上・中・下 庄田元男訳(平凡社)
7)有峰の記憶 前田英雄編(桂書房)

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