嘔吐しながら勉強してた青春時代にスラムダンクの感動が実はあったな〜坪田信貴著「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話(通称:ビリギャル)」を読んで〜

「やべぇ、読んでる本、鞄に入れ忘れた、最悪…帰りたい」

と時々電車に乗って中野坂上を過ぎて新宿に着く頃に思う事がある。その時はだいたい新宿で降りていて紀伊国屋書店に行って、ざーっと一階フロアを女性誌含め見て回り(Ranzukiで「またちぃぽぽが表紙か!」とか思ったり)、「おーやっとこの本文庫化したか!」と思ったところで、その本を手に取りレジに運ぶ。文庫化する時点で、ある程度旬は通り過ぎている訳なのだが、旬の時にもある程度立ち読みでさらっているので、それは良しとして、文庫版にある、「旬を過ぎての筆者のコメント…」のようなあとがきの追記が実は好きで、それがあってこその売れた本で、完成版な気が勝手にするが、実は重要な章の内容がごっそり無くなってたりするのだが、そんなのは別に良いとして。

そんな感じで、この前、実家に帰る前に、読もうとしていた本を家に忘れてしまい、新宿で「新宿、茅ヶ崎間で何しよう…」と思うも、スマホに時間潰されるのも嫌だし、結局読書しかない訳で、いつと通り紀伊国屋書店にいた。そして、今、映画も公開し始めたヒット本、坪田信貴著「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話(通称:ビリギャル)」を手に取りレジへ。

石川恋のモデル起用に惚れてた

「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話(通称:ビリギャル)」

このタイトルはとてもキャッチーで、本なのに「ビリギャル」って略し名称にできてしまう、そこだけで売れるにおいが漂う。だが、僕は個人的に、表紙のモデルが気になっていた、というか、凄く魅力的に思い、一度見たら忘れられないというか、見るからに「ビリ」で、「ギャル」で、「慶応にいなくもない」感じで、このキャスティングが本当に素晴らしいと思った。

こういう感動があると、特に全く知らないモデルについてはTwitterアカウントとかSNSアカウントを調べるわけだが、まずTwitterをやっていた。

石川恋さんは、ビリギャルが出た当初はフォロワーが1,000程度で、しかもTweet内容が「土間土間のバイト楽しい!」みたいな、物凄く庶民的な感じで、そこにもまた魅力を感じた。ここ数ヶ月前に「有吉反省会」のテレビ出演で、金髪から黒髪に変えることになり、清純派と言えるくらい、かなりイメージが変わり、そこから週刊誌やマガジン誌でのグラビアにバンバン掲載されてる認識。今では26,000フォロワーを超え、人気のアカウントになっている。
この先見的であり、とても戦略的なモデルのキャスティングにまず惚れていて、あれだけ表紙で勝負できる本はないのでは?と思うくらい、僕は紀伊国屋書店で感動していた。

人の人生に深く関与する職業である塾講師

僕はただのサラリーマンで、この前どこかの会社の人事の資料が僕のところにきて、「まじか、あの人、そこ行っちゃうのか…」とややネガティブに思ってしまって、それはつまりは、人の事は人の事で会社的に都合が良いように処理されるよな、とただそう寂しく思っていた。

そんな中、このビリギャルという一人の馬鹿と言われた高校生を家族、塾講師が一丸となってサポートして慶応大に合格させるという、勉強メソッド寄りでなく、温かい人間味のある話に触れた。そこで、塾講師に対して、人の人生を左右する可能性のある受験という壁に学生と一緒に挑戦していく仕事であることを再認識し、その仕事の大変さと感動を行ったり来たりしながら、本を読み進めて、「人の人生に深く関与する職業だ」と塾講師に対して思った。

そりゃ塾の中にも人事というのはあるのだけど、学生と向き合う、塾講師については、そう思った。

僕は個別指導を受けたことがない…けど

個別指導というのを受けた事がないので、本を読んで得た知識しかない。だが、一時期、家庭教師をバイトでしていて、そこでは苦戦の連続で、人に教えるのは向いていないと自分に思った。

そもそも僕自身の話をした方がわかりやすい。大学は早稲田を出たが、大学受験は指定校推薦。「指定校推薦とか楽してるよね!」そう言われようが、「だったらそうすりゃ良いじゃん、楽してなんぼ。ちなみにどちらの大学でしょうか」と返す。ドラゴンボールのフリーザのように返す。指定校でどこの学部でも良いからといって入ったわけではなく、入学した高校には早稲田大学理工学部の建築もしくは社会環境工学が枠としてきていたからだ。それを中学3年の時に調べていた。とにかく、浪人したくなかったのだ。

なぜ浪人したくなったのか…なぜ早稲田がいいのか…

理由はしっかりわかる。

それは昔、勉強ができなくて先生に馬鹿にされたからだ。

小学生だった頃、うちは勉強させる家庭でなく塾なんか行かず、サッカーとピアノを習っていたので、それにある程度没頭し、成績が出され、それを親に渡しても親は別に何のコメントもしない、だから、って別に成績が悪い訳でもなく普通くらいで、無難に普通を目指してテキトーに授業を聞いて宿題をこなしていた。

そう、勉強は怒られない程度にテキトーに流せば良いや、とそう向き合っていた。

それで中学生になり、普通の公立の学校なのだけど、湘南地区で一番頭が悪いと噂がされていたようなのだが、そこに普通に、ある意味エスカレーターで行くことになるのだが、1年生の2学期に事件が起きた。

数学の時間だ。「テストを返すぞ」数学の男性教諭が言った。中間テストの採点済みの答案用紙が返ってくる。無事に生徒みんなに配り終えた。僕は50点くらいだった。「Xとかなんだよ」とか「方程式っていう呼び方がそもそとムカつく」とかそんか感じだった。

「60点以下のやつ、立て」

その男性教諭が言った。数人立った。意外に少なかった。「俺、こんなに頭が悪いのか」としっかり理解できた。

「サッカー部以外のやつは座っていい」


つまり、サッカー部で60点以下の人だけが立っている。4人くらいいた。

「お前ら、中村俊輔になれると思ってるのか?」

は?と思った。先生は、サッカーを頑張ってても中村俊輔みたいに凄い選手になんかなれないんだから、勉強をしろ、という主張だったようだ。僕はその時に、この先生は先生である資格はないと思って、早く辞めさせたいと素直に思っていたが、悪い事は絶対にしたくない、だったらどうするか?僕を馬鹿にした勉強で、あの先生のプライドをズタボロにすれば良いと、そう短絡的に思った。

この先生には子供がいて、たまたま僕と同い年でしかも同じ学区でサッカー部…ほう、この子供よりも良い高校に行こう、そう思った。

そして、先生がMARCHあたりの大学を出ていて、 「早慶の受験の時はこういう失敗をして…」みたいな話をしていて、「失敗というか実力だろ」と思って、言い訳とかマジでダサいと思った。この時に、志望大学も決まった。何となく慶応って感じでないと自分に思って、早稲田に決めた。

そこから勉強を始める。塾に行く。塾に行くといきなり試験を受けさせられて、一番下のクラスに入れられた。先生のテンションもレベルの高いクラスの方が高い気がした。今の自分の状況が負のスパイラルのなかにいると思っていたと思うけど、「スパイラル」という言葉なんか分からなかったと思う。そんな感じで負の中にいながら、隣りに勉強を頑張ってる人がいた。僕は何となく彼に勝ちたいと思いながら、復習をとにかく頑張った。

授業が結局大学まで、ずっと苦手だった。教えてもらいながら理解ができない。多分理解の速度が遅いのだ。だから教えてもらった事をあとで見返して「そういうことだったんだ」となるようにしていた。多分、苦手意識だ。「なんか難しそう、きっと理解できないだろう」その意識があったのだと思う。だけど、理解すると自信がつくから、頭が能動的に働く。「多分こうだろ」と言えるようになる。予習はせずに復習だけやった。するとみるみる成績は上がり、そうなると、解いた事もない問題もなぜか解ける気がしてきた。

そうやって勉強を得意と言えるようになった時には、あの男性教諭のことに対して感謝していた「馬鹿にしてくれて、ありがとうございます」と。

そんな感じで、完全にネガティブ発進で、しかも、授業中の理解はなく、後で一人で勉強した。それが僕の勉強法だった。だから、高校では、長期休みに少し行った程度でほぼ塾には行かずに、一人でコツコツと勉強した。

そんな僕の勉強法を他の人が応用するとなると、何というか難しい。コツコツ勉強すると言ったが、実はテスト前に大急ぎするのだが、定期試験前は寝たらヤバいのに寝て、朝5時に起きて、さらにヤバいと思って、朝食食べて、歯を磨いてから必ず吐いていた。しかし吐くと記憶力が上がった気がして、驚くほど暗記モノが覚えられたし、数学においても、ギリギリまで考えると解法が奇跡的に思い浮かんで解ける。吐く事で、テストが成功する、そう思ってしまっていたのだ。

家庭教師のバイトをしていた時、生徒は中学生で野球少年だった。一ヶ月限定で教える、期限付き。勉強は相当嫌いで色々な塾に行ったがダメだったそうだ。「ダメって決めつけるなよ」と思って、本人と話すも、勉強については話さない。野球の事については話す。そんな部分が僕と似てると思った。高校についてのイメージを聞いた。「あの高校は馬鹿だから行きたくない」そういう事を話しているのをきいて、何となくプライドが邪魔してるなと思った。普通に教えて任期の一ヶ月が終わった。ドライブがかかった感はない。

なぜ、そうなったか。

自分が取り組んだ勉強法にやたら固執していたからだと思う。自分の中で、勝手に自分のやり方が成功事例だと勘違いして、僕のやり方を推し進めた。僕のやり方というのは、非常にシンプルで、超基礎から順々に演習をする、とにかくたくさんシャーペンを動かすことだった。数学は、理解する前に問題を理解して、答えを考えるが、分からなかったら、回答を何回か写す。そうすると答えの規則性がモヤッと頭に浮かび「あれってそういうことだったのか」と突然解法が降ってくる感覚になる。止まることなく、とにかくペンを動かす、このやり方について、語り、細かい部分を教えたが、まず宿題をやってこない、前に出来たところもわからなくなる…で、あれ?って思い出して、消極的に結局進めてしまったように思われる。自分のやり方をコピペして与えた、それを失敗と呼んだら彼には失礼だが、僕は失敗したと思った。そして教えるのは難しいと思った。

なんか物凄く長くなってしまった。

家庭教師経験からの発想だが個別指導というのは、塾に比べ先生の負荷がとても大きいと思うわけだ。どこまでの結果が求められているかわからないが、本の中にあるように学生一人ひとり、勉強に向き合う姿勢や、そもそものやる気になるきっかけが違うわけで、カリキュラムを一人ひとり別で作らないといけないという考えただけでも大変だとわかる手間がかかる。ある程度、生徒にもタイプがあって、それに合わせて用意していると思うが、細かな部分は違う、そしてその細かな部分が致命傷になる可能性があると思う。そこを扱う個別指導塾の先生はすごいと思うし、改めて、人に深く関与して生きてるとそう思う。

スラムダンクにある感動は、実はみんな頑張れば得られるのかもしれない

僕は、ビリギャルを読んでよかったと思った。理由は、クソみたいだと思っていた僕自身の青春時代は、実はスラムダンクのようなクライマックスの感動があったと思い直せたからだ。

ビリギャルのなかで、缶コーヒーを坪田先生が生徒、ビリギャルに渡すシーン(試験、頑張れよ!のメッセージを込めて合格祈願の缶コーヒーを渡す)があるのだが、そこには鳥肌が立ったし、そういう応援される経験は、運動部にずっといたので、慣れていたことはあったが、受験という、ある種負けたら、一年足留め食らう可能性もあり、一つのミスで学歴が変わる(今はそんな事思わないのだけど受験前は学歴を気にしていた)と考えると、その戦い自体は今まで体験してきた戦いと比べ物にならないような重要性をもち、その応援の嬉しさときたら、僕も家族や塾の先生から受験時に応援されたことがあったので、そんな青春のクライマックスを思い出して、当時は緊張感で押し潰され、二度と戻りたくない1日であるのだけど、その1日がスラムダンクの山王戦のように思えた。

ビリギャルに出てきた缶コーヒーは、僕の中にあった「缶コーヒー」の検索順位一位のMr.Children「君が好き」に出てくる、「くたびれた自販機で2つ缶コーヒーを買ってー?」の缶コーヒーを抜いて一位に躍り出た。

早稲田には、2つのタイプがいた
それは
・早稲田が第一志望で入学した人
・早稲田が滑り止めで第◯志望で泣く泣く早稲田に入学した人

この2タイプの判断は簡単で、後者は受験の話をすると必ず、「東大(もしくは東工大)に落ちた」という話を始め、「判定ではAはとれた」と、合格するはずだった論、ここにいるはずではなかった論が始まる。そういう時は「すごいっすねー」とただ褒めるだけにするのだが、内心、「で?」を繰り返しまくる、最後には大きく「で、ここにいるけど、というか僕の隣りに今いるけど、僕はその君が落ち溢れたところにいるわけだけど、僕の事をどう思ってるの?」って思うけど聞かない。こういう感じで後者はネガティブで、あまり好きでなかったけど、長く話すと面白くて、自分自身のネガティブなところも引き出してくれて、面白い具合に相互作用が働いて結果楽しいみたいな、そんな感じに収束する。ビリギャル本では、途中、主人公の生徒、つまりビリギャルが慶応の判定でEが出てしまい落胆し、志望校を真剣に下げようか葛藤するシーンがある。そこで、坪田先生は、その下げるという行為に反対する。入学してからの納得感を気にしたからだと認識している。その時のビリギャルの気持ちも、坪田先生の気持ちも、それぞれの立場になればめちゃくちゃよく分かるし、どちらかの意見を受け入れることの難しさも想像できる。そういう点で、ビリギャルが思い直し、再び慶應を目指したのはすごいと思った(ビリギャルのお母さんの力も凄いと思ったけど)

何事もプロモーションと思って過ごす危うさ

坪田先生は、塾の先生であり、経営者でもある。つまり、ビリギャルを慶應に合格させたスペシャルな技術の賜物が示されたこの本自体がプロモーションといえる。そういう部分が引っかかって、作品として受け入れられない人の気持ちも何となくわかる。そういう方々がネットでビリギャルを批判しているのを見て、少し勿体ないなぁと思いながらも、しっかり商品を購入してたりして「どっちなんだ!?」と思ったけど、圧倒的に多いと思うのは、静かに批判して商品への関心を示さない人だ。これは別に言う必要はないのだけど、興味、趣向の話だし。ただ何となく、最近YouTubeでお金を払えば広告が出なくなる、というように、とにかく広告を嫌う社会に気持ち悪さを感じている。

極論全てのものは、プロモーションであり(朝の挨拶だってそうだと思って元気に挨拶してます)、自分だってプロモーションのおかげもありお金を稼げていてご飯を食べる事ができているし、人のプロモーションの話は、何より「こういう稼ぎ方があるんだ」とか「これがあると、ここも儲かるよね」とか、派生して色々なところが儲かると考えが拡がるように思うのだけど。
誰かが儲かることに協力する事に抵抗があるのは、それだけで勿体ないなぁと思う。気持ちはわからなくないけど、最終的に自分に繋げるか否かで。

最後に〜学歴ってなんだろう〜
合コンでモテない(最近さ、特にさ、いろいろな人と話してて思うんだけど、恋人を選ぶ基準に学歴が入ってないんだよ!!僕に対する優しさ?)、理解が遅い、自分に対して実感として思うことだ。逆に無理やり学歴のせいにもしてみるけど、学歴という学歴ではないわけで、何もかもが中途半端、ということだけが、ただ残る。社会では学歴関係なく、人は活躍する。
学歴というのは、学歴でしか残らないのか?こういう書き方をビリギャルではしてないが、ビリギャルでも、「人」と「自信」が残るモノとしてあげられていたように思う。

「人」というのは、ビリギャルでは、主に先輩を指していたが、それはまさにで、学閥というのが世の中には存在し、大学が同じだけで一気に人と打ち解け合える不思議な特典がある。ここに助けられたこと、得したことは何度もある。本当に早稲田で良かったと思ったのは卒業してからの方が多かった。また、友達。みんな僕なんかより数段賢い、気を抜くと劣等感しかなくなる環境が怠け癖のある僕にはちょうど良かった。

「自信」というのは、学歴として結果が残ることによる過去の頑張りを思い出せるきっかけがあり、その頑張りで成功が得られた、という経験で生まれた自信のことである。まさにだ。普通に受験してたら、化学が苦手だったし早稲田には行けなかったと思う。

そんな感じで、ビリギャルを読んで、久々に学生時代を思い返せて、自分がダメだったとか、頑張ったな、とか色々思えて、少し気持ちが若返った気がする。面白い本だった。