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人の目を気にして生きるか、気にせず自分らしく生きるか。

 人の目を気にして生きるべきか、気にせず自分らしく生きていくべきか。あまり2元論は好きではありませんが、考え方を整理するときは、このように、少し極端に考えたほうが本質が見えやすいものです。

 最近はYoutubeのような動画サイト、そしてTwitterのようなSNSでは、他人の目を気にせず、自分本位に生きていくことを勧める言葉を多く見かけるようになった気がします。それはおそらく日本人が、同調圧力に弱く、ずっと他人の存在を気にして生きてきたことの裏返しだと思います。

 日本では災害が起きても、略奪等の暴動が起こらないことを欧米圏のメディアが絶賛したことがありました。それと同時に、中国系のメディアが、日本は脅威的だと報道していたのが今でも印象に残っています。日本人は暴動を起こさないというよりは、相互の目を気にして悪さができない。暴動が起きないのは、そうした日本人の性質に要因があると分析した上で、こうした性質は、戦時下に本領を発揮する国民性であり、そういった意味で恐ろしいという報道でした。さすがに、中国人は欧米人よりもよく日本人の本質を理解していると思います。

 少し脱線しましたが、多くの人が、おそらく最近では、他人の目というものに疲れを感じているのだと思います。この傾向は、スマホの普及でネットが誰にでもアクセスできるようになって、より加速している気がします。そして、小さな悪を見つけては、みんなで寄ってたかって叩くといった光景があちこちで見られるようになりました。テレビでも過激な表現が消え、随分とクリーンになりました。私の職場でも、コンプラ、セクハラ、パワハラといったホワイト化を指向する概念が浸透してきました。

 白河の清きに魚もすみかねて、もとのにごりの田沼恋しき。江戸中期の狂歌でこのようなものがありますが、あまりにも川の水がきれいすぎて、魚も隠れるところがないため姿をみせず、昔の濁った川が懐かしいことだという内容です。自分らしく生きるためには、人の目につかない、自分だけの場所というものが必要な時代になってきているのかもしれません。完璧に、真っ白に、クリーンに生きることはできても、果たしてそんな人生に魅力があるのかといわれれば微妙です。

 そうはいっても、人の目を気にせず、傍若無人に生きるというのも違う気がします。人様に迷惑をかけないというのは、悪くない価値観でしょう。だからといって、迷惑をかけなければ何をやってもいいというのも違う気がします。お天道様がみているなんて古くさいことは言いませんが、他の誰が見ていなくとも、自分の価値基準に忠実に、やりたくないことはやらないし、やるべきことはやるといったような姿勢に、なんとなく憧れのようなものがあります。人の目を気にしてしまうのは、人間だって動物なのだから仕方ないでしょう。それでも、最終的には、自分の価値基準に忠実に生きたいと思う私なのであります。

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