ハンセン病療養所でのルポルタージュ

 1月28日

 朝、日が昇るより前に彼女と家を出る。彼女のスマートフォンは、彼女のように早く、スマホが彼女の性格を表しているようで、面白い。

 夜明け前の景色に見惚れた直後に日が昇る。「青砥」当たりでもう、夜明けになる。夜明けの空を見ていると坂本龍馬が、日本の夜明けぜよと言っていたことを思い出す。

 沖縄に行くということは、自分にとって意味が大きい。連れて行ってくれる彼女に大変感謝だ。自分は、三年前、コロナを堺に貯金が尽きた。今思うと年に何回も、なぜあんなに沖縄に行けたのだろうかと、あの頃の恵まれた自分の財源を思い浮かべる。

 コロナは沖縄と私を分断したが、再び沖縄の療養所を見つめてみたい。旅程は二泊三日。一泊二日ではなく、二泊三日なのが旅行を旅にあるいは、ドキュメンタリーに昇華するような気がする。

 抱えなければならない葛藤は大きい。Mさんに会えないこと。Sさんは亡くなられたこと。Aさんと長くも語らえないこと。Kさんにも会えない。壁の向こう側、あるいは境界線の向こう側に、会いたい人がいる。しかし、会えない。この現実を忘れずに、見つめなければならない。私が、会えないこの境界線の向こう側とは、社会の向こう側なのか、それとも大きな政治の向こう側なのか、あるいはニラカナイの向こう側なのだろうか。

 6時36分。しっかり夜は明けた。中平卓馬の言葉を思い出す。「ワタシ、フタタビ、オキナワニ、マイモドリマス。」


1月29日

 誕生日を沖縄で迎えた。思えば、沖縄で誕生日を迎えたのは初めてなのではないだろうか。彼女がお祝いのために私を沖縄に連れてきてくれたのだ。そして、25歳、最初の日に凡そ、コロナ禍以来、3年振りに沖縄愛楽園を訪れた。

 まず目に入ったのは、真っ黄色の看板だ。関係者以外立入禁止と書かれたその看板の関係者とは一体誰のことなのだろうか。しかも無数にあった。凡そ9つはあるであろうこの看板がコロナ禍の療養所と私との線引だった。当然、私は関係者だろうという強気な気持ちで足を踏み入れた。だが、ここでいう関係者とは、医療関係者を指すのであれば、私はもちろん、部外者だ。いや、寧ろ私は療養所の人々にとって関係者になり得たのか、所詮は部外者でしかないのか?と悶々とした。しかし、それにしても毒々しいこの看板。一体、この看板を作るのに、いくら掛かったのだろうと余計なことまで考えてしまう。

 強気な気持ちで足を踏み入れたものの、当然療養所側に、見つかったら怒られてしまう。もはや、怒られても療養所に入りたいし、それが人っ子一人も歩いていないこの療養所で一体、私と彼女の二人が歩くことが、感染予防上何の意味があるのかと、憤りつつ、やはり怯えてしまう。看板一つで、私は脆い。

 コロナ禍ではありつつも、療養所の交流会館は健在である。これらがあるために、私は万一見つかっても、交流会館を訪れた人という体でまだいられる。しかし、目的地は当然そこではない。私は療養所を見に来た。

 まず私が見なければならなかったのは、住吉区だ。私が最後に訪れた際に、壱区はもう取り壊しが始まっていたが、住吉区は健在だった。だが、当然もう住吉区も跡形なく、消えていた。その代わり、新センターが建てられ、住吉区の元あった場所には、住吉区を示す標識だけが残っていた。住吉区、緑区、壱区に住んでいた人達は無念だっただろう。

 次に私が見たのは、沖縄愛楽園にとっての壁である。コロナ禍でここまでは入れないとされたその境界線はどこにあるのだろうか。

沖縄愛楽園では、ヒモと追立のようなものが境界線になっていた。全く寂しい限りだ。

 療養所をぐるぐると歩いた。カメラを持って、この場所を記録するために。ただ、写すべき景色を見出すことは容易いが、そこに生活の場としてのハンセン病療養所は見えてこない。コロナによって生活の場が、隠れてしまったし、人々が亡くなっていた。私にもし、地球派がなかったら、私はもうこの場所を見つめることはなかったと思う。それ程に、寂しく、虚無のような景色が漂っていた。ノスタルジーでもなく、ポエティックでもなく、ただ坦々と整備された療養所の区画がポツンとあり、その私に引かれた看板の境界線の向こう側に、小さな生活の営みが見え隠れするだけだった。

 行く前に会いたい人が境界線の向こう側にいることが、どれだけ辛いのだろうかと私は怯えていた。だが、現実はもっと無慈悲で、会いたい人が向こう側にいることすら、感じさせてくれない程に、沖縄愛楽園は看板一つで遠くにいってしまった。あの看板をぶち壊せば、あの看板を全部撤去すれば、私と療養所の人々の距離感は埋まってくれるのだろうか。

 私はあの看板を殴ろうと思わなかったし、あの看板を何とかしようと思わなかったけれど、あの看板から逃れて、敦子さんにだけは会いに行った。人目を忍び、職員さんがいなくなった時に、さっとおばさんに手を振りに行った。久しぶりにおばさんの顔を見て、とても嬉しかった。やはり顔を見て話すのはこんなに違うのかと思った。でも、もし私がここに来たことがバレてしまったら、彼女は福祉課から怒られてしまうことは分かっていたので、私は名残惜しいが数分も経たずに、別れを告げた。帰りにもう一度、顔を出すからねと彼女に言ったときに、私はなんで、この人とこんな窓越しですら話が出来ないんだと悲しくなった。

 帰り際に、もう一度、おばさんを訪ねた。おばさんには15時頃に帰るからそのとき電話するねと言っていたが、おばさんは窓の外で待っていたらしい。おばさんはいつもそうだ。そして私は平気で遅れる。申し訳ないと同時に待っていてくれたのが嬉しかった。おばさんに、最後に別れを告げて帰ろうとしたが、職員の目に怯え、何度も後ろを振り替えり、気配を気にしながら、話をした。それが、私にとって本当に悔しかった。おばさんと話しながら他のことを気にすることがやるせなかった。いつもなら、私は何時間もおばさんとお喋りを楽しみ、一緒に食事をするはずなのに、3年ぶりの再開にも関わらず、経った10分も話せないなんて。

 おばさんと別れ、彼女と帰ろうとしたが、どうしても帰りたくなく、もう一度、おばさんに電話して会いに行った。今度は、もう職員ことは気にしないで、伝えたい気持ちを伝えた。おばさんは寂しいね、と言っていた。私も本当に寂しかった。おばさんは、ピザポテトと封筒を紙袋に入れて渡してくれた。帰りにその封筒からステーキとお寿司を食べた。夜は冬のせいで、沖縄なのに冷え込んでいたし、私は疲れで、何も考えられなくなった。

 

1月30日


 飛行機が離陸して一瞬で、沖縄と離れ離れになった。おばさんがいないなら、もう沖縄に行きたくないと思った。誰にも会えないのなら沖縄に、顔を出したくない。療養所を撮り終えたと思って、別れを告げた鈴木幹雄の気持ちを初めて理解した。撮り終えたなんて思えるわけ無いと思っていたが、撮り終えたというより、出来ることがもうないという感覚に近い気もする。何かしらの部分で、この出来ることがもうないを鈴木幹雄も味わったのではないか?

 だが、もちろん、私はこれからも行く。療養所におばさんがいなくなっても、誰一人会えなくなっても、行く。そこにあるのは、もうただ、あるだけという状態でさえ、見つめる。「ある/ない」その不条理を見つめることは、地球派が大事なことだと私に教えてくれているからだ。それは覚悟だし、やっぱり不条理だ。

 この旅で見えたものは、コロナ禍の療養所と私との分断だ。そんなものは、とっくにわかりきっていたことだったが、そこに看板があるというリアリティが、イメージが追いついてきた。療養所にいくまで、私の中の分断のイメージは、療養所外側の銃弾根の壁だった。しかし、今は看板と鉄の棒の追立だ。

 これが、わかったことがどんな大きな意味なのかは、わからない。もしかしたら、なんの意味もないのかも知れない。しかし、そんなわけはやはりない。私をこんなに困らせ、狼狽させたものとは、あの看板であり、ボウッ切れなのだ。そう考えるとあの看板をぶっ壊せば、療養所との距離が戻るなら、あの看板をまずは壊してみようと思った。


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