見出し画像

【雑学】アナタハン島

みなさん、

アナタハン島事件をご存知ですか?

アナタ半島ではないです。

アナタハン島です。

実はここで、

一人の女性をめぐる男たちの

恐ろしい事件があったのです。


1945年、

終戦末期のころでした。

アナタハン島はサイパン島の北方に位置する

小さな島です。

もともと住民が住んでいましたが、

わずか数十人と言う少なさでした。

「南洋興発」の社員の妻である

「比嘉和子」と男性上司(菊一郎)がアナタハン島に上陸。

そこに爆撃を受けて沈没した徴用船3隻の船員と海軍兵士、

さらにもともと島にいた陸軍兵士(10~20代の日本人)ら

計31人が合流し、

「南洋興発」からの物資を受けながら

島民とともに自給自足に近い生活をおくっていました。


アメリカ人からの爆撃を受け、

もともとの島民は皆サイパン島に避難しましたが、

和子を始めとする日本人は島に残りました。


和子と菊一郎の夫、妻は出張しておりそばにいません。

実質二人は「夫婦」として島の男たちから離れて同居。

31人の男たちも集団を作って暮らしていました。

小さな島に大勢の男と一人の女

なにも起きないはずもなく......


1945年8月、

日本人がアナタハン島に居ることを知ったアメリカ軍は

拡声器で日本の敗戦を知らせましたが、

皆はそれを信じず、かたくなに島に残ることを選択します。

アメリカ軍も暇ではないので、

その後、和子たちはしばらく放置されました。

「南洋興発」からの物資も途絶え、

食糧を食べつくしてしまった和子たちは

芋の自作を始め、

コウモリやトカゲを捕って食べたり、

手動で火をおこしたり、

木の葉を身にまとったり

原始人さながらの生活を送るようになります。


1946年8月。

山の中から墜落したアメリカ軍のボーイングB-29と

パラシュートが発見され、

残骸から拳銃四丁、

それを組み替えて拳銃二丁が手に入ったことから、

徐々に様子がおかしくなり始めます。


まず、菊一郎は他の男に脅され和子を奪われます。

脅した男を「第二の夫」として和子は夫婦になりますが、

半年後に変死。

生還した男たちから「殺された」と証言がでますが、

和子はこれを「転落死」だと反論。

菊一郎が殺したという噂さえありました。

その後菊一郎も変死。

和子は当初「ヤシガニを食べて中毒死」

と言っていましたが、

やがて「第三の夫」となる男に殺されたのだと認めます。

その男も「第四の夫」となる男に刺殺されてしまいます。


島では

「このまま和子が居続けるかぎり、

人が死に続けるのではないか」

という雰囲気が漂い始め、

「元凶は和子」

という空気が強まり始めました。

和子は男たちが自分を排除しようとしているのを感じ取り、

アメリカ軍へ投降します。

これをきっかけに

日本に残された家族たちから強い要望があり

残された日本人たちが救助されました。

最初は32人いた男たちは、

わずか20人にまで減少していました。

和子は「自分を巡って殺人が行われたのは4人、

他は喧嘩や事故で命を落とした」

と言っています。


当時、「週刊朝日」で

「アナタハンの女王蜂」というセンセーショナルなタイトルで

紹介され、

和子は一躍時の人となります。

「アナタハン」は

「長い間ご無沙汰」

を表す流行語にもなりました。

大々的に報道され日本に「アナタハンブーム」が訪れます。

和子のブロマイドが売れたり、

「男を惑わす女」として大衆の好奇の目にさらされ、

彼女が主演する映画も上映されました。

どうせ良くも悪くも有名になったのだからと、

実兄たちと相談して

現在の那覇市に

「アナタハン」という名のレストランを開業したりもしました。


和子は、夫がすでにほかの女性と再婚していたため、

一人で働いて暮らしていましたが、

良縁を得て結婚。

名護市でたこ焼き屋を始めました。

平穏な日々を送っていましたが、

脳腫瘍を発症。

1974年3月、

名護市内の病院でその波乱の生涯を閉じました。

50歳でした。


現在、アナタハン島はどうなったのでしょうか。

日本人が引き上げたあとに元島民らが帰還しました。

が、

1990年4月、

島で火山性地震が多発したため

全員サイパン島に避難したらしいです。


サポートいただけたら、ちょきんぎょが何かを体験して記事にします。