じぶんの高揚のためだけの覚えエントリー 3 ちょげん 2022年2月25日 14:56 です。なぜまちづくりなのか。言語化しきれていないのだが、基本的にはソーシャルキャピタルの貧困化への対応といいますか、真のリア充に向けた旅路ということなのでしょう。なんか、めっちゃ素直に変化球なしでメッセージングすることが大事な気がしてきた。なぜまちなのか、それはサラリーマンの人生とかキャリアを真剣に考えたときに、ビジネスだけではおさまらず、ライフの領域に染み出さざるを得ないと思ったから。— 調弦🔍(p_-) (@urbanism_chogen) February 20, 2020 学びの面で言えば、MBA的な学びとか直線的なキャリアアップとかっていう合目的な学びの強度が感じられなかったからまちづくりで東大にまで来た。結構寄り道しながら30代かけてこんなとこに来た。— 調弦🔍(p_-) (@urbanism_chogen) February 20, 2020 家庭と職場の最適化で人は幸せMAXになれると思えないでいる。そこに趣味が加われば、まあリア充だ。映画、演劇みたいなカルチャー消費でも良ければ、ゴルフ、アウトドア、ライトにはサッカー観戦とかアクティビティあればいいんじゃないのと。まあそうかもしれない。でも、そこに生活圏の社会は?— 調弦🔍(p_-) (@urbanism_chogen) February 20, 2020 そういうの、なくたって生きていけるかもだけど、地域や生活圏とかあまりにぼくらになさすぎやしませんかと。セーフティネット的な意味でも職場は人を守りきらない。家庭なければ、なにが人の尊厳保ってくれるの?それがまちとか公共ってことの必要性ではないのと。— 調弦🔍(p_-) (@urbanism_chogen) February 20, 2020 消費者根性しみついてると、まちのサービスも消費するぞ、脳にあふれているけど、市民として生活良くするのにやれることあるんだろうと思うし、そこに都市社会のトライすべき連帯があると思うんだ。子育てとか介護とかは、具体的な接点を持つイシューなんだろうなって思っている。— 調弦🔍(p_-) (@urbanism_chogen) February 20, 2020 とにかくだ、われわれはあまりに仕事とおうちの往復にあけくれてる。仕事充は結構だけど、そうじゃない働きがいとか世界最低レベルの日本人であるからして、まちとか生活圏が豊かにならないと幸せとかないだろ、とか思っている。— 調弦🔍(p_-) (@urbanism_chogen) February 20, 2020 つまり、まちに染み出しちゃったわけだ。人事なのに会社の働きがいとか信じてないから、働きがいから得られる幸福とかだけでもの足りる気がしなくて、生活圏としてのまちづくりをやりたくなったのだった。こんなへんな人事がいてもいいよなきっと。大学院でもいつも不思議ポジションだけど。— 調弦🔍(p_-) (@urbanism_chogen) February 20, 2020 そんなで、おれにとってのまちづくりの興味や動機は、俺みたいな働くリーマンの幸せへのアプローチなのだった。たまに言及する橘玲的に言えば、稼ぐ力の人的資本と、持ってるお金そのものの金融資本に加えて、セーフティネット的な社会関係資本を築くためにコミュニティデザインが必要なんだと思ってる— 調弦🔍(p_-) (@urbanism_chogen) February 20, 2020 ある程度今の時点の気持ちが言語化できたのでまた機会見て書いてみよう。75点くらいかなあ。もっとうちから湧き出る言葉に昇華して、強度高めたい。— 調弦🔍(p_-) (@urbanism_chogen) February 20, 2020 あとは、鍵アカに記した文章。避けてたけどやはり読みたくなり山口周の新刊Kindle購入。飛行機で読んだ。発想広げたい系の本は飛行機移動でこそ読むべき。新しい気づきというよりは、忘れていた大事なことを思い出させるのが山口周の本の効用であり、高揚が得られた。ひとつは意味をクリエイトできることが価値ということ。人生の意味、というのを与えられるのでなく描けるかというのが大事やねと。これを実感できるまでに長くかかりまくったし、今も見失うし、今ですら心底ハラオチしてるかは不安だが、高揚するという心的サインがある。関連して、基本、仕事なるものはブルシットワーク化しているということ。この主張はもとはグレーバーのものだが、俺の解釈では仕事のマッチポンプ化というもの。勝手に問題製造して文化的でもない雪かきを延々とやる現代的苦役、ということ。そんななかで、俺が問題、と思っていることは、リーマンのソシアルキャピタルの貧困化、ということはかなり強く自覚できた。当初、企業内で社会関係資本を構築することが幸せ、と思いこみ、なんかいろいろとやってみたが、それは幻想。資本というカネの論理に拘泥することこそが幸せという結論に至った。翻って、子供ができて育休を一年半もとって「生活亅に潜った結果、いずれは中高年そんな生活になろうし、予行演習した結果、我々中年のオッサンに足らないのはソシアルキャピタルにほかならないと感じるに至った。そんなソシアルキャピタルを手当するにはなにが必要か、端的に言えば核家族の外の豊饒なつながりであり、そんなつながりを誘発する居心地が良い物理的かつ心的なサードプレイスであろうというのが昔から思ってたけど、育休時の生活のなかで、実感深まる機会であった。だから、手を付けられずにいた、都市やまち、という物理的空間とコミュニティ、という分野に踏み出すことにしたわけであった。40をこえるタイミングで、俺なりに中年の危機のなかから導き出すことができた行動となった。いつも高揚して盛り上がったときに、人生はへんなふうに拓ける感覚がある。今回は出産、育休、そこの基底にあったのはある種のリーマン出世とか能力のなさからくる挫折だったが、試行錯誤を経て、新しいステージに踏み出そうと出来ているのは、ギフトである。大阪という街は、やはり俺を饒舌にする。ソウルフルでクソで、どこか無駄があって、無駄こそが人生だ、と解っている規範があるからだと勝手に思っている。久々生き返る街に戻ってきたで、大阪ー(連投終わり)午後8:44 · 2019年9月12日 ダウンロード copy #どこまでも個人的な 3 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? 記事をサポート