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大吉原展はフォアグラの味

開幕前に炎上してしまった大吉原展。
行くかどうか非常に迷ったのですが、観ないことには何も言えませんし、以前に観た太田美術館の葛飾応為の「吉原格子先之図」がとても良かったことから、美術を楽しむ視点もありかな?と足を運んでみました。

閉幕間際で大混雑と聞いていましたが、平日の開場直後に行ったら、すんなり入れました。
所要時間3時間。ボリュームたっぷりの作品数で、鑑賞に加え、解説を読むための時間がかなり必要です。

美術展としては良かった、が……

すばらしい作品や資料が揃っており、解説も丁寧でした。
日本の絵画に詳しくない私でも知っている絵師たちの作品もたくさんありました。
辻村寿三郎の人形とパノラマも非常にすばらしかったです。

ですが、残念ながら「美術作品を通じて、江戸時代の吉原を再考する機会」にはなってなかったように思います。

もっとも違和感を覚えたのは、喜多川歌麿の「青楼十二時」に添えられた遊女の一日の過ごし方の説明図。
時間ごとに「入浴して身を清める」「宴席で客をもてなす」といった説明がありましたが、その中に彼女たちが売春をさせられていたことは書いてない。
この時間割だけだと、花魁は高級クラブのママさんみたいな立場に見えてしまいます。
深夜や明け方に客を送り出す、とあるので、客が宴席の後にとどまっていることはわかりますが。

遊女の顔から感じるもの

花魁をはじめ、描かれた女たちはとても美しいです。
豪華な着物に派手な髪型、現代のアイドルのようにファッションリーダーであったというのはよくわかります。
ただ、みんな同じ顔をしているなあ、と不思議に思っていました。

会場には明治期の遊女の写真もありました。それを見ると、現代の日本の女性たちと同様に、皆さんそれぞれ個性があるのです。遊女がみんな同じ顔をしていたわけじゃないことが今回はっきりしました(当たり前と言えば当たり前……)。

明治初期に高橋由一が描いた油彩「花魁」は、芯の強そうな、リアリティある女性像で私は好きです。しかし、モデルとなった稲本楼の花魁・小稲が「わちきはこんな顔ではありんせん」と怒り泣いたというエピソードが有名です。
つまるところ、本人に似ているかどうかより、美人の典型に合わせて描くほうが大事だったのでしょうね。

吉原を描いた絵には、新造(客を取る前の見習い遊女)や禿(かむろ:童女)もよく登場します。
新造はともかくとして、禿は年齢ひとけたの子ども。しかし、顔もスタイルも大人をそのまま小さくしたような姿で描かれています。
私は、禿たちの姿がとても残酷に思えて、怖いと感じました。

子どもでありながら、性的対象としての姿で描かれているからです。美しい子は稽古事や教養を仕込まれたということですが、売られてきた子であり、行き着く先は遊女です。
本人たちも美人に描いてほしいと望んでいたとは思うのですが、それしか生きていく道がないわけで、痛ましい世界です。

大吉原展はフォアグラの味
いっそ、「吉原を題材とした美術」の展覧会であったなら、もう少し素直に楽しめたかもしれません。

「江戸時代の吉原を再考する機会」とするなら、影の部分ももっと知らせる必要があったと思いますし、それには美術品だけでは追いつかないでしょう。
最下級の「てっぽう」と呼ばれた女郎の絵は、パネルに部分だけ、顔とおっぱいが切り取られて展示されていただけです。作品自体がほとんどないのだと思います。
悲惨なものはなかなか描かれませんし、悲惨な境遇にあった人は言葉を残せないから、美術展の中で説明するのは難しいと思います。

目で見て美しいものはこの会場内にたくさんありました。
リリース時の広報の無神経なはしゃぎっぷりは論外ですが、中途半端な言い訳をするくらいなら、もっとフラットに美術展の側面を出しても良かったのでは。歴史を振り返るための展示なら、別の方法がありそうです。

観終わった後の気持ちは、フォアグラをおいしくいただきながら、その製造方法に思いをはせて非常に後ろめたい気持ちになってしまうのと似ていました。
……フォアグラ、数回しか食べたことないですが。

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