【360+5】誰に向かって、noteを書けばよいのか
写真を撮る理由。それは見せたい人がいるからです。恋人かもしれないし、家族かもしれないし、未来の自分かもしれない。
何かを残すこと。それは見てもらうための「誰か」が必要なアクションです。noteだって同じ。誰かのために書いています。
では、noteは誰のために書くのか。もちろん「読者」のためではあるのですが、その「読者」とは一体誰なのか。今回はそんな人に関するお話です。
昔の自分に向かって書く
文章には想定される読者がいます。100人の知らない人に向かって書くよりも、1人の明確に思い浮かぶ誰かに向かって書く方が伝わる文章になります。
そして結論、どのような文章も多かれ少なかれ、過去の自分に向かって書かれています。それは、自分が一番想像できる読者だからです。
避けられたかもしれない結末。それを伝えるために、タイムマシンに乗ってその時代に降り立った現代人。それがnoteの中の自分です。
昔の自分との比較では、よく自分に言い聞かせている言葉があります。イギリスの探検家の方の言葉です。
他人が自分より優れていても、それは恥ではない
だが、去年より今年の自分が優れていないのは恥である
「やってみたら、こんなことが分かったよ」「もっと昔から知っておければ良かったね」「でも、やらないと分からなかったとは思うけどね」
そんな矛盾した思いとともに、それでももっと早く知っておきたかったこととして、昔の自分に語りかけること。それがnoteではないでしょうか。
昔の自分はどのぐらいいるか
一番の読者として想定する自分ですが、とはいえnoteを本当に読んで頂くのは自分ではない他の方々です。
そのため、自分ではない他の人の気持ちをどれだけ想像できるかが、「多くの方に」読んで頂けるかどうかの分水嶺になってきます。
読者の中に「昔の自分」はどの程度いるのだろうと想像する力。それが読んで頂ける数に直結するのだと感じているのです。
私はなかなかこの想像が上手く出来ませんで、最初は例え話などを自分のちょっと特殊な仕事や経験から持ってきてしまっていました。
ただ読者の方のnoteを読んでその具体例が遠いことを知って、読者の方々になるべく近い例を使おうと、一度立ち止まって考えるようになりました。
するとそれまでの自分勝手に書いていた時よりも、随分と良い反応を頂けるようになったものです。共感できることは読んで頂くための基礎です。
多くの人に読んで欲しければ、読んで頂いている読者の気持ちを想像する力が必要になります。noteを書いていて、一番伸びた力かもしれません。
誰を向いているかはすぐ分かる
そうして誰のためかを考えて書くようになってから、読み方にもだいぶ変化が起こりました。誰向けの文章かに敏感になったのです
良くないと感じているのが、自分だけに向けた文章です。公開して読んでもらおうとしている以上、誰かのための文章でもないといけないのです。
その文章が読者にも向けて書かれたものなのか、自分だけに向けて書かれたものなのかは、読者目線で読んでみると一目でわかってしまいます。
知識や具体例は、読者の理解を促すように使うべきです。ですが気を抜くと、つい我が出てしまうのが文章の難しいところです。
読者と一緒に一歩ずつ歩みを進めていく。途中で飽きないように、途中で見失わないように。でも読み終わった後には驚きと爽快感がある。
良い文章とは、そんな文章だと感じています。
アンダンテ。音楽記号で「歩くような速さで」という詩的な意味を持ちます。文章の速さについて考えると、いつも思い浮かぶ記号です。
誰かと一緒に歩くとき、相手の歩調を気にします。速すぎないか、遅すぎないか。無理なくついてこられるか。
互いに心地良いペースで歩くとき、ただ歩くだけでも心が伝わる気がするものです。
そんな心地良い「歩くような速さ」で。読者と一緒に一歩一歩を進められるような文章を書きたいな、と思っています。
ではでは。
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