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取りもどすための必要な作業
誕生日に「おめでとう」って言えなくなってから、数年たちます。
ふつうってなんだろう、
ふつうって全然ふつうじゃないよな、
ふつうってめっちゃまぶしいわ、
そう思うようになりました。
ふつうをふつうと思っていると、
ふつうのことがふつうに運ばなさ過ぎて、おかしくなりそうだから、
ふつうをふつうと思うことをやめました。
ふつうって、有り難しなんです。
本人の思考によると、誕生日はちっともめでたくないそうなので、
「おめでとう」は禁句になりました。
祖父母たちにもその旨は伝えてあって、
だれもその言葉を発することがなくなりました。
だからといって、お祝いの金品が要らないということではないので、
届けられるわけなんですが、
かわいい孫になにか伝えたいと思うのが人情で。
ある年、「幸せを祈ってる」というメッセージがついていました。
ギリいけるか?ちょっと危険かな?とは思ったのですが、
そのまま渡したところ、びっくりするほどキレて荒れました。
親の発言でキレるならまだわかるんですよ。
もはやいたわる存在でしかない年老いた人の、自分を心配し思いやる心からの言葉にも激高しちゃうのが、もう…どうしても範疇を超えている。
そういうところがアレのアレたるアレなんだ、といつぞやのお医者様がおっしゃったとおりで。
本人にしてみれば、
幸せ?はぁ?
こちとら生きていたくないんじゃーなにが幸せじゃい!
みたいな解釈らしいです。
あぁ・・・
闇はとてつもなく深く濃い。なにやってもだめだ。隔たりは埋まらない。
と全身から力が抜け落ちます。
圧倒、絶望、諦念、放心です。
祝いの言葉は要らないし、生きていくのもいやだけど、金品はもらう、
の生々しさというか、自己中心的思考というか、ダブルスタンダードっていうか、下々の者から施しを受けて当然としている暴君のような。
それを幼さと捉えて「かわいい」と思えたら楽なんでしょうけど、
今だけの一時的なものじゃないような、不変の性質のような気もして、とてもじゃないけど。
さらに、「ありがとう」を一切言わないんですよね。
幼き頃より、挨拶やお礼についてうるさく言ってきたので、ほんとに自分のやってきたことはなんだったのか、と情けなくなります。
でなくても、人としてどうなの、って思うんですけど、
それも「ふつう」をベースにしているからなんですよね。
「そうあるべき」を取っ払わないと、本当におかしくなりそうだから、
だら~んとあらゆる関節を外したみたいに、ただ脱力してます。
そんな生活を続けていると、投げやりになってくるんですよ。
なにやってもだめだ。
がんばったってなにも変わらない。
どうでもいいじゃん。
なんもしたくねぇ。
諦めて放棄し始めると家の中が荒んでくる。
悪循環でしかないですよね。
わかってるんですけど、もうね、不健全の吸引力たるや衰えを知らず、ぐいぐい引っ張られるんですよ。
そんな時に、一筋の光となるのが旬の野菜なのかもしれません。
真っ当な力強いものに引き戻される、っていうか。
旬のものの持つ生命力ってことなのかも。
あ、もう次の季節が来ている。
望もうと望まざると、いつの間にか進んでいるんだな。
そういう気づきによって正規のリズムがよみがえり、生気を取り戻す感じがします。
そこから、食欲が触媒となり、一気に「買わなくちゃ」「買うぞ」「食べたい」「食べよう」まで健全ルートをばく進。
山菜も、豆類も、帰ってから下処理の手間のかかる食材ばっかりなので、げんなりするんですけど。
健全に生きるために、野菜の季節感はめちゃくちゃ大切で、
季節感を得るために、スーパーでなく産直に通い続けることも大切で、
産直で、新鮮なんだけど、下処理の手間のかかる野菜を買って、調理前に地道な作業をする過程で、検索をして、思考の寄り道をして、新たな知識を得たりして、知らぬ間にわたしの精神も整えられてたりするのかな~なんて、そんなことをぼそっと書き記してみました。
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