いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう #1

『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』は、フジテレビ系「月9」枠にて2016年1月18日から3月21日まで放送されたテレビドラマである。主演は有村架純と高良健吾。略称はいつ恋(いつこい)。第3回コンフィデンスアワード・ドラマ賞作品賞・脚本賞などを受賞した。(Wikipediaから)


 放送当時は観ていなかったけれど、あるとき偶々テレビを点けたら再放送をやっていた。観るまではタイトルから勝手に適当な恋愛ものだろうと思っていたけれど、予想を超えて丁寧に作りこまれた内容に、思わず引き込まれてしまった。(脚本も大好きな坂本裕二だし。)番宣の関係なのかTVerで視聴可能になっていたので、また観直していた。

方言で話すということ

 この作品では方言が出たり、出なかったりする。主な舞台は東京、1話ではあまり方言の目立たない北海道。本音と建て前、ということだけではなくて、今の立場で話すときは標準語、生い立ちや過去を背負って話すときは方言が出てくる。里親に封じられていた関西弁で話すとき、音は林田音から杉原音になる。

つっかい棒を捨てるということ

 手紙を届けに来た練の「これ、この人のつっかえ棒なんじゃないかと思って」という言葉に、音ははっとした表情を浮かべていた。音はそんなこと言われたことなかったんだな、と思いつつ、そもそも言われないよな、と思い直す。「つっかえ棒」という言い方はなかなか思いつくものではない。それは、他人が大切にしているものにきちんと思い至ることが難しい、ということだけではなくて、普通ならたとえば「大切なものだと思って」といった表現が思いつくんじゃないか。自分なら「宝物」と呼ぶかもしれない。「つっかえ棒」という言葉を調べてみると、「つっかえにする棒。戸などを開かないようにしたり、物が倒れたりしないように支えたりする棒。」とあった。「心の支え」という言葉と比べても、素朴なだけじゃなく、もっと切実な響きがある。
 つっかえ棒が必要なのは、支えていなければ倒れてしまう人なんじゃないか。そして練は(同じような境遇だったからか)、倒れかけていることに気づいたんじゃないか。ちょっと極端に見える彼のおせっかいも、それが理由のひとつかもしれない。
 つっかえ棒は一つだけではない。母親の遺骨も、毎日眺める花も、どれだけの支えになるのかは分からないが、音の大切なつっかえ棒になっている。ベランダの花はその意味を分かってもらえないまま婚約者に捨てられ、骨は分かったうえで里親に捨てられた。一方の練は「捨てて」と言われてもなお、手紙を捨てることができなかった。(音が手紙を捨てようと思ったのはなぜだろう。母親が願っていたような自由や恋愛をあきらめたから、見るのが辛かったのかな、と思うと、なかなかきついものがある。)

サイレンの夜に流れたものについて

 夜中に家を抜け出した音は、建設中止となったダムの遺構に練を誘いだす。
「警報のサイレンが鳴って、みんないっせいに町から逃げ出していくの。誰もいなくなった後に、大きな湖だけがひとつ残るの。ずっとそういうの想像してたから」「こんな街、ダムの底に沈んだらええのに」
 結局町が流れることはなかったし、みんなが逃げ出すことはなかった。大雨でサイレンが鳴った日、流れたものは母親の骨(あるいは音の涙)だったし、「逃げなさい」と背中を押されて逃げ出したのはみんなではなく音自身だった。
 存在の卑小さというか、あくまで物語の主導権はこちら側には無いんですよ、というリアリティがまた、見ていて辛い。

 辛い、と言いつつまた最後まで見続けてしまうのだけれど。

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