7話『現在地』を語る(MIU404感想文)
MIU404最終話を見てから、思いが募りすぎてnoteアカウント作りました。
読解、曲解、もしくは妄想です。
注)MIU404とアンナチュラル、ほんのちょっと罪の声のネタバレあります。
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小話。
先日、推しグループの関ジャニ∞の番組を見ていて、面白い知識を得た。
狩猟のためにライフルを所持するには、散弾銃の使用許可を受けてから、10年以上を要するという(銃刀法第5条の2第4項第一号)。
10年以上といえば、
つい先日の紅白歌合戦の出場者発表で、AKB48の落選が話題となった。2007年の初出場後、2008年には落選したものの、2009年から昨年までは11年連続の出場だったそうだ。
(ちなみに、関ジャニ∞は9回目の出場が決定。メンバーの村上くんは、熱望している司会には落選でした。)
「なあ志摩、10年あったら何ができるかな。」
(7話・伊吹)
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7話が好きだという話。
恋愛ドラマやミステリードラマでは、最終回が一番の盛り上がりどころになる。対して、MIU404のような一話完結モノでは、人気回や名作回というのが生まれるものだ(MIUが一話完結モノかどうかの、議論はさておき。)。
MIU404のそれは、何話になるだろう。
毎回変わる作品のテイストについては、塚原監督曰く「1話好きな人は、2話好きじゃないと思うのよね。」とのこと。
視聴率では最終回が最高だったようだが、SNSを見て回ると、4話や9話、それに2話や6話といったところが、人気のように見られる。シナリオブックの発売に先立って、4話シナリオが「月刊ドラマ」誌に掲載されたことからも、4話は名作回といえそうだ。
個人的には、あの話のあのシーン、あの演技、あの劇伴の入り、、と挙げればキリがないものの、特に好きな回を1つだけ挙げるのならば、7話を挙げたい。
(1話から視ていたにも関わらず、ハマるに至ったのは8話なのだけれど。)
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7話のここが好き:その1
アクションあり、意外なゲストあり、アイドルとコラボあり。
脚本の野木さんから「カオス回」と評されるなど、6話の志摩回と8話の伊吹回の合間に閑話のような位置付けをされがちな7話だが、どこが好きかと言えば、台詞が刺さる。
「君たちに何かあったら、悲しい。」
見知らぬ男の家に泊まろうとした少女たちに、「暴力を受けたり、性被害に遭ってほしくない。」と、志摩がかけた言葉だ。
主語のない言葉に、「誰が悲しむのか?」と疑問を浮かべた人もいれば、「親が悲しむ」とありがちな台詞を補完した人もいたのではないだろうか。
そして後者は、直後の「親がヤバイかなんかで、家出中なんでしょう」というジュリさんの言葉に、ハッとさせられたことだろう。
志摩は1話でも、迎えの来ない迷子について「保護者はどこに?」という言い方をしている(親はどこに、ではなく。)。
こういった言葉選びのバランス感覚が、志摩の好きなところであり、野木脚本の好きなところだ。
親が悲しんでくれるとは限らない。だから「君たちに何かあったら、俺が悲しい」と言ってくれるのが、志摩なのだ。
、、本当に、そうだろうか?
本当に、志摩は「俺が悲しい」を理由に、少女たちを思い留まらせたのだろうか?
もちろん、そういう見方もできる。けれどそれなら、志摩が悲しまなければ、悲しんでくれる志摩と出会っていなければ、少女たちが暴力や性被害に遭っても構わなかったといえるのか。
例え親が悲しんでくれなくても、例え君のために悲しむ人が居なくても、
君が暴力や性被害に遭うのは「悲しい」ことに変わりはないのだ、という思いが込められてはいないだろうか。
他者からの定義付けに自分の価値を委ねずに、自分が自分を大切にしてくれと。
「悲しい」の前の一瞬の「、」、
解釈の余地を与える星野源の演技が秀逸だ。
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7話のここが好き:その2
7話にはもう1つ、心動かされた台詞がある。
息子の両家顔合わせに遅れて到着した、陣馬のシーン。「こいつが悩んで迷って、自分の頭で考えて、勝ち取った特性だと思うんです。」
家族思いの息子について、「俺が教えたんじゃないんです」と添えながら語る台詞だ。
まともな親の不在がほのめかされる少女たちの一方で、7話では陣馬家と、もうひとつの親子が描かれた。九重とその父だ。
陣馬が指名手配犯を追い、404が殺人事件を捜査している頃、九重親子とマメジはゴルフをしている。前半では、世人は自分を機捜に入れたのはスパイのためかと問い、マメジはやたらと世人を持ち上げる。
そして、前述の陣馬の台詞のあとには、九重父が世人について語るシーンが挿入される。
「世人が私の息子だということは、ひとつの不幸です。」
続けて、自分の立ち位置を見失わず、流されずにおのれの道を探せるようになってほしい、という父の本心が語られる。
アンナチュラルでは、「自分と子どもが別の人間だということを理解していない」(2話)と、主人公が関係者の親を糾弾するシーンがあった。
MIU404がアンナチュラルへの批評であることは、脚本の野木さんが語っているとおりであるが、親と子の在り方についても、歪な関係性を描くことで問題を提起したアンナチュラルに対し、MIU404では親が子を別人格として尊重する「あるべき姿の提示」という、アンチテーゼが成されたといえるだろう。
アンナチュラル繋がりで、もうひとつ。
ミコトの台詞、「あなたの人生は、あなたのものだよ」(7話)には、聞くたびに感情のせり上がりを禁じえない。
そして、私が映画「罪の声」で思わず涙したのが、聡一郎と会ったあとの橋の上のシーン。罪悪感を覚えた曽根に、阿久津が掛けた言葉だった。
いずれも、自力で人生を切り拓くことを、力強く肯定するメッセージだ。
ともすれば皮肉や否定の言葉で表現されがちなメッセージが、こうした肯定の形で発信されることの意味を、しっかりと噛みしめたいと思う。
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「10年あったら、何ができるかな。」
冒頭の引用に戻り、7話・伊吹の台詞より。
6年もの間、「できなかった」過去を悔やみ続けた志摩が、「なんでもできそうだ」と可能性を数え上げ、誰も恨まずに過ごした自身の10年を「ラッキーだった」と形容する伊吹には、「赦せない」出来事がきたる未来に控えている。
2人が、今、この「現在地」で落ち合い、ドラマ後半へと走り出す瞬間だ。
「10年」という単位は、最終話でも2度登場していた。
「10年経てばみんな忘れて、終わったことになってる」という久住の台詞、それから、「10年かかるかもしれません」と言いながらも、「できること」を考えて進もうとする九重の台詞だ。
そしてもう1つ、先述の野木さんのインタビューでも、「10年」という単位が登場している。
「10年くらい前、アメリカ映画で「正義を疑う」「正義とはなんぞや」みたいなテーマが一時期広がったと思うんです。~中略~ 今こそ、正義を語ることに意味があるんじゃないかと。」
10年前のアメリカといえば、サブプライムローン問題を発端に、世相が大きく変化、初の黒人大統領が誕生した選挙では、アフガン・イラクへの派遣の是非が問い直され、マイケル・サンデル氏の「これからの正義の話をしよう」は日本でも話題となるなど、確かに「正義」が盛んに語られた頃だったように思う。エンタメにも影響を与えたそれらは、日本で暮らす私たちにも無縁では無かったはずだ。
それから10年。
忘れて終わったことになってしまったか、あるいは、ひとつひとつできる事を積み重ねてきたのか。
私たちは、現在地でどちらの側にたっているだろうか。
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推しグループの関ジャニ∞は、来年も紅白出場が叶えば、10年連続となる。
先日のラジオにて、司会を熱望する村上に、同じくメンバーの横山がこんなようなことを言っていた。
”司会の夢が叶うに越したことはないけれど、10年落選し続けるのも見てみたい。10年言い続けられるということは、言えなくなるようなことをせずに、10年続けられているということだから”と。
思い通りの未来に進むことだけが、正解ではない。
最終話、ゼロ地点を密行する志摩と伊吹のように「間違えたらここからだ」と、選択の日々を誠実に歩んでいけたらと、コロナ禍の年の瀬に寄せて思う。
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