例えばのモンスター



例えばの僕らの日々はいつだって終わりがある
それだから儚く優しい 明日があるのに



ひめキュンフルーツ缶さんの「例えばのモンスター」の一節にこんな歌詞がある。


終わりがあるとわかって過ごす毎日と、この日常がずっと続くと思って過ごす毎日、私は断然後者の考えで生きている。


なぜなら、終わりがあると考えた時点で全てが無情に思えてしまうからだ。



一生懸命頑張っててもいつか終わりがくるって分かったら頑張らなくなってしまう。




先日アイドルの卒業公演を見に行ったのだが、いろいろと考えさせられる公演だった。


ひめキュンフルーツ缶さんのライブでは、「例えばのモンスター」が割と高確率で披露されるわけだが、1、2年前までこの曲は地味に嫌いな曲だった。



2017年10月、旧ひめキュンフルーツ缶が解散した時、「例えばのモンスター」の歌詞はかなり心に刺さった。

僕らは良くも悪くも変わっていくものだから
繰り返すこの化物に 儚さと情熱の花束を


「良くも悪くも」じゃねぇよ!!
変わらない日常を求めていた私にとっては、この言い回しはかなりキテた。
(昔の私がガキみたいな考え方しかできなかったのでご了承下さい)



そんなこんなでこの曲は歌詞を深く考えず、音楽性を感じ取ることのみにおいて楽しい楽曲たった。


しかし、あれからいろいろな出会いや卒業、解散を経験するうち、この曲の意味がわかってきた気がする。


(作詞者の意図はわかりませんが、ここから勝手に考察してます)


「例えばのモンスター」の歌詞にあるモンスターとは、他でもない私自身なのだと思う。


立ち止まる勇気も変わっていく自信もないままで逃げていった


例えばの僕らの日々はいつだってなくし続け
いつかの終わりがあるのに求めてやまない



刹那に生きているくせに、同じ日常を求めて、自分自身が変わっていく勇気もない、

ここでいうモンスターは私そのものだ。


最近こう思うようになって、自分はダメなやつだなぁと卑下してしまうのだけれど、そんなモンスターに儚さと情熱の花束をくれるのは紛れもなく偶像が描く無情なのである。


そして今日もアイドルを見に行ってしまうのだ



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