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🎨📝:画家 瀧川太郎の心

瀧川太郎は洋画家で石井柏亭に師事し後にパリに渡って絵画を学んだ。
パリにおいては画家であると同時に、画商としても手広くビジネスを展開していた。パリで買い付けた絵画を日本の画商等に販売していた。

1962年神奈川県で開催された西洋美術展でルノアールの作品『少女』が盗まれた。後に発見されるが、このルノアールの作品が瀧川太郎の描いた贋作である事が発表される。画商として何百点かの瀧川製贋作名画が日本国内に流通したことで大問題となり、1969年瀧川太郎みずからが芸術新潮の取材インタビューで自身の贋作活動を告白してしまった。
世に言う「瀧川製贋作事件」である。

ルノアール、セザンヌ、コローなどの西洋印象派の巨匠の作品を200点以上贋作し各地の美術館や個人のコレクターの手に渡った。現在においてもオリジナルなのか瀧川製なのか判断できない作品もあるという。

もともとは画家を目指してパリに赴いたわけだが、どこで道を踏み外したのか。画家の修業の一つに名作の模写がある。もともと力量のあった瀧川太郎がルノアールをはじめとした巨匠の作品に挑戦をし、超越したかったのかもしれない。もしそうであるとすれば、どうして瀧川太郎独自の境地をカンバスに描かなかったのか。それが残念でならない。

次の作品は1928年の作品で、瀧川が25歳の若さで描いた作品である。
題名が『風景』となっており、F20号の比較的大きな作品であるが、まだ若干25歳の若さでこれだけのインパクトのある絵が描けたわけで、贋作などに手を染めずに瀧川独自の境地を世に訴えることができたと思う。

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カンバス裏の書込とメモを見てもらえば判るのだが、この絵は瀧川太郎が亡くなった後、遺族により里見勝蔵に送られたものである。

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里見勝蔵は、やはりパリに渡航しブラマンクの弟子となり、帰国後フォーヴィズム(野獣派)を広めた巨匠である。帰国後の里見は日本の洋画家界でも重鎮となり東京国立博物館の館長などでも電話一本で鎌倉の自宅まで来させる様な権威があった。大の画商嫌いで売り画は描かないタイプの画家であった。フランスではブラマンクに師事したが、ゴッホの研究にも熱心で彼の蔵書にはフランスの古いゴッホのレゾネがあった。またオーヴェル・シュル・オワーズのゴッホの墓に赴き、そのデッサンなどもしている。

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このように当時、日本における西洋画界の重鎮である里見勝蔵に瀧川太郎の遺族がこの絵を送った。という意味は、遺族としても太郎の真の力量を里見に認めてもらいたかった。同時に贋作者としての汚名を雪ぎたかったのではないかと私は推察する。里見勝蔵だけには贋作者でも画商でも無く、画家としての瀧川太郎を理解してもらいたかったのだと思う。

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