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コミュニティに安心・安全はいらない

コミュニティの話題になると必ずと言っていいほど出てくるこの「安心・安全」というワード。

でも、話題に頻出するからといって、それが重要であるとか真実であるとは限らない。

「安心・安全」を重視するコミュニティがあるのは素晴らしいと思う。でも、だからといってすべてのコミュニティが「安心・安全」を実現しなければいけないわけではない。


そもそも「安心・安全」とは?

ざっくりいうと安心は「危険がない(少ない)と感じる主観的な心理的状況」で、安全は「危険がない(少ない)とみなせる客観的な根拠がある状況」と考えていい。

安心しているけど実は安全じゃなかったり(思い込み)、安全だけど安心できなかったり(半信半疑)することもある。両者は似て非なる概念だ。



安心・安全なコミュニティとは?

安心と安全は別のものなので、それぞれどんなコミュニティで成立するのか考えてみたい。

では、安全なコミュニティとはどんなものだろう。それは、人を傷つける可能性がある人や言動を排除する厳密なルールなど、誰から見ても客観的に「安全である」とみなせる根拠があるコミュニティだ。

また、安心なコミュニティとはどんなものだろう。それは、自分を傷つけることがないと主観的に思えるような人たちで構成された、入れ替わりの少ないムラのようなコミュニティだ。ヨソモノがコミュニティに入ってくれば、その人によって主観的な安心はカンタンに崩れる。

だから、「安心・安全」を過度に求めると、ルールに縛られ新しい人を入れない排他的なコミュニティになっていく。

安心・安全は、人が生きていく上で欠かせない。だが、それは必ずしもすべてのコミュニティや居場所で必要ということを意味してはいない。

厳密なルールもなく、多様な人が行き交うコミュニティもまた存在するし、そこに居場所を見出す人もいるからだ。

「安心・安全」を謳うまえに、そのコミュニティに「安心・安全」が必要かどうかを考える必要がある。



現代のコミュニティに必要なもの

そんなわけで、「安心・安全」を求めるほど、人との関係性は閉じていく。では、それらがない状態でも人と人が関係を築くことはできるのか、という問いが生まれてくる。

その問いに、わたしは「対話・信頼」をキーワードにして応えたい。対話も信頼も、人との新しい関係性に開かれているから。

対話によって、互いの共通点や相違点を知り、受容することができる。そうやって少しずつ信頼関係を築くことで、コミュニティとしての価値を高めていくことができ、そこにいる人たちの得られるものも増えていく。

クローズドで受動的な「安心・安全」ではなく、オープンで能動的な「対話・信頼」でコミュニティを作っていくことができると信じている。



そもそも現代のコミュニティは、人の流動性があるものなので、根本的な「安心・安全」というものはありえない。だからこそ、対話を通じて人を信頼することで関係性を深めたり広げることが必要になってくる。

コミュニティデザインの観点からは、そういった対話の機会を生み出すことの重要性を強調したい。

そして、そのような対話を支えているのは、コミュニティでの振る舞いのコードである文化だ。対話を推奨する文化的背景があれば、自然と対話の場も生まれてくる。

「文化」を醸成し「対話」の機会を生み「信頼」関係の形成を促す。その結果としてメンバー同士の共創が生まれたり、メンバーが居場所を持つことができたりする。

「安心・安全」がすべてではない。コミュニティのあり方に関する議論に、こうした代替案が必要だと思う。そうやってコミュニティが多様化することで、多くの人が自分に合うコミュニティを見つけることができるようになればいいなと思う。

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