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「マトリックス レボリューションズ」

スターシップトゥルーパーズのパート2以降を彷彿とさせる安っぽいSF映画になっていて驚いた。エポックメイキングだった第一作から、その流れでよりパワーアップした感があった第二作。第三作は、テレビシリーズみたいな仕上がり。ゴッドファーザーや、ダークナイトトリロジーなど、最終作が駄作という例はたくさんある。レザレクションで、どのように盛り返してくるのかというのが気になるところだ。

本作ではコンピューターと人類の最後の戦いが描かれる。
前作までに築き上げた、コンピューターと人間という構図のおもしろさは、愛と勇気というテーマを訴え続けるだけのメロドラマにすり替わっていた。
思うに、第一作で、スミスに殺されたネオを、トリニティのキスが救う、というあたりが失敗の発端だったと思う。「愛がすべてを救う」というメッセージを入れてはいけなかったのだ。

カメラワークも冴えがなくなっている。人物のアップが多用され、思わせぶりなセリフを語るばかり。ウォシャウスキー兄弟はパート3を作りたくなかったのではないか、とも思う。ちなみに、預言者役の俳優がチェンジしていて、前任者ほどの説得力がなくなっていたのも残念なところだ。

とにかく、ネオはトリニティとともにマシン・シティに出かける。そんなものがあったのは知らなかったが。とにかく機械の街だ。到着したときに、事故があって、トリニティは死ぬ。

ネオはコンピュータの支配者に会い、戦いを終わらせるための交渉をする。戦いを終わらせ、平和をもたらすかわりにスミスを倒すというのだ。「お前が失敗したらどうするんだ」とコンピュータに聞かれて、ネオは「失敗するわけがないさ」と自信たっぷりに答える。
いざ戦ってみるとスミスは強くて、ネオはこてんぱんにやられてしまう。しかし、何度やられても立ち上がるネオに、スミスはおそれを感じる。それでもスミスはネオを倒す。そして、「すべてのものにははじまりと終わりがあるのだ、ネオ」という。
自分の言葉に驚くスミス。「ミスターアンダーソン」ではなく「ネオ」。それはリアルな世界における呼び名だ。スミスは、「マトリックス」ではなく現実の世界に出てしまったのだ。プログラムのバグでしかなかったスミスは、崩壊する。
物語の前半で現実世界に出てきたスミスだが、その時は実在の人間に乗り移っていた。スミス自身としてリアルな世界に出ると、それは実体のないバグでしかないので、存在できないのだろう。疑問なのは、スミスはなぜ「マトリックス」でネオと戦っていて、「リアル」に移行してしまったのだろう。そして、リアルに移行したのなら、そのときネオの体はマシンシティにあったままなのはなぜか。スミスの目の前にいるネオは、両目がつぶれた姿ではなく、マトリックスにおけるネオの姿だった。このあたりのルールがよくわからない。

スミスは最後までよかった。どんどんパワーアップしていくのだが、ネオはそれ以上に強くなってしまう。間抜けキャラになりそうなところだが、ヒューゴ・ウィーヴィングは、そういう失敗を犯さなかった。常に自らを信じ、戦い続けるスミスは、バグとしての存在であり、一種の狂気をはらんでいる。ヒューゴ・ウィーヴィングはそういった存在を絶妙な匙加減で演じていた。キャリー=アン・モスが、いつの間にか、キアヌ・リーヴスといちゃいちゃするだけの存在になっていたのと、えらい違いである。

なぜこんなことになってしまったのか、という想いばかりが募る本作だった。

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