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生きている私たちの声を聞こう~中島岳志に反論する~

 先日書いた記事でも言ったように私は政局に口を出すことは好きじゃない。だから中島岳志氏が「保守と立憲」を著し、立憲フェスで講演した後に…

 彼がれいわ新選組支持に転じた時にはそっとtwitterの彼のアカウントをブロックして二度と見なかった。彼の言い分で言えば、「保守と立憲」で私の中の彼は死んで、そこまでの彼(死者)との対話が続いているのかもしれない。

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 でも、中島岳志氏は生きている。そして、私たちも立憲民主党も。

 2020.06.03、野党共闘の統一候補として宇都宮けんじ氏を共産が推薦を決め、それに呼応して立憲民主党も独自候補の擁立を見送り宇都宮氏の支援を決めた。

Q:話題が変わりますが、都知事選について、先日都連の常任幹事会で宇都宮さんの応援を決めていますが、代表として都知事選にどのように関わっていくか?
 昨日の(党の)執行役員会で、都連の方の決定や経緯、その他の報告を受け、都連の判断に基づいて、党としてもできるだけのことはしようと全員一致で確認をしたところであります。
 具体的な応援の仕方、支援のあり方は、候補予定者本人やその周辺の皆さん、あるいは他の応援をする政党の皆さんと、都連中心に相談をしていただきながら、相談をわれわれの方もして、いただくご要望に応えて、できる最大限のことをしていきたいと思ってます。

 ここからは私が捉えているここまでの経緯だ。

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 おそらく都知事選は野党統一候補として国民民主の一部から山本太郎が待望され、その声に推されて立憲も打診していたのだと思う。野党4党一会派の統一候補としては希望の党の経緯もあり、共産系の宇都宮氏では国民民主の一部が首を縦に振れなかった。落としどころとして山本太郎(国民民主に合流した自由党の元共同党首であり、小沢一郎氏が国民民主に在籍している)だったのだろう。

 しかし、コロナ禍における政府対応のまずさから首長である現職小池百合子氏の支持率が上がり、野党4党1会派の調査で統一候補を立てても勝ち目がないことがはっきりとした。そこで統一候補を立てること自体を断念の方向性となっていたところへ…

 宇都宮けんじ氏が立候補の表明をした。これは共産党にももちろん立国社の合同会派にも知らされていなかったことである。それにはこんな背景もあったらしい。

 二元代表制の自治体議会については首長の候補は建前上でも議会の一勢力に加担しないスタンスを見せるために離党するのが暗黙の了解である。大阪の維新首長も一応は大阪維新の会という地方政党からの立候補で国政政党の日本維新の会ではない。

 そこを国政政党であるれいわ新選組の公認にこだわり(だから小沢一郎氏に叱られていた?)、その上で野党に様々な条件を居丈高に迫る状態ではまとまる話もまとまらなかったのだろう。コロナ禍で状況が変わって、これ幸いに国民民主からも候補擁立断念の方向に向かったのは、山本太郎のこれまでの振る舞い(山本太郎自身によって立憲の支持者は名指しで誹謗中傷されていた)によって支持者の大反発も予想された立憲執行部も大義名分が立ってほっとしていたのかもしれない。

 ところが宇都宮健児氏が共産党にも相談なしに立候補表明。それには同じく各党への根回しもなく宇都宮健児氏に直接交渉を行った山本太郎氏の勇み足が宇都宮氏の焦りを誘った作戦の失敗なのだろう。表明してしまったからには共産党は無碍にもできずに推薦し、共産党は共闘野党に頭を下げることになる。共闘野党に頭を下げられれば立憲は協力せざるを得ない。

 国民民主は希望の党系と旧民進系の流れで内部に亀裂を抱えながら、それでも最大限の妥協の産物として共闘野党を説得して山本太郎に統一し、しかし、政局の状況と彼自身の資質で統一候補擁立はかなわないと自ら幕引きまでした。その状態での宇都宮氏では面子を丸潰しされたような状態だろう。しかもそれが山本太郎氏のスタンドプレーが原因とあっては全方面に気を遣いながら交渉にあたっていた人たちの徒労感を考えただけでも本当に気の毒だ。自主投票に決めたのは賢明な判断だったと関わった国民民主党の皆様には感謝の気持ちしかない。

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 政局には与しないつもりだったので、何が起こっても静観の予定だった。私らは関西だしね。ここまでの経緯も容易に推察した上で黙っていた。山本太郎が統一候補になっても黙っている予定だった。宇都宮けんじ氏についても周りの支持者からの立憲バッシングもあったので立憲の支持者にとってはあまり好意的な候補者ではないが、応援する。何故か?共闘野党の各交渉担当者は戦う場所、戦う相手を間違えていないからだ。

 が、何だこれは…

 このプロレスのような場外乱闘に振り回されるのは正直、気持ちがどんどん萎えていく。闘う相手を間違えている2人とそれにまとわりつくやたらと攻撃的な人たちは、私が立憲民主党支持を決めるまでの20年以上無党派だった原因でもある。

 そもそも私たちは戦う相手は新自由主義的自己責任論政治だと思うのだが、彼らは何と闘っているのだろう?と、言うわけで冒頭に挙げた中島岳志氏のハフポストの記事を見て

「はぁ?何が【闘技的デモクラシー】や?」

と、思った次第なのである。

政治に「闘う空間」がなくなった?
民主主義の危機において、「ポスト(次世代の仕組み)」は何かと考えたとき、出てきたのが「闘技デモクラシー」や「熟議デモクラシー」などの構想です。
前者は、ベルギー生まれの政治学者シャンタル ムフが代表的論者です。少数者が決める政治には「闘う空間」が失われたと考え、この時代において敢えて「対立すること」の大切さを説きます。
「敵対」という意味ではなく、苦しんでいる人の声に耳を傾けて、大衆の情念を突き動かして、社会的な争点を明確にすることを是とする考えです。
後者の「熟議デモクラシー」は、それぞれの有権者が、話し合いを通じてお互いの要求を吟味することで合意形成を図る考え方です。タウンミーティングを繰り返す世田谷区の保坂展人区長の考えが近いですね。

 いやいや、死者の声を聞いて情念で突き動かされて四方八方攻撃的に動いていたら、闘技デモクラシーって貞子やん。

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 冗談さておいても、私たちにとっては山本太郎氏を推す人々は正直、貞子に近いものはある。中島氏によれば対立によって社会的争点を明らかにするとのことだが、どうもそれは絶対的な善がありそれ以外は悪であったり、絶対的な悪がありそれに対立すれば善だとか…詰まるところは二項対立を作り出して【敵と味方】と物事を単純化するきらいがある。

 そして、死者の声、つまりはその時の周囲の環境などを含む時間の関数を考慮しない(要は人の話を聞かない)、絶対的な善と悪の対立は、それが何を生むのかと言えば正義感の暴走と最近よく言われる事象だ。

いや、正義感などではない。

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 行き過ぎた「正義の鉄槌」のような行動をしている人を「正義感の暴走」と表現する人がいるし、私もそのように表現していた。しかし、そこに「正義」なんて微塵もないのに「正義感」という言葉を用いてることに違和感を覚える。「正義感の暴走」という表現は、その人は本来正義を持っていて、それが暴走したという意味に見えてしまう。
 それよりもむしろ、「偏見の暴走」や「幼稚さの暴走」と言ったほうが正しい。本来の正義とは、中立の立場で、酌量の余地も考慮しながら罰や解決への道を出す存在だ。しかし、彼らの正義は、片方の立場にしか立っていない。しかも、その人が同情できる立場にしか。
そして、人間は一度、どちらかの味方についた瞬間から、その人を過剰に擁護するようになってしまう心理的バイアスを持っている。それが、「内集団バイアス」だ。
 「内集団バイアス」とは、同情できる人に対してや、同じ価値観を持つ集団、同じチームを応援する人、家族、職場仲間など同じ集団に属する人に対して好意的になったり、優遇するようになるものだ。
 例えば、応援しているチームが試合中に微妙なルール違反をしても無視できるが、対戦相手にはルール違反に対して過剰に厳しくなる。
 さらに、片方に味方したあとに、自分の行動が間違っていたとしても、「確証バイアス」という自分に都合の悪い情報を無視するようなバイアスも働く。

 死者の声を聞く中島氏は新たな死者を生む危険性を孕んだ【闘技デモクラシー】なるものを煽る。しかもその闘技デモクラシーなるものは「自分たち以外皆敵」と言わんばかりである。山本太郎自身も立憲民主党をありもしない「与党とテーブルの下で手を握っている」などと言うデマを飛ばし、立憲民主党の支持者を名指しで立憲カルトと呼び、その正義の御旗のもとでどれだけ言論の暴力が行われてきたのか私は中島岳志氏自身にも訴えたことがある。

 しかし、それを彼は無視する。彼自身が自分の名付けた闘技デモクラシーなるものの正義の名の元、内集団バイアスで暴走しているのだ。

立憲民主党が「支持を拡大できない理由」
こうした潮流を考えたうえで、自民党の対抗軸と位置づけられる立憲民主党を見てみましょう。
まず代表の枝野幸男氏は「エリートっぽさ」が抜けず、闘技デモクラシーを盛り上げるための「大衆の情念」を掴めるとは思えません。
また、立憲民主は、ふつうの市民が政策議論に関われる「立憲パートナーズ」を立ち上げ、熟議デモクラシーを目指してきましたが、国民民主党との連携のゴタゴタなど、随所で「永田町っぽさ」が露わになります。
民衆からすると「自分たちから遠い政治」をやっている集団に見えてしまいます。

 …。見事な内集団バイアス

 平易な言葉で言えば、

「大衆(俺)は喧嘩がしたいのに小賢しく話し合いで矛を収めようとする立憲民主党は邪魔だ」

ということなのだろう。

 文中、エリートと評される立憲民主党の証座としての国民民主党との連携も、内集団バイアスに囚われずに見ていれば決して永田町の論理などではなく真意は分かるはずなのだが、東工大教授で私よりも遥かにエリートであるはずの中島岳志氏がわざとそれを無視する。

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 選挙を目前とした国民の1年生、中堅議員たちは浮足立ち、立憲との合流話が持ち上がった。立憲の結党時にもその話はあったが、また当時のその論者が「党名を変えろ」「党首を変えろ」と騒ぎ始めた。だから立憲の執行部は「理念と政策、そして党名と党首を変えなければ合流もありです」と先手を打ったのだ。一部に強硬にそれを反対する向きがあり、玉木氏はその声を聞かざるを得なくなることを見越しての話。

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 この程度の腹芸なら一般社会では普通の話だ。むしろ、こんな腹芸をせずに社会で生きている人などどこを向いたらいるのだろうか?私も会社の営業でこの30年間ずっとオブラートに包んだ丁々発止を繰り返している。

 つまり、彼の言う民衆とは誰なのだと思ってしまうのだ。

 他にツッコミどころはもう満載過ぎて言葉を失う。ので、このくらいで辞めておく。ただ死者にならなければ話もできないイタコ芸はそろそろ辞めて、現実の生きている人間と向き合う術を身に着けて欲しいものである。




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