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true end



晴れた日の庭にやってくるにゃんと、王子さまと、姉と過ごした特別な夏。イベントの終わりにすぐそばからいなくなってしまったふたりのお友だちを想いながら、わたしはどうしたって頭の隅に暗く居座っている、何年も前の夏を思い出していました。


姉に聞かれて、星の王子さまの物語のことをトゥルーエンド、正しい終わり方だと説明しました。「受け入れがたかったけれど、たぶんあれが正しいんだろうと思う」と。
きっとこの表現は、大人しかしないのでしょう。


悲しい終わりは辛いからハッピーエンドじゃなきゃ嫌だって、泣いて拒んで読まなくたってよくて、「こんなに悲しいなら正しくなんてないよ!」って、きっと小さな子どもは言えるのだろうけれど。
悲しくてもこれが正しいからと受け入れるしかなくて、でも悲しいことにいつまで経っても慣れはしないから、受け止めきれなくて傷ついたり泣いてしまったりする。子どもでいられなかった大人たちは、へんてこかもしれないけど、かわいそうで、愛おしく感じます。


だと言うのに悲しみを積んだって完璧にはなれなくて、わたしはあの夏の日から絶望ばかりを経験することになりました。駄目なわたしは何度でも駄目になりました。

それでも、

何年もたって、遠い世界のきれいなひとが、「それを許す」といって駄目な自分の頭を撫でてくれたりすることだって、この世界では起きるのです。



「悲しい物語」は、きっとそういう優しさを知るためにあるのかもしれないと思い始めました。耐え難い苦しみ悲しみがいくつも人生の上に転がっていたけれど、張り裂けそうな胸の内で誰かの優しさがことさらきらめいて自分の深くに染み込んでいくとき、「ああ、これで良かったんだな」と思えたとしたら、
自分の内側の「悲しい物語」は、やっと「正しい物語」になるような気がします。それを、わたしは今年の夏の終わりに知りました。



へんてこで愛おしい大人たちはきっと、時間をかけてひとつひとつ、哀しみからちゃんと正されていくのだと思います。わたしのような者にも、弱さを許してくださる方が現れるのですから。


だからやっぱり、星の王子さまが「正しい終わり」になるときが、どの大人にもきっとくるのでしょう。



✧✧✧


なんて書けるほどには、色々あった夏からやっと立ち上がれたのでした。わたしも、悲しい物語を正してもらえたからです。


悲しみから立ち上がろうとするとき、どうしたって自分を許すという難関が立ちはだかります。その最後の難関を越えるのに、わたしは何年もかかってしまいました。


あの夏からどれだけ時間が経ったって自分で自分を許せないから、誰かに叱ってほしくて、はじめて告解をかきました。でもやっぱり後悔して、恥ずかしくて情けなくてすぐに下書きへ戻して、自分を許せない理由をまた増やしてしまったと落ち込んでいたのです。


私の罪を読んだ上で「あなたを許す」と、言ってくださった言葉に、わたしが感じた気持ちを表すためにはきっとまた何年もかかるでしょう。巻き込んでごめんなさい、不快にさせたならごめんなさい、思い出させてごめんなさい、謝る理由が山程あったけれど、今は一番に、感謝したいです。何度でも私の崩れた精神の欠片をつなぎとめてくださったこと。この夏のおわりを、わたしは忘れないでしょう。

よい季節でしたね。たくさんの別れがあって、その別れのうちの1つに、「何年も許せなかった自分」がいました。
あの夏の日の自分を許すことはきっとこの先一生ありません。それでも、笑えるようになった自分のことは、許してあげたいと思わせてくれた、季節でした。
特別な夏が終わって、いま、姉も私も、穏やかな秋を幸せに過ごせています。


今日も生きているなあ。幸せだなあ。
あなたの明日も、そのまた明日もずっとずっと先も、穏やかにいのちと暮らしを見つめられる日々でありますように。
悲しくとも、ちゃんと正される毎日でありますように。


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