六年前(自死遺族の手記)

自分自身に対するひとつの区切り、あるいはある種の決別として、あの日のことを記しておく。

六年前

振動する二つ折りの携帯電話。父からの着信を知らせる画面。実家を離れて一人暮らしを始めて以降、母から何気ない電話がかかってくることはそれなりにあったが、父から電話がかかってくることなど、ほとんど初めてだった。だから、とてつもなく嫌な予感がした。

通話ボタンを押すと、「おかあさんがくびつっちゃった」と、父の悲痛な声が耳に飛び込む。その声はつづけて「なるべく早く帰ってきてくれるか」と告げた。父の背後で、二人ぐらい、男性が何やら話しているのが聞こえる。警察とか救急とか、そういう人たちだったのだろうか。

一月半ば、寒い冬の夜だった。

知らせを受けたのは、新しいアルバイト先であるリサイクルショップでの勤務初日を終え、帰宅した直後だった。「すぐ帰る」と電話を切り、脱いだばかりのコートを再び着て、家を飛び出す。泊まりがけになるとは失念する程度に混乱はしていたが、戸締まりを確認できる程度の冷静さはあった。

実家に向かう道では、自分が映画のスクリーンの中にいるかのように思えてならなかった。

人のいない夜道を走る自分は孤独な悲劇のヒロインだったし、新幹線に飛び乗って車窓を見つめる自分は物語の佳境にいる登場人物だった。新幹線を降りてタクシーに乗ったときには、「なるべく急いでください」とか言ったほうがそれっぽいのかな、などと考えてもいた。

そんな、妙に冷静な自分がいる現実にショックを覚える。ははがくびをつったのに、私は悲しくないのか?なぜ、涙の一滴も流れてこないのか?「父は『今すぐ病院に来い』ではなく、『なるべく早く実家に帰ってこい』と言った。つまり、母はもう確実にやり遂げたのだろう」と推論できる自分が、怖かった。

一方で、新幹線に乗っていた三十分のあいだ、こういうことであっても包み隠さず話せる友人にLINEをした。「ははがくびをつったらしい」と。友人は私の気が紛れればと付き合ってくれた。他者に甘えるのが極度に苦手な私が、迷わず友人に甘えていた。独りでは抱えきれない、と本能が告げていた。

妙な冷静さはきっと、「現実を現実として受け止めきれていない証拠」であって、「心の一時的な防御反応」だったのだろう。「これは現実ではない」と否認しなければ、一瞬で心は壊れ、私も死んでしまう。ははのくびつりは、自分の存在の根幹すら揺るがすような、衝撃そのものだった。

駅で引き出したありったけの現金からタクシーの運転手さんに料金を払って、実家の扉を開ける。静寂に包まれた実家には父と母だけ。

母は、両親が寝室として使っていた畳の部屋に寝かされていた。目は閉じられている。苦悶の表情ではないが、決して穏やかとは言えない、何とも表現しがたい表情。

父は家の中を右往左往しながら、「全部任せきりだったから大事な書類がどこにあるのかわからない」と焦った声であれこれ言いながら、混乱している。

当時の私は、「今そんなことが一番大事なのか」とほんのり怒りを抱いた。だが、葬儀の手はず、役所に書類を提出、保険会社に連絡――家族の死後に待ち受ける、遺された家族がやるべき仕事はあまりに多い。だから今はこう思う。こういう仕事を為さねばならない一家の長としての責務が、父の精神をかろうじて保っていたのだ、と。

顎が隠れる程度に被せられていた掛ふとんをめくる。首をぐるっと一周囲む青い痣。「刑事ドラマでよく見るやつだ」と思った。その首に触れると、驚くほどに冷たかった。その冷たさは、今目の前に横たわる母が「母」ではなく、「人間」でもなく、もはやただの「物質」であることを強く主張していた。体温のない肉体の、蝋みたいな手触り。しかし、それをもってしても、まだ目の前の現実が現実として受け止められることはなかった。

涙を無理やり流した。父の前だったから。ここで泣いておかないと、父に「なぜ涙を流さないのか」となじられるような気がして、演技をした。私の中には父への反抗心がまだあって、距離感がとても難しくて――そういう、よくある父と娘のうまくいかない感じがあった。だから、母がこんなことになってもなお、父に本当の自分をさらけ出すことはなかった。

混乱が尾を引く実家で見た光景は、母が体をうずめていた痕跡を残すようにぽっかりと口を開けたこたつ布団と、こたつの天板上に散乱した数種類の精神薬。

父は「無理にでも入院させればよかった」と後悔を口にする。私は心の中で反論する。母は、薬を飲まなければ普通に生きていけない自分に苦しんでいたのだから、入院なんてさせたらもっと苦しんだに決まっている、と。

母は長らくうつを患っていた。私も高校生の頃から精神的な問題が顕著になり、母と同じ精神科医に診てもらっていた。だから、すべてとは言えないが、そういう互いの悩みを吐露し合うことがあった。

私の中には怒りが生まれる。母が自死したのは、父がうつに無理解だったせいだ。母が他者との交流を絶ち始め、食欲を失ってどんどんやせ細っていくのを一番近くで見ていたくせに、お前が何もできなかったせいだ。

同時に、私は私を責める。なぜ、自殺徴候に気づけなかったのか。自らもうつというものに苦しみ、少しは理解があったはずなのに。なんなら、私は数年前に母よりも先に自死を企図したこともあって。救えたとすれば、それは私だったんじゃないのか?いや、むしろ。あの日私が自殺企図なんてしなければ、母の中に自死という選択肢はそもそも生まれなかったんじゃないか?

この日の夕方、私は新しいバイト先の休憩中に母へメールを送っていた。「不安だけどがんばるよ」と。そのメールに返信が来ることはついぞなかった。その後、母はこのメールを送った頃にはすでに死んでいたと知った。たとえばメールを送るのが夕方ではなく朝だったら、母は私を「死なない理由」として認識してくれたんじゃないか?

その日は、大吹雪になった。
父はこれを「母の未練」と表現した。

叔父と、母の学生時代からの友人が一人、駆けつけてくれた。叔父は通夜に必要なものを持ってきてくれたし、母の友人は「何か食べたほうがいいよ」と軽く食べられるサンドイッチなどを買ってきてくれた。

母にはもうひとり学生時代からの友人がいたのだが、その人は結局、通夜も葬儀もその後も、母の弔問に訪れることはなかった。

でも、一人は猛吹雪の中にも関わらず車を走らせ、来てくれた。きっとこの人が母の”親友”なのだろう。そんな人が一人いた、それはとても幸せなことだと思うし、それだけで母が生きた意味はあったのだと思う。

父はこたつの中で私に言った。「かわいそうだから突然の心臓発作ということにしよう」。父は家の中をひっくり返してスカーフを見つけてきて言った。「かわいそうだから、首の痣はこれで隠してあげよう」。

かわいそう?
ふざけるな。
そういう目が何より母を苦しめたんじゃないか。
母はただ、普通に生きたかったんだよ。

新しいバイト先に電話をかける。「母が亡くなったので、しばらく休みます」。勤務初日直後にこんなことを言い出す人間を、あなたは信じられるだろうか。バックレる理由を家族の死という卑怯な嘘に託したんだと思うんじゃないだろうか。

どうせ信じてもらえないんだ、と落ち込む。後日、そのバイトは辞めた。

父は顔が広く、人望が厚い。限られた人にしか母の死を報告していないにも関わらず、どこから聞きつけたのか、通夜や葬儀には父の関係者がたくさん訪れた。それが私はとても嫌だった。

本当の意味で母の死を悼んでくれる人はこのうち何人だろう。

父に声をかける人はたくさんいるのに、私に声をかける人はいない。

「棺の中に故人が大切にしていたものを入れて構いませんよ」と言われた。通夜の最後、母が好きだった小説『赤毛のアン』と、よく着ていたデニムシャツを入れた。だけど、ずっとかけていた眼鏡は、燃えないからと入れさせてくれなかった。母は目が悪い。眼鏡がなきゃ、『赤毛のアン』も読めないのに。

葬儀後の食事の時間に、父が参列者へスピーチをした。そこで初めて父は泣いた。父の涙を見たのはこれが三回目か。一回目は、母方の祖父が死んで母の兄と遺産相続に関して揉めたとき。二回目は、父方の祖母が死んだとき。

そういえば母の兄は、まるで他人みたいな顔でこの葬儀に参列している。

お前だって、母が自死を選んだ原因のひとつだ。私が公務員になろうとしていた頃、母は「兄の素行がちーちゃんの進路に影響するかも」と心配していたんだぞ。母がお前のためにどれほど頭を抱え、涙を流してきたか、お前はどうせ知らないんだろう?

許さない。

こいつの微妙な表情と白髪まじりの頭は思い出せるのに、棺に入れられた母の顔はよく思い出せない。

火葬が終わり、私は母の遺影を抱え、父は骨壷を抱える。そのとき父は「お母さん、こんなに小さくなっちゃったね」と言った。

私は泣いた。
母は死んだのだ。
母は、首を吊って自ら死んだのだ。
私はもう二度と母に会えないのだ。
私は母の死なない理由になれなかったのだ。

儀礼的なものがすべて終わり、一息つく。

すると私は気づいてしまった。自分の中に妙な安心感がある。それまでぼんやりと抱えつづけてきた自死念慮が消えていて、まるで翼を得たかのような軽やかさの芽生えを感じる。これはなんだ。母が死んでとても悲しいのに、一方でなぜ生きていこうとする力が湧いているのだ。意味がわからない。

母の体調に気を揉む必要がなくなったからだろうか。うつを抱えた母から何かしらの影響を受けていたのがなくなったからだろうか。それとも、父を愛していた母に気を遣い、父を遠ざけるような行為に罪悪感を抱く必要がなくなったからだろうか。無意識に刷り込んでいた「母のためにがんばらなきゃ」なんて使命感から解放されたからだろうか。

全部、かもしれない。

六年後

母が死んで、私は生きやすくなってしまった。その理由が知りたくて、すべては始まり、今まで歩んできた。一人暮らしに戻ることを選び、noteを書いたり、写真を撮ったり、誰にも言わず一人旅をしたり、新しいバイトに打ち込んだり、ライブに行ったり――孤立した自分を社会に再接続し、破壊された自己の根幹を再構築する作業に日々を費やした。

結果としてこれは良かったのだと思う。たとえば父と一緒に暮らし続けていたら、たぶん「母が死んだのはお前のせいだ」と激しく父をなじり、家族関係は完全に破綻していただろうから。「家族」という、良くも悪くも人間の思想の根っこを強固に作りあげる環境から距離を置くことで、たくさんの知識や価値観に触れ、自分のペースでこの大きすぎる喪失と向き合えた。

自分の中にある感情を見つめ、良い意味での諦めを手に入れた。表現という手段によっていくばくかのアイデンティティを手に入れた。新しい仕事によって社会の中で役立てる自分を再確認し、新しい人間関係の中で他者の観察を繰り返して学びを得た。母のルーツを辿る旅をして、何か浄化されたようなきもちになれた。何かを思い切り楽しむことで生きている実感を得る、そんな自分を許せるようになってきた。

母はいろいろな事情が複雑にもつれ合った結果、悩みに対する解決策が死しかないと思い込んでしまったのだ。そこにいたるまでの過程も、理由も、どれだけ悩んだところで私たちには絶対に解明できないし、母は私の無力によって死んだのでもなければ、父やほかの誰かのせいで死んだわけでもない。

母は死んでしまったが、私は生きている。
私は、生きたいように生きていいし、幸せに生きていい。

親のいない自分の人生はどんなものになるのか?親の死によって人生にあいた穴を何が埋めてくれるのか?親なしで自分はどう生きていくのか?こうしたことを考えられたなら、立ち直りと回復が始まっているということです。

自殺で遺された人たちのサポートガイド―苦しみを分かち合う癒やしの方法―
アン・スモーリン、ジョン・ガイナン著

母との想い出を懐かしみ、眠れなくなる夜がいまだにある。「なぜ私を置いて死んだのだ」と母に対する怒りが湧きあがる日もいまだにある。「母の死なない理由になれなかった」という思いは、今も私の未来展望に影を落とし、「どうせなにやっても無駄」という無意識として息を吹き返すこともある。

それでも、これらの頻度はかなり少なくなってきたし、それよりも「どう生きていこうか」と考えるほうが多くなった。かなり時間がかかっているし、まだ完全な回復とは言えないだろうが――私はまちがいなく、前進している。


母の分まで生きようなどとは思わない。
私は、私の人生を生きるだけだ。



良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。