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出逢いの名前は

もしも、パソコンに向かってTwitterの利用登録をしている十年前の私に会えたとしたら。「君は将来、そのTwitterで出逢ったとあるフォロワーの結婚披露宴に参列し、信じられないぐらい泣いているぞ」と教えてみようか。そうしたら過去の私は一体、どんな表情を見せるのだろう。


ちゃんと結婚式に参列するのは、これが初めてだった。小学生の頃、親に連れられて学校を休んで行った結婚式はあるが、いわば「父親のバーター」にすぎず、「パンおいしい!!!!!」と思った記憶しかない。

ご祝儀を包む。「へぇ、下から折り上げるほうを上にするんだ」。ドレスをレンタルする。「白は花嫁の色だから避ける…と」。テーブルマナーを調べる。「ナイフとフォークは外側から、これだけは知っている」。ほとんど大人になれていない自分にちょっと辟易しながら、一ヶ月ぐらいかけてゆっくり準備をした。

そして当日。久々にまともな化粧をして、初めてのドレスに身を包み、前泊したホテルを出る。冬の朝。爽やかな空気。澄み渡った青空。ただの参列客ながら、心臓が爆発するんじゃないかと思うほどの緊張。理由は自分ですらよくわからない。

式場のエントランスには、新郎新婦両人が今まで撮ってきた写真がたくさん飾られていた。写真は二人の共通の趣味なのだ。その写真たちを見て、「あぁ〜、ホント、お互いにお互いをちゃんと愛しているなぁ」と思う。写真には被写体とカメラマンの心的距離感が露骨に出る、と私は考えている。旦那さんが撮った彼女の写真はもれなく可愛かったし、彼女が撮った旦那さんももれなく素敵だった。つまりすべて愛だった。

ホント、いろいろあったよな。「相手も写真好き?!じゃあそれを口実にデート誘っちゃいなよ?!」みたいな、さ。「いやもうそれは脈アリだから大丈夫!行け!!!!!」とか、さ。彼女の片想い時代から知っている分、軽率に涙腺が緩む。

そんな状況で共通の推しであるコブクロをBGMにされたらさ、無理に決まっているわけで。

「『シルエット』?!?!むり!!!!!」

私のほかに二人、新婦友人として列席したコブクロオタクがいたのだが、コブクロの歌が流れるたびに三人でボロボロ泣いた。しかも三人とも重度のオタクだから、サビまで行かずともイントロだけで過剰反応してしまう。オタク特有の挙動不審。マスクはびちゃびちゃ、化粧は序盤で消失。世にも奇妙なイントロドン。この結婚披露宴は、もはやコブクロのライブだった。しかも“神セトリ”の。

美しいウェディングドレス姿。純白のベールを上げる瞬間。青空を舞うブーケ。友人の感動的な乾杯の挨拶。旦那さんのお父さんがカメラの前で作ってみせた指ハート。彼女のお父さんが読んだ両親からの手紙。40本の真っ赤なバラの花束。笑いあう二人。

結婚式後に届いた手紙とセットリストを読む。大切なアルバムをめくるような気持ちで、あの日を思い出しながら。


もしも、パソコンに向かってTwitterの利用登録をしている十年前の私に会えたとしたら。「君は将来、そのTwitterで出逢ったとあるフォロワーの結婚披露宴に参列し、信じられないぐらい泣いているぞ」と教えてみようか。

そうしたら過去の私は、眉をひそめてこう言うだろう。「友達のために泣けるような人間になれているなんて、嘘に決まっている。」


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最近『「繊細さん」の本』を読んだ。“繊細さん”とは、HSP(とても敏感な人)のことだ。五感を震わす僅かな刺激にも強く反応を示す。良く言えば感受性豊か、悪く言えば神経質…といったところか。私もこの“繊細さん”のひとりだ。

この本の中には、“繊細さんは同じ繊細さん仲間を見つけると生きるのがラクになりますよ”と書いてある。世の五人に一人は“繊細さん”らしいが、それでも少数派には違いないし、よって社会ではこの気質を隠しながら生きている人が多い。じゃあどうやって仲間を見つけるのか?――本書が提示している答えは「SNSの利用」だ。

正しかったんだな、と思う。

学校には、将来とか哲学的な問題とか、深い話ができるような友達がいなかった。その証拠に、今でも個人的に連絡を取り合うような学生時代の友達が一人もいない。

でも、彼女は。私たちはTwitterで出逢い、スタートはただの「コブクロのファン同士」。それがコブクロ関係なく会うようになった。私は今まで何度もTwitterのアカウントを黙って削除して急に消えたりしているけれど、結局戻ってきて、また彼女たちと出逢い直した。そしてお互い大人になって、恋愛とか死生観とか、人間の根幹に触れるような話をするまでになった。

私たちは信じられないほど似ている。まぎれもない仲間だ。

彼女と初めて顔を合わせたのは、埼京線が乗り入れる池袋駅のホーム。それは私にとって、初めてSNSで繋がった人とリアルで繋がった瞬間。目印は、人混みの中でひときわ目を引くヘッドホンの赤。

不思議だなぁと思う。何につけても腰が重い内向的なこの私が、よくそんなことをやったものだ。いくら記憶と思考を混ぜ合わせてこねてじっくり焼いてみても、あの日その勇気が生まれた理由がわからない。

SNSがなければ99.99%交錯することのなかった人生。出身地も育った環境も辿ってきた道も生活圏も一切被っていない私たちが、リアルな世界で出逢えたこと。それは直感由来の導きだったのか、はたまた奇跡だったのか。

そこで思い出す。私たちが敬愛するコブクロは歌う。”奇跡は起こるものじゃない 起こすものなんだ”、と。


つまり何が言いたいかといえば、「私にとってあなたは『光』である」ということだ。


あなたとともに過ごした時間は、決して多いわけじゃない。Twitterでは毎日のように会うけれど、実際に会うのは一年ぶりだね、なんてことはザラだ。会っても私は大してしゃべらない。自分から何かを話し出すのがあまりに苦手で、饒舌でいられるのは画面上だけ。

それでもあなたは、別れ際に「楽しかった、また会おう」と言ってくれる。

わからないなぁ。しゃべらなくてしゃべれなくて、疎遠になった「かつて友人だった人たち」を並べながら。私は独りでいられるならそれで満足してしまうから、誘われないと動かないし。コミュニケーションという観点から見れば、私はあまりにもダメダメなんだ。

それでもあなたは、「そっちに旅行行くから、そのとき会おうね」と約束してくれる。

ある夜、私の母が亡くなったと連絡が来た。埼玉から実家のある長野に向かう北陸新幹線の中、私は耐えられず、あなたにLINEをした。一月の冷たく刺してくる空気、ガラガラの新幹線。いつにもまして真っ暗にみえる車窓の黒に怯えていた。そんな中、あなたは話を聞いてくれた。

母の死を受け入れられない私、そもそも母の死を現実として認識しきれていない私。思考の混線のなか、ただ画面越しに言葉をやりとりした、それがただ光としてそこに在った。あなたはともに在ってくれた。あなたは私の“ほどけた靴紐”を結んでくれた。

それがどれほど救いだっただろうか?

私は、「誰かを想って行動する」ということを、今もあなたから学び続けている。


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ホントさ、良かったよ。ホントに、良かった。

どうかあなたと旦那さん、二人に降りそそぐ幸せができるだけ多く、それでいて悲しみはできるだけ少なく。その素敵な笑顔が、少しでも長く同じ空の下に咲きつづけられますように。お互いがお互いにとって希望でありつづけますように。お互いが相手の“ほどけた靴紐”にいち早く気づいて、すぐに結び直せる、そんな関係がずっとずっと続きますように。

改めて二人の門出を祝して。
結婚おめでとう!


P.S
いつも私が撮る写真を「好き」と言ってくれてありがとう。やっぱり、これからも写真をがんばっていこうと思う。私もあなたが撮る写真が好きです。二人で写真展、いつか絶対やろうな。



良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。