四 新世界

 ボクは目覚めた。固いフローリングの上でもなく、見慣れた床でも天井でもない。刺すような頭痛がする中で、肘掛けにのせられた自分の腕を見た。気のせいか、まだらのアザが一層くっきりした文様となって手首を覆っている。
 天井には年季の入った小ぶりのシャンデリアが据えられていた。重厚な家具や天蓋のついたベッドもある。しかし、そのどれもが、役割を失った物のような物悲しさを漂わせていた。
 ボクが眠っていたのは丁寧な木彫りの装飾を施した重厚な肘掛け椅子だった。背もたれが頭よりも高く、身を乗り出さなければ周囲の様子は分からない。
 そして、案の定、身を乗り出して心臓が止まる思いがした。部屋の壁にもたれ、腕組みをしてこちらを見ている一人の男がいたからだ。
 男の第一印象は、灰色の狼だった。無造作に肩までのびた灰色の髪。そして、鋭い灰色の目。整った顔立ちであるものの、どこか年齢不詳の荒削りで野性味のある様子は、隙きのない厳しさを感じる。
 灰色の目には見覚えがあった。でも、ボクが見たのは哀しみの目。ファリニスの遺言で見た男と同一人物ならば、彼は何を思ってボクを見ているのだろう。
 落胆。それとも怒り。絶句するしかないのを知っているにもかかわらず、彼は何も発しなかった。ただボクを正視し、感情の読めない沈黙を貫いた。
「あの……」口火を切るしかなかった。
「ここは、ブロジュの言っていた世界ですか……」
 それでも男は何も言わなかった。微動もせず、こっちを見つめたままだ。
「不安なんで教えてください。ブロジュはどこに行ったんですか。エドモスは……」
 と、言ってはみたものの、拠り所にできない。でも、今のボクには彼らの姿がないことが、より恐ろしくてたまらなかった。
「私じゃ不満か」
 男はようやく口を開いた。そして、軽く自嘲するように笑った。
「いや、不満てわけじゃ……ただ……」
 いきなり扉が開いた。待ってましたとばかりに両手を広げて入ってきたのは、ブロジュだった。
「いやいや、目覚めたか!」
 満面の笑みを浮かべて寄ってくるブロジュに安堵した。張り詰めた空気が和み、思わず微笑み返した。
 すると、灰色の男は即座に踵を返し、ブロジュにこう言った。
「悪いが、耐えられない」
 そして、足早に部屋を出て行った。
「耐えられないって……」
 何故かは知らないがとても憤慨した。どういう意味なんだ、と鼻を鳴らすボクを見て、ブロジュは申し訳なさそうに言った。
「困った奴だ。だが、悪くは思わんでくれ。あれでも、おまえの護衛士だからな。名はバージノイド。ファリニスは『バージ』と呼んでおった」
 息が詰まった。バージ。バージノイド。謎が解けた。正体はファリニスの呼びかけ。ボクが夢で見ていたのは、バージノイドに呼びかけるファリニスの声だった。柳瀬に教えてやりたい。これで全てが腑に落ちた。今、彼を一人で行かせてはならない。堪らなくそんな気がして、バージの後を追いかけた。
「バージ!」
 廊下に浮かんだ背中へ向けて叫んだ。すると、彼ははたと立ち止まり、振り返ろうとはしなかった。
 走った。彼が歩き出さないうちに。
「バージノイド……」
 ボクはようやく立ち止まった。これだけは伝えなければという衝動にかられ、闇雲にしゃべった。
「毎晩、夢の中でファリニスの呼びかけを聞いた。バージの意味が分からなくて、本当に苦しくてたまらなかった……でも、あれはあんたを求めて呼びかけていたんだね。彼女にとって、あんたは特別な存在だった。だから、あんたに届いた。ボクの居場所がわかったのもそれが理由なんだろ?」
 胸が一杯だった。今にも泣き出してしまいそうだった。謎が解けた安堵と、やっと会えたのだというファリニスの思いとで、ぐちゃぐちゃになった。
 すると、バージはようやく振り返った。ほんの僅かな微笑を浮かべて。そして、「そうだな、小僧」と言って、見下ろすボクの頭をポンと叩いた。
「小僧って言うな」
 睨み返してやった。確かに彼にとっては小僧だろうけど、永久に同等になれない悔しさもあった。それに対してバージは鼻で笑った。
「私は逃げも隠れもしない。安心してブロジュに屋敷の案内でもしてもらえ」
 太く落ち着いた声が心地良かった。ポツリと佇むボクを残して、彼は何事もなかったように消えた。
「バージノイドは孤児だった」
 背後からブロジュがやってきた。
「それをファリニスが父上に頼んで屋敷に住まわせたのが始まりだった。二人は兄妹のように育ち、友人以上の固い絆で結ばれておった。さあ、屋敷を案内しよう。同士が今か今かと待っている。まだ実感していないだろうが、おまえは真の名を呼ぶ者であり、民の頂点をいく当主だ。皆に希望を与えている存在だということを忘れるな」
「待って、何をすればいいか……」
 重荷だった。彼女の当主としてのプライドを見てしまった今、ファリニスのような人格者になれる訳はないと感じる。それを期待されても困るし、みんなの為に命を投げ出すほどの勇気もない。そんなボクに希望を抱かれても苦しいだけだ。
 言葉にしなくても、ブロジュは理解しているとばかりに付け加えた。
「何もしなくていい。真の名を呼ぶ者が不在の間、民がどんなに不安な日々を送っていたか。今はただ象徴として存在するだけでいい。それで十分、希望を与えられる」
 この時はブロジュの言っている意味が分からなかった。ただ居るだけでいい。何もしなくていい。だけど、それがどんなにボクを苛んでいくか。まるで想像もできなかった。
「まず、この窓を見れば分かるだろうが」廊下に連なる窓に目をやって言った。
「すべての窓に鉄扉が設置してある。おまえが目醒めることで、アンクーの呪縛も解き放たれた。ここを襲撃してくるのは時間の問題だろう。夜は特に危険だ。決して外に出るんじゃないぞ」
「アンクーも似た証を持っていた。それは偶然じゃないんだね」
 ブロジュは髭を撫でた。
「この世に偶然はない。奴は真の名を呼ぶ者の一族の一人。しかし、不完全な証だった為、ファリニスが継承したことを未だに恨んでおる。奴には決して真の名を呼ぶ者の座を渡してはならない。その為にも、おまえが必要なのだ」
「ボクなら一族を滅亡させたままにする」
 ブロジュの目がこぼれ落ちんばかりに開いた。そして、不穏に細められ、鼻から息を吐いた。それでも、ボクは続けた。
「一族の再生を願った彼女の気持ちが分からない。アンクーの呪縛が解けるなら同じことの繰り返しだ。それを引き換えにしても一族を復活させるなんて、そんなに真の名を呼ぶ者の存在は重要?」
「当然だ」老人は愚問とでも言うように頭を振った。
「民は生まれた時に真の名を差し出すのが慣例。それと引き換えに安全が保証される。死後それは解放され、民自身のものとなる。こうして秩序は保たれてきたのだ。支配と解放のバランスが崩れた時にどうなるか。想像もつかない。今は分からなくとも、そのうち分かる時がくる。さあ、日が暮れる前に屋敷を回るぞ」
 城壁に囲まれた屋敷は本棟を中心に東棟と西棟に分かれていた。それぞれがコンコースで繋がれていたが、そこから見える中庭の景色は荒んだものだった。二度と草木が生えないであろう枯れ地は砂漠のようで、昼間でも靄がかっていた。これは、妖霊を支配してはならないという契約を破った、人間への復讐でもあるという。どちらにせよ、ボクが思い描いていた以上に、この世界は複雑で闇に満ちていた。
 途中で屋敷内の住人とすれ違った。彼らは一様に頬を染め、会釈をしては道を開ける。
「屋敷に住まうものを同志という。彼らは一族に仕えることを自ら選択し、故郷を捨てて来た者たちだ。同志となるのは民の誇りであり、誰もがそれを望んでいる」
 羨望の眼差しが照れくさい。どれほど民にとって一族の存在が重要か、ほんの少しだけ分かる気がした。
「東棟では魔術師たちが術を磨きあっている。あの襲撃以来、上位の魔術師が屋敷に集った。最後にわしの一番弟子を紹介しよう。おまえと年の頃も同じだ。きっと分かち合えるものがあるだろう」
 扉の前にはバージが立っていた。本日の終点ともいえる場所をいち早く把握し、ボクたちの到着を待っていた。
「遅いぞ。日が暮れる」
 ブロジュに対してそんな言葉を吐けるのは今のところバージしかいなかった。よほど信頼しているのだろう、ブロジュも分かっているという風に頷いた。
 扉を開けると広大な広間に魔術師達がいた。爪先まで隠れる長いローブと小ぶりの杖で、すぐにそれと分かる。彼らは侃々諤々と術の開発に夢中で、ボクらのことも視界に入っていないようだった。
「ラカンカ!」
 ブロジュの呼びかけで飛び跳ねるように駆け寄ってきたのは、黒く澄んだ目が印象的な青年だった。
「ラカンカと申します。翔平様ですね。お会いできて光栄です!」
 勢いよく片手を差し出し、満面の笑みを向ける。白い歯が光り、圧倒されるボクの手を自ら握ってきた。熱い握手だった。
「翔平殿に『術』というものを教えて差し上げろ。まだ証の操り方を知らぬ」
「はい!光栄です!」
 熱い……。その一方で、この世界にもラカンカのような素朴な青年がいることが嬉しかった。押しの強さは柳瀬に通じる。もしかしたら仲良くなれそうな、そんな気がした。
「よろしくお願いします!」
 規律正しく頭を下げるラカンカ。
「よ、よろしくお願いします……」
 ボクもまた釣られるように会釈した。そこからは、ラカンカの講義が始まった。
「『術』はむやみに唱えるものではありません。力を貸してくれるよう、心からお願いするのです。そして、信じること。これが一番大事です。まずは、ここから始めてみてください」
 そう言うと、いきなり手の平を額につけ、ぶつぶつと何かを唱え始めた。
「ハガル!」そして、天に向けて手を振り上げた。
 不思議なことに小さな竜巻が起きた。アンクーや、エドモスの謎めいた力には及ばなかったが、目の前でこうして見せられるのは新鮮な驚きがあった。
「さあ、翔平様もやってみてください。実践あるのみです!」
 拳を握ってガッツポーズをとるラカンカ。吹き出すボクを見た彼も、安堵したかのように歯を見せた。
「よかった、笑ってくれて。翔平様、とても苦しそうだったから」
 はっとした。そういえば頭痛も消えている。きっとラカンカのお陰だし、そんなに酷い顔をしていたのだと思うと少し恥ずかしかった。
「わかった。やってみるよ」
 ボクに術なんて出せるのだろうか。だけど、信じる。証の力を信じる。
 ラカンカのように、証を額に当てた。お願いだ、ボクに力を貸してくれ。ファリニス、ボクに力を……。
 証から熱が伝わる。ふつふつとした脈動が伝わる。身体の内部から血潮が溢れ出し、証へと集中していくような感覚がした。猛烈に熱い。この熱を放出しなければボク自身が溶けてしまいそうだ。どこから放出する?証だ。証から放出する。
「ハガル!」
 証を掲げた。それと同時に後ろへと吹き飛んだ。竜巻が生き物のように地を這い、威力を増して天井に上っていく。それはさながら龍のようで、一頻り天井をのたうち回った後、徐々に沈静化して消滅した。
 呆然とした。一瞬、何が起きたのか飲み込めなかったが、駆け寄るラカンカの笑顔で自分が発した術なのだと分かった。
「すごいです、翔平様!最初からこんな事ができるなんて!さすがです!」
 興奮して助け起こすラカンカの顔。周囲の魔術師たちも唖然として振り返っていた。ブロジュは目を丸くして口角を上げている。バージは……相変わらず感情の読めない目でボクを見ていた。
「これはこれは」ブロジュが前に進み出た。
「我が当主様はすでに術を身につけておられるようだ。さすがは真の名を呼ぶ者。我々はあなたをお待ちしておりました」
 胸に片手を当てたまま、跪く師に導かれ、魔術師全員が次々とそれに続いた。
 ボクにこんなことが出来るとは思わなかった。考えたこともなかった。でも、単純に嬉しいのは事実だ。コンプレックスだったアザが誰かの力になる。そう思っただけで、気分は高揚した。
 それから幾日は魔術師と一緒に術の訓練に励んだ。ボクは優秀な生徒だったけど、日が経つにつれ濃さを増していく靄に、この程度では駄目だと焦りを感じる。
 おまけに訓練はそれだけではなかった。書庫に籠もって字を読む練習をした。真の名がつらつらと書かれた書物を前に気持ちが滅入る。アンクーによって燃されたそれも見事に復元され、支配と解放の準備は着々と整っていった。
「そろそろ休憩なさってはいかがですか」
 書庫に入ってきたのは、ボクの身の回りの世話をするニコレッタだ。基本、真の名を呼ぶ者以外は書庫に入れないけど、彼女だけは特別だった。それくらいブロジュから信頼されていたし、同志としての経験も長かった。バージとは旧知の友で、時々、無愛想な彼の様子を教えてくれる。
「バージは今日も見回り?」
 ボクはサンドを頬張りながら言った。彼女の作るパンは格別だ。
「ええ。民の街まで行くこともあるようですよ。状況はあまり良くないみたいです。でも、翔平様はそんなこと気にしないでください。今は、出来る事を精一杯やっていただくことの方が大事です」
「バージみたいなことを言うね」ボクはため息をついた。
「あの人、ボクの護衛士だよね。ファリニスとは比べものにならないのは当前だけど、がっかりって感じなのかな。未だに会話らしい会話はしたことがないよ。口を開けば『書庫にいろ』しか言わないし、なに考えてるか分からないし。気に入らないならそう言えばいいのに」
「そんなこと言わないでください……」彼女の温和な顔が曇った。
「ファリニス様を失った時のバージノイドは見ていられなかった。不意打ちを食らった結果ですからね。その二の舞を踏むまいと、彼なりに警備を厚くし、前兆を掴もうと躍起なのです」
 何も言い返すことはできなかった。確かにそうなのだろう。あの別れは酷だった。ボク自身も分かってはいるのに、なかなか割り切れない。
「それに……」彼女は口籠るように続けた。
「バージノイドはあなたの部屋の前で眠っています。剣を抱えたまま、扉に縋って……」
「バージが!?」
 初耳だった。そんなこと誰も教えてくれなかった。きっと彼が口止めしたのだろう。ボクの事を思って……。
 子供のような自分が恥ずかしい。それと同じくらい不安がよぎる。現実感はおろか、心の準備も出来ていないボクに何が出来るのだろう。前を向きたくてもなかなか覚悟が出来ない。
「みんなを守れるだろうか。ファリニスみたいに……」
 そう呟くボクに彼女は言った。
「わたし達もあの頃とは違います。今度は、わたし達があなたをお守りする番です」
 自分が情けない。ニコレッタの言っていることは本当だろう。でも、それでいいのか、翔平?
「頼りない当主だな!」
 自嘲するボクに、彼女は顔を見合わせて笑った。
「ねえ、真の名で支配されるってどんな気持ち?」
 この世界の仕組みが分かりかけてきた今、どうしても切り離せない疑問だ。もっと知りたい。真剣に向き合わなければ。そう思わせてくれたのは、新たな『仲間達』だった。
「難しい質問ですね」ニコレッタは食器を片付けながら悩んだ。
「安心感、ですかね。ほら、背中を揺るぎない力で支えられていると、勇気が湧いてくるような、癒やされるような、そんな感じ。分かります?」
 真の名を呼ぶ者を百パーセント信じているのだろう。強いバックボーンがあれば安心できる。そんな感じだろうか。
「ボクのいた世界では、支配は息苦しいものだと思っていたから不思議で……」
「息苦しい……!」彼女は生まれて初めて聞く言葉のように目を丸くした。
「考えたこともなかったですね!」
 すると、いきなり扉を叩く音がした。それは忙しなく、只事とは思えない。
「翔平、ここにいるのか!」
 バージだ。
「翔平様、見て!」
 ニコレッタが指を向けたのは天窓だった。そこには、エドモスが居た。ファリニスの遺言以来姿を見せなかった妖霊が現れた。
 何かが起きる。ボクの心臓は早鐘のように打ち始めた。

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