十 偽りの秩序

 ボクは目覚めた。木の梁がある天井は見知らぬ物で、ランタンの明かりがボクの顔を照らしていた。全身に鉛の重みを感じる。どれだけ眠っていたのだろう、喉は渇き、じっとり汗が滲んだ。
「どうですか、気分は」
 いきなり横合いから顔を覗かせ、ボクに微笑みかける人物がいた。吸い込まれる様な翡翠の眼差しに一瞬にして心臓が高鳴った。肌は陶器を思わせ、長い金髪を後ろに束ねている様は慈愛に満ちた女神を連想させる。それら性を超越した容姿が幻に見えて、視線を外す事ができなかった。
「驚かせてしまったかな。まだ夢の中に居るようだね」その人物は眉を微かに上げ、再び微笑した。そして、こう言った。
「僕はオプシディオ。ラカンカの兄であり、癒し手だ」
 彼がラカンカの兄さん。こんなに妖艶な男性がこの世にいるのかと、鼻筋から後れ毛までを繁々と眺めてしまった。
「翔平殿。あなたが新たな真の名を呼ぶ者ですね。お会いできて光栄です。毒牙に犯されて危険な状態でしたが、もう大丈夫です。ここは僕の館。屋根裏で少々窮屈かもしれませんが、外部から見えない構造になっているので御安心を」
 ああ、ボクはジェラとライゾという妖霊に助けられた。バージと共に。全ては夢ではなかったんだ。柳瀬の死も。
涙が溢れそうになるのをぐっと堪え、無言で目を閉じた。
 すると、ギシギシとした複数の足音が聞こえ、まさかと思うような希望の声が上がった。
「目が覚めたか!無事で良かった……」
 目を開け、僅かだが身体を起こした。そこには、ブロジュが立っていた。彼は歓喜の声を発しながら近寄り、ボクの頭をぐしゃぐしゃにした。
「ブロジュこそ。無事だったんだね!」
 彼が生きていたのが嬉しくて、久しぶりに笑った。
 屋根裏の入り口には壁に縋ったバージが立っていた。彼もボクの様に全身に綿布を巻いていた。彼がここまで負傷していたとは、あの時は気づかなかった。
「ありがとう……」
 ボクはバージに向かって言った。すると彼は微かに口端を上げ、頷いてみせた。
「ブロジュ、良く無事でいてくれたね。屋敷が墜ちたと聞いてもう駄目かと思った」
 途端にブロジュの顔が曇った。
「それもこれもラカンカのお陰だ。彼がわしを助け、ここに通じる秘密の通路まで導いたのだ」
「ラカンカは……?」
ボクもまた眉を顰め、オプシディオの顔を見た。彼は刹那、翡翠の瞳に暗黒の色を滲ませた。しかし、直ぐに視線をずらし、器に水を注いだ。
「彼は人質になった同志を助ける為に残った。大多数の同志が血祭にあげられたが、逃げおおせた者もいる」
 ブロジュと共に頭を垂れた。今、同志がどんな思いで屋敷に捕らわれているか。オプシディオがどんな気持ちでいるか。それを考えると居ても立ってもいられなかった。
「助けにいこう」
 答えはそれしかなかった。
「それは駄目だ」ブロジュは即座に答えた。
「そう思うのはわしも一緒だ。しかし、奴の思う壺。同士の死を無駄にしない為にも綿密な計画を立て、軽率な行動は慎むべきだ。分かるな」
「でも……」
「弟は」オプシディオは手にした器をボクに渡して言った。
「真の名を呼ぶ者に忠誠を誓い、それを何よりも誇りにしていました。あなたの事を素晴らしい当主だと、口を開けばその事ばかり言っていました。だから、ラカンカの選択を僕は間違っていないと思っています」
 彼は再び瞳に光を宿した。それは、どこかでボクを抑止する光にも見えた。
「真の名を呼ぶ者なんて大嫌い!」
 いきなり屋根裏に新たな声が響き渡った。全員が振り返り、声の主を見つめる。
 そこには人形を両手で抱き締めた幼い少女が赤い唇を震わせて立っていた。彼女は早足でボクに突進しながら、そしてベッドの枠に身体をぶつけながら、人形を振り落として叫んだ。
「なんで、ラカンカが残ってあんたが生きてるのよ!」全員が呆然とする中、ベッドの上に乗りかかった。
「あんたが死ねば良かった!のうのうと生きてるあんたを許さない!」
「ミオ!」
 オプシディオが慌てて少女を取り押さえ、駆け寄ったバージが荒ぶる拳からボクを守った。
「離して!」と言いながら顎で切りそろえられた黒髪を振り乱す少女に驚きはしたが、不思議と嫌な気はしなかった。やっとボクを責める人がいる。ボクを駄目だと言う人がいる。屋敷が墜ちたことをボクにせいにしてくれる人が現れた。
「どうして兄さんは平気でいられるのよ!」
 オプシディオに抱き締められ、その胸の中で泣きじゃくる少女はボクにとって自然な姿に映った。そして、そのことに安堵している自分がいた。
「申し訳ない」オプシディオは言った。
「妹に悪気はないんだ。ちょっと失礼する」
 彼は少女を抱える様にして屋根裏を去った。彼女の泣き声が遠ざかると共に静寂が漂い、ボクは乱れたシーツの一点を見つめた。
「心眼のミオ」沈黙を破ってブロジュは言った。
「彼らの末の妹だ。嬰児の頃、両親を妖霊に殺され、以来一族を憎んでいる。生まれながらに視力を持たず、心で他人の機微や不調を察する。今ではオプシディオの助手として民を救う立派な魔術師だ。彼女は支配を受けていない第二世代の子供。それ故に、あんな態度を……」
「いいんだ」ボクは言った。
「彼女の言っていることは間違ってないから……」
 自虐に満ちていただろうか。バージがボクの肩にそっと手を置いた。
 それから数日がすぎた。ボクの身体が全快するまで、毎日癒し手の処置が施された。朝と晩にはバージが様子を見に現れる。それ以外は殆ど屋根裏に閉じ込められているといった具合だった。ブロジュが言うには、今となっては妖霊が見境なく浮遊し、ボクの行方を探っているらしい。
 しかし、この館の構造は複雑で、屋根裏の小窓は張り出し屋根がついていて、外部から死角になっている。例え虱潰しにしても、隠し扉で隔たれたこの部屋を発見するのは困難だそうだ。そんな風に民に守られながら、ミオの言う通り、のうのうと生きている自分は何なのか。今のボクに出来ることは何だ。疑問は募る一方だ。
 ある日の午後、屋根裏に駆け上ってくるバージが居た。彼はボクの横を無言で通り過ぎ、小窓に張り付いた。手には大剣を携え、口元に人差し指を持っていき、喋るなと示した。
 ぎゃああああああああ。
 まるで人間の悲鳴のような声がした。ボクは飛び上がり、バージの顔を見た。
「妖霊が近くにいる」彼は小声で言った。
「気をつけろ」
 これが妖霊の鳴き声……一度聞くと鼓膜にこびり付いて離れないその響きに、薄ら寒くなった。彼は小窓を微かに開け、辺りの様子を確認しては下を覗き込んだ。そして、彼の隣につくボクに対して「おまえは見るな」と言った。
「どうして」
 小窓の隙間からは張り出し屋根の裏側が見えた。覗き込まない限り何も見えない。
「見ない方がいいからだ。離れてろ」
 そう言って、ボクを軽く突き飛ばした。
 外からは妖霊の声に混ざって民のざわめきが聞こえた。
「逃げろお!」
 それらの悲鳴は白昼に現れた妖霊に対する、更なる恐怖と動揺を与えた。
「ボクにも見る権利はある」
 遅れてブロジュも現れた。彼は背後からボクの肩に手を置き、首を横に振った。
「ボクは当主だ。何も知らずに守られ続けるなんて出来ない。知っておかないと……」
 バージは暫し目を細めた。まるでボクの真意を探る様に。そして、指を折り、軽く手招きした。
「バージノイド……!」
 ブロジュが身を乗り出すのを、彼は手を伸ばして押し止めた。
 どうして二人が制止するのか、ボクは小窓から覗き込んで知った。そこには想像を絶する光景が待ち受けていた。
 逃げ惑う民を無作為に切り裂き、笑いとも取れる鬨の声を発する異形のモノ。初めて見る民の街は、煉瓦に飛び散った血飛沫で赤黒く染まり、永年の廃墟の様にくすんでいた。
 ボクは一歩後ろに退いた。玩具の如く扱われる人間。翼を持った妖霊は次々と民を宙に持ち上げ、地面に叩き落としていた。
「た、助けなきゃ……」
 ボクは震える声で言った。全身から血の気が引き、恐怖と怒りで視界が渦を巻いた。
「駄目だ」バージは言った。
「おまえが見ると言った。その答えがそれか?民は命がけでおまえを守っている。それを無駄にすることは許さない」
「でも、民が目の前で殺されているのを見ている訳にはいか……」
 横面を叩かれた。よろめいたボクは背後に居たブロジュによって支えられた。
「甘えるのもいい加減にしろ。闇雲に行動することがどれだけ民に影響を与えるかまだ分かっていないのか。理想は結構だ。しかし、今は回復することに専念する。それが民や同志の望みだと何故分からない」
 頬が痛む。涙が一筋こぼれたが、反論することは出来なかった。バージの言う通りだ。どんなに辛くても、守られる価値がないとしても、今は耐えなければならない。辛いのはボクだけじゃない。仲間を失ったブロジュやバージがどんな思いでいるか。その事を考えてはいなかった。
「こんなのは間違っている……」ボクは言った。
「だけど、今は……民の痛みを味わうよ……」
 それが当主である証。ボクが無事でいることが、民の希望になるはず。そう自分に言い聞かせ、涙を拭った。二人は無言だった。ただ、小窓から外を見ているバージの横顔は、どこか哀し気だった。
妖霊の鳴き声が遠ざかる頃、階下が騒がしくなった。ボクは「大丈夫だから」と二人に告げ、屋根裏部屋を出た。身体がまだふらつく。それをバージが支えてくれた。
「行かせてもいいのか」
 ブロジュはそう言ったが、彼は頷き、ボクを階下へと導いてくれた。
 下へ行くのは初めてだった。物置部屋を抜け、廊下へ出る。そこからは吹き抜けのエントランスが見え、その広間には横たわる民とオプシディオ、そしてミオが居た。
「ゴールさん、しっかりして!」
 癒し手は血まみれになった民の胸に両掌を当て、癒しの光を放っていた。ボク達は懸命に処置する様子を柱の陰から見つめた。
 遠目から見ても絶望的だった。世界屈指の腕を持つ癒し手をもってしても、彼を救うのは困難だ。
ボクはいつしか歩き出し、エントランスに続く階段へ向かった。それをバージは止めなかった。そのことに感謝した。
 ミオは気配を感じて振り返った。そして「翔平……」と、不思議そうに呟いた。
「先生……」
 ゴールさんと呼ばれる民は、うわ言の様に漏らしていた。それに応えながら、オプシディオは全力で呪文を唱えている。
 ボクはその傍らに跪いた。ちゃんと目を開けて見ておかなければ。これが現実。民の街で日々起きている出来事なんだ。
「翔平殿……」
 オプシディオの額には玉の汗が浮かんでいた。彼はボクを見つめ、そして、発する言葉を待った。
「ボクは真の名を呼ぶ者」
 そう言いながらゴールさんの手を握った。彼の指先は信じられない程冷たかった。
彼は虚ろな目でボクを見た。今にもこと切れそうだった瞳に薄く光が射し、瞬く間に涙が溜まった。
「ボクを守ってくれて……ありがとうございます」
 ボクの頬にも涙が落ちた。この言葉をどうしても伝えたかった。何も知らないボクの為に命をかけてくれた事。不甲斐ないボクを守り続けてくれた事。言葉では伝えきれない思いが過った。
「あなたに、会えて……光栄、です……」
彼は乾いた唇で絞り出すように言った。
「あなたの真の名は……?」
 ボクはゆっくりと静かに問うた。証に意識を集中し、ドクドクと脈打つ鼓動を聞く。
「ス、ステア、ラード……」
 彼は微笑を浮かべて答えた。自分の運命を悟ったかの様に。そんな彼に対し、今のボクに出来る事。それは……。
「ステアラード。あなたを解放します」
 あなたに自由を。
 ゴールさんは一筋の涙を流し、そして果てを見つめると、眠るように息を引き取った。
「ゴールさん!」エントランスに響き渡る癒し手の声。
「こんなに善い人がどうして……」
彼は地面に両手をつき、声を上げて、泣いた。

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