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一 遺言/アルカナ眠る君に嘘はつけない

──僕があの人の存在を知ったのは、義父の最期の言葉を聞いた時だった。
 悠真《ゆうま》は棺の上に片手を置き、井草と枕花の甘苦い匂いが立ち込める客間で、義父との別れを惜しんでいた。
 連れ子であった悠真を実の息子のように可愛がった義父。こうして大学まで進学させてくれたことを、彼は何よりも感謝していた。
 母は悠真が高校一年生の時に他界した。たった一人の肉親を失う悲しみは、彼にそれ以上の虚無を与えた。
 運命は残酷だ。女手一つで育ててくれた母の命をなぜ神様は簡単に奪ってしまったのだろう。二年という短い間ではあったが、義父と三人家族ですごせたことは、母にとってせめてもの慰めだと感じた。
 そして、大学四年生の秋、彼は天涯孤独になった。
 義父の口から初めて語られた、仁《じん》という義兄の存在を知って……。

 密葬を望んだ遺言を尊重して、火葬までの一日を自宅で安置することにした。義父にはできるだけのことをしたいと望んでいても、こうして一晩中側に居ることしかできない。
 義叔母が別室に居る他は、虫の音すら聞こえない、弔いに相応しい夜だった。そのはずが、突然の来訪者によって一変した。
「仁《じん》!」廊下をけたたましく踏みしめる音。同時に義叔母の当惑した怒声が響いた。
「何しに来たの」
 前触れもなく引き裂かれた静寂。彼は棺から身を離すと、障子紙が振動するのを怪訝に見つめた。
「仁……」
 義兄だ。前妻との間に生まれた一人息子のことを、義父は亡くなる寸前まで触れなかった。十も歳の離れた相手ではあったが、兄弟を知らない悠真にとって、その存在は未知の者に触れる期待感に溢れていた。
 そう思うや否や、この場に不釣り合いであろう、絢爛な花束を担いだ男が猛然と現れた。
 彼は棺だけを直視していた。形の良い切れ長の目。その一瞥は静寂を孕み、凛とした気品と鋭さがあった。それとは相反する開いた袖口と緩めたネクタイ、胸元の開いたワイシャツが、おぞましいほど官能的だった。
──義兄さん。
 これが兄という存在なのだ。自分には手に届きそうもない成熟した男の姿。悠真は不可思議なバランスを保つ人物を呆然と見上げ、彼が真顔で花束を振りかぶるまで凝視していた。
 黄色い花弁が煙の如く舞った。男はそれを鞭のようにしならせ、棺を何度も殴打した。
「何するんですか!」
 突然の出来事に狼狽した。反射的に棺の上に覆い被さったものの、義兄の燃え盛る感情は途切れる気配がない。茎の束を投げつけたかと思えば、次には一枚の紙をちぎり、雪のように散らし始めた。うつ伏した悠真の両肩に、それは、はらはらと落ちていった。
「恥知らず!」義叔母が叫んだ。日頃は穏やかな気質なだけに悠真は脅威を感じた。
「父親によくもこんなことを。出て行きなさい!」
 その言葉通り、躊躇いもなく踵を返す仁。瞳孔一つ動かさず、彼女の横を素通りしていく。
──どうしてこんなことを……。
 彼は伏していた顔を上げると、勢い良く立ち上がった。
「待てよ!」
 憮然と去っていく背中を追った。服が映える肩幅と均整の取れた体型。撫でつけていたはずの髪も乱れ、そこはかとない禁欲と正体の見えない性を感じる。
 背中に爪を立てる言葉にも反応しない後ろ姿は、ぽっかりと口を開けた闇夜に消えようとしていた。
「義父さんに謝れ!」
 悠真はとうとう腹の底から叫んだ。すると、男は漸く立ち止まった。
「謝る……?」返ってきたのはとても淡々とした、しかし、聞き心地の良い声だった。
「おまえは何様だ」
 注がれた高圧的な眼差しに、途端に委縮してしまった。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのこと。悠真は両手を握り締めると、震える声で言った。
「あんなことをするなんて酷い……僕にとっては大事な義父さんなんだ!」
「義父さん……」仁は冷えた視線で薄ら笑うと、睨む義弟を上から下まで眺めた。
「おまえは誰だ。内輪のことに口出しをするな」
 握った拳が戦慄いた。男が見つめれば見つめるほど、僅かな眼力も萎んでいく。
「ゆ、悠真。義弟の……」
「ああ」口端だけが微かに動いた。
「 <義父さん> か。良く仕込んだもんだ。いわゆる調教に成功ってやつだな」
「やめて下さい。義父さんに失礼だ!」
 彼は本当に義父の息子なのだろうか。そんな疑問が湧くほど、悪意に満ちたそれが信じられなかった。
 一方で、当の仁は別のことに興味を示していた。悠真の困惑した複雑な眼差し。深く刻まれた二重を強調する涙袋が妙な憂いを与えている。その不均衡な艶を一つ一つ確認するかのように、強い視線を滑らかな肌に刻んでいた。
 悠真は皮膚の下に入念に隠したものまで覗かれている気分になった。堪らず顔を背けようとしたが、いきなり前髪を掻き上げられ、頭を鷲掴まれた。
「な、なにすんだよ!」
 押しのけようともがく悠真に、男は鼻で笑った。
「おまえを息子にするとは、あの好色爺さんらしい体のいい囲い方だ」
 それだけを告げると、邪険に頭を突き離して再び踵を返した。
──体のいい囲い方……?
「ちょっと待てよ、義兄さん!」
 悠真はよろめきながら、すげなく去っていく背中に向けて叫んだ。
「認めない」しかし、仁はすかさず言葉を遮ると、肩越しに眇めた。
「俺に弟はいない」
 それ以上は踏み込めない絶対的強さ。悔しいことに、彼には何者も抗えない支配性があると感じた。
 悠真はその場に立ち止まると、消えていく男を朦朧と見送った。父の死を悲しむことなく、築いた壁を強固にする義兄を。
──仁を……頼りなさい。
 義父が残した遺言。彼はこうなることを予測しなかったのだろうか。どんな思いでそれを残したのか。義兄に会うことで、真意が土に埋もれていった。
 客間では両肩を落した義叔母が、ばら撒かれた紙片を寄せ集めていた。
「義父さんと義兄さんの間に何があったんですか」
 さりげなくそれを手伝いながら、沈んだ義叔母の横顔を一瞥した。その質問に彼女は首を振って言った。
「あなたは知らなくてもいいことよ」それ以外は何も答えなかった。
 悠真はふと紙片を見つめ、そこに書かれた文字に息を呑んだ。特徴的な筆跡は紛れもなく義父のもの。
「ちょっと待って、これ義父さんの……」
 義叔母からそれを奪い取ると、パズルのように繋ぎ始めた。
「やめておきなさい」
 止められるのも構わず、一心不乱に宝の在りかを探した。
 それは、仁に宛てた手紙だった。便箋の中央に一言だけ書かれていた遺言。義兄はこれを見て何を感じたのだろう。
──悠真を頼む──
 余りあるほどの、愛情だった。

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某BL雑誌でA賞を取った作品です。 完結しています。全27章。凡そ75000字です。 18禁指定。少しハードなBLです。

義父の通夜で初めて義兄<仁>の存在を知る悠真。実父を憎む冷淡さがありながら禁欲的で支配性すら感じる魅力に悠真は不覚にも魅せられてしまう。目…

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