一 時が来た

 ぱこーん!
 ボクの脳が震動した。
何故。何事が起きたのだろう。霞とも違う。至極薄い、闇の渦が視界を塞いでいる様だ。
そこに、純白の光が射した。
「いい度胸だな、古賀翔平。内申書をお楽しみに」
 やけに響き渡る太い肉声。耳をくすぐる羽毛の様な笑い声。
 純白だと思った光は正面に掠れて見えるシャツの色と、頬を撫でる陽光だった。
 わかっている。そうだ、ボクはみんなに笑われているんだ。
 こいつのせいでね。
「いってぇよ」
 そう、肩越しに一瞥を送ってやると、丸めた教科書で口を隠しながら肩を震わせている柳瀬が小声で言った。
「起こしてやったんだよ。恥かくよりマシだろ」
 恥?と、ボクが凄む前に、あいつの目が沈んだ。
「また『バージ』って言ってたぞ」
『バージ』か……そうだった、そんな気がする。まさか、授業中にまで魘されるとは……。
「そこ、静かにする!」
 マンの声が胃に響く。彼はいつだって全力だ。
「仲がいいのは良いことだ。だがな、今はセンター前の大事な授業。TPOをわきまえろ。T・P・O!」
「はあい、すんませぇん」
 笑い羽毛が飛び散った。粘り気のある全力投球を、のらりくらりと躱すのは柳瀬の特技だ。
 マンは鼻を鳴らした。呼吸のように出るはずの皮肉も、柳瀬を前にすると乙女のように押し黙る。マンというあだ名をあいつがつけたと知った日から、やつには何も言わなくなった。鍛え上げた自慢の肉体をスーパーマンみたいだ、と褒めちぎったのは正解で「長いから『マン』にしましょう」と、意気揚々宣言したことがよほど嬉しかったのだろう。
「マンとあだ名をつけられちゃいましてねぇ」
 と、職員室で嬉々としていたのをボクは見逃さなかった。
 女子のみならず先生までも虜にするとは。世渡り上手の上をいく人たらしは尊敬に値する。
 それなのに「古賀は居残り!」と言われて「何でボクだけ」と、返せない自分も嫌だし「分かりました……」と、つい口にしてしまった自分も嫌だ。
 四の五の考えている間にも携帯電話が点滅を始める。柳瀬だ。あいつは後ろの席だろうと構わずメールを送ってくる。窓際の席をいいことに、やりたい放題だ。
──まだ例の夢をみてるのか?
 柳瀬は知っている。ボクが十八の誕生日を境に『バージ』という、奇妙な夢に魘されていることを。
 そもそも正反対のボクらが親友になれたのは、あいつのゴリ押しがあったからだ。
 右手首から甲にまで及ぶまだらなアザのせいで長年虐げられてきたボクに、クラス替え初日、あいつは脳天気な事を言ってのけた。
「タトゥしてんの?超カッケーッ!」
 初対面とは思えないほど図々しく、ボクの手首をしげしげと眺めた。
「そんなに良いもんじゃ……」
 今までのボクは周囲の取り繕った視線に耐えられなくて、リストバンドで隠そうとしていた。そのたびに父が言う。
「悪いことをしているわけじゃないのだから堂々としていろ」と。
 父さんにはわからない苦しみ。だけど、一度隠せば永久に隠し続けなければならないことも知っていた。十八だし、大人になろう。そう思って新学年を迎えるとこれだ。
 羞恥と腹立たしさで返す言葉が見当たらず、ただ口籠るボクの気持ちを察する気もないのだろう。あいつはひたすら言葉を続けた。
「手首のタトゥって痛いんだってな。神経に近いだろ。おまえ耐えたの?すげぇ!」
 あいつの目は本気で輝いていた。そこに邪な気持ちも憐れみもない。ただ素直に興味を持っているといった風だった。
「あいつら喜ぶだろうなぁ……天然ウォーターブレスっての?」
 鬱陶しいほどの思い込み。これはさすがに何か言ってやろうと口を開けた途端、あいつは親指を勢いよく立て、ここ一番の決め顔で言った。
「俺、サーファー」
 気付けば笑いを堪えていた。バカだなあって、その時は思っていたと思う。茶髪でシャツのボタンを3つも開けているような、ネクタイを果てしなく緩めているような、そんなボクにはない軽さ。
 でも、その軽さが、あの時のボクには心地よかった。
 それからというもの、寝ても覚めてもあいつと居た。奇妙な夢の原因をさぐる実験はあいつが提案したし、慣れない図書館で書物も漁った。
 だけど、闇の中で響き渡る『バージ』という呼びかけ……そう、呼びかけは、ボク自身の呼びかけなのか、何を意味しているのか、まるでわからなかった。
──やばい。限界。
 これがボクの返事だ。無意識ですら『バージ』という単語に支配されている。まるで、ボクじゃない誰かの橋渡しをしているような、それとも何かの繋がりなのか、客観的に眺めることもできずに疲弊していた。
 その時だった。突然、アザに刺すような痛みが走った。
「いて!」と、叫ぶかわりに左手でアザを覆った。皮膚から伝わる脈動。押さえていなければ爆発してしまいそうな、まるで幾何学模様の生物が皮膚の下で蠢いているような感覚。
 たぶん、ボクは堪らず悲鳴をあげていたと思う。
 だけど、教室内は静寂に包まれていた。柳瀬も、クラスメイトも、マンも、ボクの悲鳴に気付いてはいない。ボクは、叫んでないのか……?
 カーテンがマントのように翻った。
 ガラス窓が小刻みなビートを打ち、隙間風が侵入する。
 紙が舞った。
 校庭の木々が一斉に大波を打つのが見えた。
 木の葉の擦れ合う爆音が木霊する中、ボクだけがその光景を目にし、ボクだけが只中に放り込まれた。
「柳瀬!」
 助けを求めたが、あいつの網膜は空に浮かぶ塵以外、何も映してはいなかった。
「嘘だろ……」
 立ち上がった。
 本能が逃げろと言う。
 でも、ボクの視線は鬱蒼と生い茂る木の葉の隙間に容赦なく矢を放ち、微塵も動けなくなった。
 枝葉がしなり、折れ、目で追うよりも速く道を作り始める。その先にあるであろう、何かに向かって。
 再び叫んだ。
 アザの模様が色濃く浮き上がり、全身の細胞が暴れまわると共に、ふつふつと泡のような光を生み始めた。表皮が躍る。このままだと、閃光が毛穴を貫きそうだ。
 そして、とうとう捉えた。枝葉の幕が開き、視線がある者とボクを一直線に繋いだ。
 そこには、校庭から見上げる一人の男がいた。迷いのない蛇の様な眼差し。額に貼りつく短髪。妙に紅い唇から笑い声が木霊した。
──みつけたぞ。ファリニス!
 ファ・リ・ニ・ス。
 ファ・リ・ニ・ス。
 ボクの周囲を螺旋状に取り巻くファリニスという名の鎖。時折こめかみを打ち、楔へと変化し、瞬きもできなくなった。
──隠れても無駄だ。オレとおまえは離れられない。そうだろ、ファリニス。
 奴はおもむろにライダースジャケットのファスナーを下し始めた。
 革に馴染む褐色の肌。恍惚とした視線でボクの身体を弄るように、自身の胸へと指を這わせた。
 気のせいじゃない。妖艶な指の感触がボクの身体へと伝わる。全身が総毛立ち、しかし、歯を食いしばることもできず、小刻みに震えるだけだった。
──もうすぐオレのモノになる。全て、な。
 ヤツの引き笑いが渦巻く中、ボクに唯一できるのは、意識を失うことだった。

 闇の中。ボクは形のない魂だけで浮遊していた。
──コガショウヘイ。わたしの『名』を呼べ……。
 精神の奥深くにまで浸透してくる声。それは蛇の眼を持つ男ものでのではなかったし、夢で苛んでいた呼びかけでもない。
 ひどく人間味のない、そうかといって鉛のような冷たさも感じない。ただ、ボクにそう告げることが使命であるかのように、淡々とした響きだった。
──あなたはわたしの『真の名』を知っているはず……。
 光が放たれた。まるで闇の結界を解くように。
 放射状に広がるそれは紅蓮の炎へと転じ、しだいに人型を成していった。
 ライオンのように猛々しい赤毛。四方に炎の塵を吐き出しながら揺らめくそれは、畏怖ともいえる感情を引き出した。
 すべてを見透かすような性を超越した顔立ち。炎のヴェールを纏って佇む姿は人間のものではない。
 それでも、不思議と受け入れていた。禍々しい蛇の男とは違う。ただ美しい、と。一つの芸術作品を見るように、そのモノが持つ金眼を見据えた。
 誰だ……。
 そのモノにボクの心が通じたのだろうか。灼熱の髪が踊った。
──わたしをエドモスと呼ぶ者もいる。しかし、あなたが知っているのはその名ではあるまい、ファリニス。
 ファリニス。ファリニス……?
 あの蛇のような男もファリニスと言った。
 ボクをファリニスと呼ぶ見知らぬモノたち。これも夢の一つなのだろうか。
 途端に所在のない心許なさを感じ、古賀翔平であるという確信が揺らいだ。
 起きろ。起きてくれ!
 そのモノの彫刻のような口端が上がった。
──まだわたしを解放するつもりはない。そういうことなのだな。
 ボクを通して別の誰かに語りかけている。
──まだわたしの力が必要だと、そう言いたいのだな。
 金眼が動いた。浮遊していたボクの魂を掴み取ると言わんばかりに、片手を差し出して言った。
──時が来た。あなたにはわたしの『真の名』を呼んで貰わねばならない。それまでは、あなたに死なれては困る。あなたの為だ。共に在るべき場所へと戻るのだ。さあ、来い。
「やめろ!」
 ボクは力の限り叫んだ。叫ぶことができたのだ。魂はボクの身体に戻り、ボクという実体を成す。
 その一方で、そのモノの金眼が微かだが揺れた。
──後悔するぞ。今行かねば、絶望を味わうことになる。
「後悔したっていい。絶望……?何の事だか分からない。ボクには家族がいる。待っている人たちがいる」
 どれくらいの間だろう。互いの目の奥を見合った。紅蓮の炎が静かな炎へと変わるまで。
──いいだろう。いずれ分かる時が来る。わたしの使命はあなたを生かすこと。わたしが必要になった時には『エドモス』と、たった一言呼べばいい。
 そう残して『エドモス』は消えた。
 もしかしたら、もっと訊くべき事があったのかもしれない。すべてが繋がっている確証が得られたかもしれない。でも、詮索するのは危険だとボク自身が訴えていた。
 忘れよう。そうだ。もう、たくさんだ……。

 目を開けると白い天井が見えた。ナフタリンのにおいがする。二方を塞ぐパーテイションは見覚えのあるもの。
 保健室だった。起き上がって初めてベッドに横たわっていたのだと気づく。おそらく柳瀬が気を遣ってくれたのだろう、脇の丸椅子にボクの荷物が置いてあった。
 時計の針は放課後を告げている。
「先生……?」
 人の気配はない。手首に巻かれた包帯だけが一連の出来事を物語っていた。
「あれ……?」
 包帯の一部に微かだが焦げ跡が残っていた。それは、エドモスの仕業だと瞬時に気付いた。血が下がった。これは、夢ではない。現実なのだと、知らしめようとしたに違いない。
 保健室を飛び出した。家族に会いたい。父さん、母さん、容子。今すぐ帰るからね。
「翔平!」
 校門からほどなくした所で、柳瀬の声がした。保健室を出てから一度も止まらなかった足が落ち着きを取り戻し、懐かしさで振り返る。
「そりゃねえだろ」
 そこには、息を切らせて走り寄ってくる柳瀬の姿があった。熱いものが胸の奥から込み上げそうになるのを必死で堪える。あいつに会えて良かったと、心から思った。
「あー、走った」
 いつも以上に着乱れている制服。
「ちょっくら部に挨拶してるうちにおまえが帰っているのが見えてさあ。おいおい、誰が荷物置いてやったんだよってな、まったく。俺に一言もなしで帰るとかアリ?」
 なにも言葉が出なかった。あいつに会えたこと。それだけがボクの救いだった。
「大丈夫なの?おまえがいきなり倒れた時のマンの姿、見せたかったぜ。『ひゃー』とか言ってな。女子も大騒ぎでさ。俺が担いで保健室に連れて行ったの自慢してやろっか」
 柳瀬はいつもの柳瀬だった。あいつがいればボクはボクでいられる。
「ごめん……大丈夫……」
 そう返すのが精一杯だった。これ以上、言葉を発せば、あいつを無限の何かに巻き込みそうで怖かった。
「そっか。大丈夫ならいいけど。帰るなら連絡くらいしろよ。これでも心配してたんだぜ」
 あいつの茶髪もボストンバッグに飾られたサーフボードのキーホルダーも揺れる。日焼けした肌に口角から覗く歯がやけに白く見えた。
「ごめん。もう、大丈夫だから安心して。疲れたから早く家に帰りたかったんだ」
 見え透いた嘘。でも、柳瀬はそれで納得したようだった。
「だったらいいけど。今日はゆっくり休めよ。最近、寝不足だったんだろ?」
「そうだね」
 努めて何もないふりをした。もう二度と、あいつをボクのおかしな現実に巻き込まない。そう誓った。
「心配かけてごめん」
 頭を下げるボクにあいつは何も詮索することなく言った。
「元気そうだし。ま、いっか。じゃあ、また明日な!」
 また明日。
「うん、また明日!」
「休めよー」
 柳瀬はそう言って、手を振りながら十字路を曲がった。
 また、明日。
 その時のボクは、明日なんて来ないことを知る由もなかった。

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