二十 終焉

「代償、代償とうるせぇ……」
 アンクーは唇に流れた血玉をぺろりと舐めた。
「これで満足か、古賀翔平!」
 奴は身を乗り出して叫んだ。そこには清々しさすら感じる笑みを浮かべていた。
「これがあらゆる憎悪を引き替えに手に入れた世界。オレ達で作り上げた世界だ。そうだろ、翔平!」
 恨み、憎しみ、支配、忠誠、偽り。あらゆる感情を目の当たりにしてきた。そして、最後に残ったのは、血生臭い世界。
 こんな世界など望んではいない。ボクはただ、支配のない自由な世界にしたかっただけ……そのはず、そのはずなのに……。
 支配しなかった。奴を殺さなかった。野放しにしたのは、紛れもなく、このボク。
破壊と再生。一つの宿命を共に背負ってきた、もう一人の真の名を呼ぶ者。これが、一族の末裔であるボク達に課されたものなら、認めたくなくても受け入れるしかない……。
「そうだな……」
 ボクは返した。
「翔平……」
 ブロジュは詰め寄った。奴を認めることがどれだけの事か。それでもボクは間違っていないと、顎を上げて奴を見つめた。
 すると、アンクーは満足したとばかりに口端を上げた。ボク達は互いの意志を確認し、混沌とした世界の終焉を肌で感じた。
 すると、奴は突然虚空を見つめた。民やボク達、そして、浮遊する妖霊の視線を一身に受けて。
「我らが一族の末裔!その最期を見届けるがいい!」
 その咆哮と共に突如、不完全な証が閃光を放った。
 身を守る仲間と民、ボクを庇ってバージが覆い被さる。
奴は宙に放り出され、異形のモノ達にその身体を四方八方から切り刻まれた。
 アンクーは笑っていた。笑ったまま、ボロ人形となって地面に落ちた。
「アンクー!」
 ボクは走り出していた。奴の屍に向けて。
「翔平!」
 バージが肩を掴む。自分でもどうしたいのか分からなかった。ただ、奴を一人で逝かせる訳にはいかなかった。
 しかし、ボクが行くよりも早く奴の元に立つ一体の妖霊が居た。それは、四肢を折られた子供に生命の血を飲ませた、奴を唯一救った妖霊だった。
 その異形のモノは無言で奴を見下ろし、息絶えた身体を淡々と肩に担ぎ上げた。そして、空へと浮かび上がり、幻惑の森へ向けて飛び去って行った。
 暗黒の化身……破壊者は、消えた。まるで存在すらしなかった様に。静寂が流れ、誰もが呆然と立ち尽くしていた。
 その一方で、異形のモノは浮遊したまま、ボクを見下ろしていた。
──残るは真の名を呼ぶもの、貴様だけだ。今ここで代償を払って貰おう。さもなければ、我らと人間の全面戦争は免れない。どちらかが死に絶えるまで、永久に貴様を追い続けることになるだろう。
 すると突然、立っていられない程の突風が轟音と共に駆け抜けた。ボク達は吹き飛ばされ、風が熱波に変わるのを歯を食い縛って耐えた。空全体が目を開けていられない程の七色の光に包まれ、両足で地を踏みしめながら唸りを上げた。
 熱い。肌が焼ける様だ。ボクらも民も不可思議な現象に恐怖と戸惑いを見せた。
 その中で、力強く彼方まで轟く鳥の鳴き声が響いた。
 ボクは顔を上げ、聞き覚えのあるその声を確認した。ライゾだった。
 同時に、虹色の光の中に楕円の繭玉が出現し、まるで生きている様に蠢いた。
「バージ、あれを見て!」
 美しかった。熱波は止み、空には虹色のベール。半透明な光に包まれた繭玉は辺りの光を吸収し、次第に人間の形を成して行く。赤子の様に己を抱き、両足を折って蹲っている。それは、ゆっくりと目を開け、黄金の瞳を覗かせた。四方にうねる赤毛。あれは紛れもなく、エドモス。
「エドモス!」
 ボクは叫んでいた。長い間、待ち続けていた最高位の妖霊ブランクルーン。どれだけ焦がれていたか。あなたが居たら、どんなに良かったか……。
 涙が溢れていた。繭玉を吸収し、生まれ来るエドモス。閉じた両腕を開き、神の様に宙に浮かぶ姿は眩しすぎ、正視していられない程だった。
──消え去れ。
 エドモスは言った。
──下級のモノが真の名を呼ぶ者を口にすることは許さない。今すぐ、消え去れ。
 畏怖すら感じる眼差しに、異形のモノ達は顔を恐怖に歪ませ、忽ち霧となった。
 エドモスがそこに居る。信じられない気持ちを抱えながら、その金眼を見つめた。
──真の名を呼ぶ者よ、あなたの呼び声が聞こえた。何度も。
 エドモスはそう言い、刹那目を細めた。
「うん、呼んだ。何度も……」ボクは流れる涙を拭って歩み寄った。
「呼び続けたよ、エドモス。何度も、何度も……良かった……やっと、会えた……」
 エドモスが微笑した様な気がした。その瞳は優しく、ボクを見守る。そして、手の平から、そっと丸い毛玉を落とした。それは浮遊しながら、ボクの元へと向かい、ゆっくりと落ちて来た。両手で柔らかなそれを受け取る。
 白と黒の斑の毛が絡み合った艶のある毛玉だった。ボクには何であるかすぐに分かった。撫でた事のある毛並み。これは、ジェラの毛。
「ジェラは……」
 ボクは見上げた。エドモスの元へ行くと言っていたジェラは……。
──そのモノはわたしの一部になった。
 エドモスはみぞおち辺りに手を添えた。
──ここにそのモノは居る。異物に侵食されたわたしを浄化し、救ったのだ。そのモノはあなたの友人だった……感謝する。
「ジェラが……」
 毛玉を頬に押し当てた。懐かしい感触がする。ボクを癒やしてくれた温もり。撫でることを許してくれた友達。共に平原を駆け抜けた事を思い出し、涙がとめどなく溢れた。
 もう嫌だ。これ以上の犠牲や悲しみは。決着をつけなければ。当主として。真の名を呼ぶ者として。
「もう、終わりにしたい。エドモス」
 毛玉を握り締めて言った。
暫しボク達は見つめ合ったが、途端にエドモスの金眼が氷の様に冷たく厳しいものとなった。それは、最高位の妖霊、マリッドのものだった。
──その為には代償を払う必要がある。
 エドモスは淡々と告げた。かつての仲間の片鱗はない。人間と妖霊。確固とした隔たりがそこにあった。
──何を払う。真の名を呼ぶものよ。
 辺り一帯がしんと静まり返った。全員が固唾を飲んでボクの発言を待っている。
でも、ボクは決めていた。それはただ一つ。
「ボクの命を捧げる。一族の滅亡を捧げる」
 城外は騒然となった。それに加えて歓喜する民。二つの感情が入り乱れ、ボクの周囲に仲間が集まった。
「翔平……!」ボクの横でバージは唖然とした。そして、ボクの両肩を掴み、揺さぶりながら言った。
「馬鹿なことを言うな。考え直せ」
「これは必要な事なんだ」ボクは言った。
「ボクが生きている限り、ボクを見る度に、誰かがこの混沌とした時代や苦しみを思い出す。そんな事はあっちゃいけない。ボクは生きていちゃ駄目なんだ。それ程の事をしたんだよ、バージ」
揺れ動く灰色の目を凝視した。
──いいだろう。その代償は成就される。
 エドモスは言い切った。それで何もかも終わりだという様に。
「なんということだ……」
 ブロジュを始め、仲間達は蒼白になってどよめいた。それでもバージはエドモスに食い下がった。
「待て、エドモス。私の命を奪え!魔剣を使ったのはこの私だ!宣戦布告をしたのは私だ!」
 それは違う。ボクがそう思うよりも早く、エドモスが告げた。
──この代償は重い。残念だがあなたの命では代償にならない。バージノイド。
「エドモス……!」
 身を乗り出すバージの腕を掴んで制した。
「バージ、ボクが決めたんだ。支配を解くと決めた時から覚悟はしていた」
 すると、バージはボクの手を振り解いた。
「勝手な事を言うな!」バージが感情を剥き出しにした。ボクに怒りをぶつけている。こんな彼を、今まで見た事がなかった……。
「私は認めない。また私におまえを失えと言うのか。ファリニスを失った時の様に!」 
 胸が張り裂けそうだった。彼の悲痛な叫びを聞き、心が揺らぎそうになる。
「エドモス、連れて行って!今、直ぐに!」
 ボクもバージの傍に居たい。別れたくなんかない。でも……。
 ボクの身体は浮かび上がった。
──真の名を呼ぶ者よ。あなたには借りがある。せめて苦しまずに連れて行ってやろう……。
 エドモスの声が響き渡った。
「翔平、行くな!」
 バージはボクに向かって片手を差し出した。灰色の目が懇願している。ボクの存在を求めている。苦しい。大好きなバージ。大好きな、ボクの友達。
 ボクも手を差し出し、バージの指に触れようとした。エドモスの元に向かって宙に浮くボクは、空を掻く様に手を伸ばした。
「バージ……」
 彼の瞳の奥は、哀しくも、優しい。
 ボク達の指先は微かに触れ、掠めた。
「翔平!」
 身体が空へと向かっていく。霧が、晴れていた。青空が見えていた。七色のベールが空を覆い、彼方へと伸びていた。こんなに美しい世界だったなんて。
 仲間達がボクを呼ぶ声が聞こえた。バージがボクを見上げている。ブロジュがバージの肩を抱いている。絶望だけが漂う戦場の跡が見渡せたが、そこに光が射していた。これは、希望の光。未来へと続く光だ。
 ボクの身体はどんどん空へと浮かび上がり、崩れた屋敷まで見ることが出来た。書庫の外にはオプシディオとラカンカが居た。オプシディオが顔を上げ、ボクを見つめた。
 一筋の涙がこぼれた。何もかも終わった。これでボクの使命は終わり。
 ライゾがボクの周囲を回り、羽で軽く頬を撫でた。
エドモスが近づく。ボクはエドモスの真正面に据えられ、互いの目を見つめた。覚悟を確認するかの様に。
ボクは頷いた。エドモスの指先がゆっくりと伸び、ボクの額にそっと触れる。
一瞬にして闇になった。
終わった……ファリニス、これでいいんだよね……。

──かける。あなたを解放します。

 多分、ボクは微笑んでいた。

サポートをしていただけると嬉しいです。サポートしていただいた資金は資料集めや執筆活動資金にさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。